娘を見送った後で、シャーロットは董士へと視線を戻した。
「それにしても、魔界へはどうやっていらしたのですか。ニンゲンの方にお目にかかるのは、私も初めてです」
 董士は一瞬逡巡して、それから答えた。
「偶然だ。“門”に吸い込まれて、気付けばここにいた」
 相手が『青』の将と関わりのある者であることを考えれば、本当の目的を語るのは愚かしいことだった。董士は適当なことを言ったが、しかしシャーロットが彼の傷の原因となった戦いについて知っているのだとすればこの嘘は全くの無意味であり、その点が不安でもあった。『白』の“聖禍石”を巡る攻防について、彼女たちがどの程度の情報を把握しているのか、それを見定めることが董士には重要だった。
 そんな彼の懸念を打ち消すように、シャーロットが驚きに開いた口を手で覆った。
「そういったことは昔からごく稀に起こっていたとは聞いていましたけれど。それは災難でしたね」
 シャーロットの反応に不自然なところは無く、ただ純粋に驚いているように見えた。しかし、本当に何も知らないのかどうかをこれだけで判断することもできず、董士の胸中にはまだ疑念が残っていた。
 もう少し探りを入れる必要があると彼は思った。
「『水守』についてどういう風に聞いているのか、教えてもらえるか」
「それほど詳しくは……軍の任務については私たちの知るところではありませんから。ただ、噂が流れてくるくらいです。『青』の将が“聖禍石”の奪還を命じられ成功した、と本当にそのくらいで。それを守護していたのが『ミズモリ』だということは周知の事実でしたから、おそらくはその方々に多くの犠牲者が出たのだろう、と」
「しかし、当の『青』の将は貴女たちの家族なのだろう。直接に聞いたりした話もあるのではないか」
 いいえ、とシャーロットは首を振った。
「セドロスは、もうずっとここへは来ていませんから。最後に会ったのは、何十年前だったか……魔将という地位にあって、仕事が大変なのでしょう。それに、仮に会っていたとしても、あの子は任務のことを話しはしなかったと思います。もともと口数が少ない上に、公私を綺麗に分ける子ですから」
「では、彼が今どのような任務に当たっているかも知らないと」
「ええ。あの子のことですから、何の心配も要らないとは思いますけれど。トウジさんはご存知なんですか。まさか、セドロスはまた何らかの任務で人間界に赴いたのでしょうか。それでトウジさんと戦われたとか。その傷、創痕だとお聞きしましたが、まさか――」
 さっと顔色が変わったシャーロットに、董士は落ち着き払った声でしらを切った。
「悪いが、そうではない。この傷と貴女の息子とは何の関係もないし、『青』の将などついぞお目にかかってはいない」
 そうですか、とシャーロットは安心したような残念そうな複雑な表情を浮かべた。その顔に表れた感情で、董士は彼女が嘘などついていないということを直感した。
 そもそも、“獄門”を開こうとしている現在の魔界の動向を思えば、今の時期に魔界に来る人間は退魔師であろうがなかろうがただの危険因子でしかない。そうであると知られた時点で董士は始末されて然るべきである。それがなされず、それどころか手当てまで施されたということは、実動している上層部の意思はここには介入していないということになる。
 必要以上の警戒は不要だと、そう判断して急に自分の体がほぐれるのを董士は感じた。知らず知らずの内に神経を尖らせていたということに、気が緩まった後でようやく気付いた。
 彼のそんな内心を知るはずも無く、シャーロットは部屋の扉の方を少し不安げに振り返った。
「フェリシア、大丈夫かしら。やはり、ひとりでやらせない方が良かったのかも。厨房にはセアラがいるから、彼女が見ていてはくれると思うけれど」
 彼女自身が指示を出したというのに、シャーロットは幼い娘が気にかかって仕方が無い様子だった。
 董士の目から見て、シャーロットは還暦を迎えるくらいの歳に見えた。対して、フェリシアは一桁と二桁の狭間の年齢くらいの外見だ。実の親子にはあまり見えない。あくまで、両者とも人間としての話だが。
「失礼かもしれないが、フェリシアは貴女の本当の娘なのか。フェリシアはあまりに幼いし、兄であるというセドロスとも大分歳が離れているようだが。それに、家紋も姓も貴女とは違っている」
 董士のぶしつけな言い様にも少しも気分を害した素振りを見せず、シャーロットは上品に笑った。
「フェリシアは体が弱かったせいか、他の子と比べて成長が遅れているんですよ。だから実年齢よりも幼く見えるんです。あれでもあの子、三〇〇歳を越えていますよ。だのにまだ三次成長期が訪れなくて、小さいままなんです」
「三次成長期、というと」
「トウジさんは魔族について、あまりご存知ないのですね。魔族の成長の仕方は、魔界の生物の中でも特殊なのです。短期間の急激な成長を定期的に繰り返して、魔族はその姿を変化させるのです」
 シャーロットの話に、董士は興味深く耳を傾けた。彼女によれば、魔族には四回の成長期があって、彼らはその度に飛躍的に身体と、そして精神とを成長させるのだと言う。一次成長期では赤子から幼児へ。二次では幼児から子どもへ。三次では子どもから少年へ。そして、四次成長期を経て、完全な成人体になるようだ。成長期と成長期との間は心身ともに大きな変化は無く、同じ姿を保ち続ける。シャーロットの言葉を頼りに董士が推測したところ、人間でいえば五歳くらいずつ一気に外見を変化させるということらしい。
「では、その後は。老いないという訳ではないのだろう」
「ええ、私を見て頂ければおわかりでしょうけど、魔族とて寿命はあります。大体二〇〇〇歳くらいですか。四次成長を終えて大人になるのがおよそ五〇〇歳で、そのあとは急激な変化は無く、緩やかに成長を続けるようになります。魔族は肉体的な最盛期が長いですから、一二〇〇歳くらいまでは青年期が続きますね。その後、加速度的に老化が始まるのです。私は今、一六八三歳ですから、どれだけ頑張っても余命は三〇〇年程度ですね」
 聞いていて、董士は途中から頭がおかしくなりそうだった。その寿命の長さも去ることながら、魔族の歳の重ね方は人間とはまるで違っていて、すぐには理解できなかった。今の話では、寿命の半分が過ぎてもまだ最盛期だということになってしまう。単純に実年齢差を肉体年齢差に置き換えられないというのは、人間である董士にしてみればなかなかに複雑怪奇なことだった。
「ちょっと待ってくれ。つまり、フェリシアを出産した時は、貴女は一三〇〇歳くらいで、まだ三〇代程度だったと」
「三〇代……?」
「ああ、いや、人間に換算した時の話だ。それにしてもややこしいことこの上ないな」
「そんなにややこしいでしょうか。ちなみにセドロスは一一四二歳ですわ。確かにフェリシアとは歳が大分離れていますけれど、正真正銘、実の兄妹です。二人とも、私がおなかを痛めて産んだ子ですから」
 シャーロットは誇らしげに胸を張った。その額には、家紋である青い紋様が刻まれている。五弁花のような形をしたその紋が、ハーグリーヴズ家の家紋だった。
「トウジさんは家紋についても尋ねられましたね。魔族は両親どちらかの家紋が遺伝されますから、姓はその家紋に従って、産まれた時点で決まるのです。セドロスもフェリシアもフリス家の家紋を授かりました。私と子どもたちが違う姓なのはそのためです」
 結婚をしようと家紋は変えようがないので、生涯同じ姓を名乗ることは珍しくないらしい。董士はようやく合点がいった。彼の疑問点は全て、魔族との生態の違いから来たものだったらしい。
「それで、フェリシアはもう三次成長期を迎えても良い時期なのに、まだ二次を終えた段階のままだから心身ともに幼いというわけか」
「そうなのです。一般的には一〇〇代半ばで三次成長を終えるのですけど、あの子は本当に遅くて。普通の子の倍遅れています。それにしても、ミルクの支度も遅いわねえ、フェリシアったら。やはりひとりでは無理だったのかしら」
 シャーロットは気を揉んでいたが、彼女がそう漏らしてからほどなく、部屋の扉の向こうで革靴の音がした。繰り返されるその音は、どうやら扉を開けてもらいたいという合図のようだ。
 シャーロットが扉を押し開いたその先では、カップを三つ載せた大きな盆を両手で抱えている少女がいた。こぼさないようにと必死の形相だった。
「フェリシア、どうだったの。ひとりでできた?」
「はい、母さま。もちろんです」
 割ってしまったカップを侍女のセアラが只今清掃中である、ということは伏せておいて、フェリシアは自慢げに答え、盆を寝台脇の卓上に置いた。
「さあ、母さまもトウジさんもご賞味下さい」
「ご賞味って……ただミルクを温めただけでしょう、フェリシアったら」
 シャーロットはおかしそうに笑いながらカップを手に取り、一口含んだ。本当なら客人である董士にまず勧めるところではあるが、娘が用意したホットミルクを残念ながら心から信頼できなかったため、失礼を承知で先に口にした。言わば毒見である。
「どう、母さま。おいしい?」
「ううん、少し熱すぎるかしら。火が強すぎたのではないの、フェリシア。私は熱い方が好きだけれど、それでも火傷をしてしまいそうよ」
 見ると、確かにカップの口からはもうもうと湯気が立ち昇っていた。董士はそれを見て、とても手を伸ばす気にはなれなかった。彼は猫舌なのである。あと数分は待たなければ、口に入れることはまず不可能そうだった。
 噴火口のように煙を吐くカップを見つめたまま動かない董士に、フェリシアはおずおずと問いかけた。
「あの、もしかしてトウジさん、熱いのは嫌いですか」
「……好きではない」
 彼がぼそりとつぶやくと、フェリシアはあからさまにしゅんとなった。しかしそれは僅かな間のことで、彼女はすぐに顔を上げると細い眉を引きしめた。
「それでは、私が冷やしてみせます。今すぐに」
「フェリシア、あなたまさか魔術を使うつもりなのではないでしょうね」
「そのつもりです、母さま」
 難色を示した母親に、フェリシアは悠々と答えた。
「駄目よ、フェリシア。あなたは魔力制御の初歩もできないのだから」
「そんなことないわ。この前、成功したもの」
「一度きりじゃないの。安定しないあなたの術では、液体を適温まで冷やすだなんて繊細な操作は無理でしょう。それでなくても、あなたは氷の魔術は特に苦手なのだから」
「大丈夫、私は魔将であるセドロス兄さまの妹だもの」
 フェリシアは腕まくりをしてみせたが、シャーロットの目には少女の細腕は頼りなくしか映らなかった。好奇心と挑戦精神旺盛で、一度言い出したら聞かないのがフェリシアだった。おまけに、すぐに誇りとする兄を引き合いに出しては、彼に釣り合う実力を示そうとしてやまなかった。
 半ば投げやりに、シャーロットはため息混じりの許可を出した。
「いいわ、やってごらんなさい。見ていてあげるから」
「ありがとう、母さま! トウジさんも、私の魔術、しっかりご覧になって下さいね」
 うきうきとしながら、フェリシアは卓上のカップと向き合った。なみなみと注がれた白いミルクを真っ直ぐに見つめるその視線に沿わせるように、フェリシアは両手を突き出した。深く三回、息を吸い込んで吐いてを繰り返す。
 口を固く結んで、瞬きもせずカップを見据えて、フェリシアは両手に全神経を集中させた。渦巻く魔力の流れをイメージして、掌から解き放つ。
 青白い光が煌いて、ひんやりとした冷気が董士の頬をなでた。それで魔術は終了だった。
「できたわ、母さま!」
「できていないでしょう、フェリシア……」
 シャーロットは額を押さえて弱り果てた声を零した。フェリシアの魔術は範囲制御には成功したが、効果制御には失敗していた。目標であるカップだけを冷やしたのは良いのだが、いかんせん冷やしすぎていた。明らかにカップの中のミルクは液体ではなくなっていて、逆さにしても零れないであろうことがひと目で見て取れた。白い煙を吹いているのは先程と変わりなかったが、その理由は全く逆のものになってしまっていた。
 フェリシアは腕を組んで、凍り付いたミルクと睨めっこをした。
「やっぱり、これは駄目なのかしら」
「どう見ても駄目だと思うわよ」
「でも、トウジさんは熱いのが嫌いだって言ったんだし、これくらいでも……」
 気まずそうに、それでも微かな期待をこめて董士の方を見やったフェリシアに、彼は率直な感想を述べた。
「限度を考えろ」
 ばっさりと切り捨てられ、フェリシアは切なげな表情を浮かべながら、やはり彼は兄に似ていると、そう思ったのだった。




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