第五十五話  「ホットミルクの限界温度」


 数分間、その小さな背中を痙攣させてみせた後で、ようやく少女は涙目の顔を上げた。まだ口周りには笑みが残っている。
 少女は軽い呼吸困難に陥ったようで、細い肩を使って苦しそうに息をしていた。その何処か必死な姿に、董士は眉をひそめた。
「……大丈夫か?」
 言った途端、フェリシアは再び布団に突っ伏して、今度は声も無くただ体を震わせた。笑い声すら出せないくらいに、腹筋がよじれてしまっていたのだ。
「その、言い方。それに、言うこと。それが兄さまにそっくり」
 顔を寝台に突っ込んだまま、くぐもった声でフェリシアは息も絶え絶えに言った。涙が布団を濡らしていて、ほてった顔の熱は周りの布に篭ってしまっていた。そのせいで、ゆだった頭は少しも冷えてこなかったが、しかし体を起こすだけの力も入らず、フェリシアはただこの波が引くのを待つしかなかった。それにはもう数分間の時が必要で、その間董士はどうすることもできず、また何もしない方が良いのだろうと思って無言で少女を見ていた。
 やっとのことで落ち着いたフェリシアは今度こそきちんと体を起こし、瞳に浮かぶ涙を拭った。胸元に手を当て、数回大きく深呼吸をすると、少女はどうにか平静を取り戻した。それでもまだ幾らか呼吸が乱れてはいた。
「ごめんなさい。でもトウジさんが悪いんだから。ああ、こんなに笑ったのは久しぶり」
 董士にしてみれば、こんなに笑われたのは久しぶりだ。だが、それを口にすれば、また少女が抱腹絶倒しかねないので黙っておいた。それよりも話の流れを変える方が良策だろう。代わりになるような話の種を探したところ、訊いておきたいことは限りなく存在していたので、とりあえず董士は適当な質問を口にした。
「ここが何処か教えてもらえるか。この家は随分と立派だな」
「ここは『青』の国、アクエルムと呼ばれる地域です。そして、この家はフリス家の館です。と言っても、ちゃんとしたお屋敷ではないですけど。父さまが暮らす方が本当の館で、それはここよりももっと南の地域にあります。ここは昔に使われていた領主館で、住んでいるのは私と母さまと、あとはセアラにリタ――数人の侍女の方たちだけですから」
 幼い外見よりも遥かにしっかりした口調でフェリシアははきはきと答え、育ちの良さが窺えた。董士はそれを聞きながら、草原で倒れる前に見た、湖畔の家並みを思い出した。確か一軒だけ大きな館があったのを記憶している。恐らくは、それがここだということなのだろう。
「どうして、父親と離れて暮らしている。それに、お前の兄も共に暮らしているわけではないのか」
「兄さまは、軍のお仕事で忙しいですから。王都にいらっしゃることがほとんどで……」
 フェリシアが言いよどんだその時、部屋の扉が静かに開いた。董士が視線をやると、入って来たのはダークブルーの服に体を包んだ、初老の女性だった。胸元には白のカメオを着けていて、それが肌を殆ど覆っている服の色によく映えていた。
 女性は董士と目を合わせると、やわらかに微笑んだ。目もとと口もとの皺がほんの少し深くなる。短めの髪はフェリシアよりも深い青色であり、隙無く整えられていて、気品が溢れていた。
「フェリシアの笑い声が聞こえたから来てみたら……目を覚まされたのね。良かったわ。この度はうちの娘を助けて頂いて、ありがとうございました。私はシャーロット・ハーグリーヴズ、その子の母親です」
 女性は深々と頭を下げた。母さま、とフェリシアが長椅子から立ち上がって母親へと向き直った。
「トウジさん、っていうんですって。あのね、あのね、兄さまに似ているの」
「セドロスに?」
 力強く頷いたフェリシアに、シャーロットは少し目を大きくした。
「まあ。セドロスに似た人なんて、そうはいないと思っていたけれど。他でもないフェリシアが言うのならそうなのでしょうね。それはそれとして、フェリシア。少し騒ぎすぎですよ。廊下にまで響いていたのよ、あなたの笑い声」
 ごめんなさい、とフェリシアは肩をすぼめた。それで少し冷静になったのか、フェリシアはまず初めに伝えるべきだったことを思い出し、打って変わってかよわくなった声で言った。
「それで、母さま……トウジさんは、その、『ミズモリ』だって……」
 その言葉に、シャーロットの目は明らかに先程よりも大きく開かれた。濃い青の瞳をしているのが、それでよく解った。無意識の内にシャーロットは董士の姿に食い入るような視線を投げかけた。彼女が口を開くより早く、董士の方が声を発した。
「その子を助けたのは、ただの行き掛かり上だ。礼を言われることではない。だが、そもそもその礼も、俺が退魔師だという時点で撤回されるのかもしれないが」
 敵である退魔師に言うような礼は、魔族は持ち合わせてはいないのではないかと董士は思っていた。最悪、この場で戦わねばならないという可能性まで考えていた。
 シャーロットはしばし表情を固めていたが、やがて入室当初の穏やかな顔に戻った。
「いいえ、そんなことはありませんわ。少し驚いてしまっただけです。むしろ、我々魔族に対して恨みを抱いてらっしゃるのは、退魔師の方々ではないのですか。特に、『ミズモリ』の一族の方となれば、フリス家を仇と思われるのも無理のないことでは」
「命を助けてもらい、怪我の治療までしてもらっておきながら、その相手に恨みつらみを並べ立てるほど恩知らずではないつもりだ」
「それをおっしゃるなら、私たちも同じですわ。娘の命を救って下さった方を、どうして無下にできましょうか。どうぞ、ゆっくりと静養していって下さいな。この辺りは『青』の国の北の果てでのどかな地方ですから、静養には最適ですよ。フェリシアの病気も、ここに来たおかげですっかり良くなったのですから」
「病気?」
 聞き返した董士に、フェリシア自らが答えた。
「私、小さい頃は気管支が弱くて、少しの埃でも咳が出ていたの。外で走り回ったりなんてとてもできなかったし、ベッドの中でいる方が多かった。それで、南のお屋敷からこのアクエルムに越してきたの。父さまはお屋敷を離れるわけにはいかなかったけれど、母さまが一緒に来てくれたの」
「今ではもう、外へ行きたがって仕方が無いんです。最近は長雨続きで不平ばかり。すっかりおてんばになってしまって」
「ひどい、母さま。私、慎みだってたしなみだってちゃんと持っているもの」
 フェリシアは不満げに、その桃色の唇を尖らせた。
「それでは、一人前だってことを見せてもらいましょうか。温かいミルクを三人分、用意してもらえるかしら。セアラやリタの手を借りてはいけないわよ。ひとりでできる?」
「……もちろんできます」
 随分と神妙な面持ちで頷いて、フェリシアは廊下を駆けていった。館内に響く軽い足音に、シャーロットは苦笑した。
「廊下を走るのは、とても慎み深いとは言えないわね」




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