『一撃で、終わらせる』
地面に対し、垂直に立てられた蒼い刃。
『父母と同じ技で沈むが良い――』
 氷のような瞳が彼を射抜く。その下には、鉤型の青い紋。
 刹那、胴に走る六本の傷。凍り付いた傷口。奪われていく体温。
『“六華閃”と呼ばれる技だ』

 青銀色の髪をした男が、自分に向かってそう言い捨てた瞬間、董士は夢の世界から抜け出した。嫌な汗をかくには充分な内容の夢だったのにもかかわらず、体は妙に冷えていて、少しも発汗していなかった。夢の中で受けた太刀が、彼の体から熱を失わせてしまったかのようだった。
 一度限りで充分な体験を夢の中で再び経験してしまうとは、何とも損な話だった。ただでさえ染み付いている苦い敗北感が、一層強固なものになってしまったような気がする。
 現実の世界に戻ってから遅れること数十秒、ようやく全身に血が巡り始めて、董士は小さく息を吐いた。瞳に映っているだけだった風景を、徐々に脳が認識していった。
 初めに理解したのは、金糸で細やかな透かし模様が入れられた、寝台の上に垂れ下がる覆い布だった。随分と豪奢な、と思ったところで、董士は自分が横になっている艶やかな銀地の布団もまた相当に豪奢であることに気が付いた。体を包み込むような柔らかさと心地よさ、そして滑らかな肌触りといったらなかった。
 己がいる場所が何処なのか理解できず、また心当たりも無く、董士は額に載せられていた濡れ手ぬぐいをひょいと取ると、まだ覚醒しきっていない頭を起こした。胸元には新しい包帯が巻かれていて、見覚えの無い小奇麗なガウンを羽織らされていた。何より驚いたのは傷口が殆ど痛まなくなっていたことだったが、鼻を衝く薬臭さはあまり好きになれなかった。
 部屋の内装は、寝台に劣らず立派なものだった。材質の良さと細工・装飾の精巧さが、床や壁から額縁、時計に至るまで全ての物の高価さを表していた。曇りガラスの張られた窓の両脇には、深紅のカーテンがかかっていたが、金糸で施された刺繍が何とも煌びやかだった。董士はますます、己がいる場所の心当たりを失っていった。
 ぐるりと部屋を一周した視線がその身辺に戻って来た時、彼は寝台に上半身をうずめるようにして眠っている少女を発見した。灯台下暗し、小さすぎる少女の姿は、最後の最後にようやく彼の目に留まったのだった。
 昨日の子どもか、と董士は少女の空色の髪を見て思った。気持ち良さそうに寝息をたてている少女は、菜の花色の長椅子に座ったまま上体を銀の羽根布団に預けていて、両者の間に渡された架け橋のようだった。
 初めて見る色の髪の毛に、董士は興味本位で手を伸ばした。少し硬質な髪は美しい直毛で、董士の指をすっと通した。彼の指先が髪に触れたその瞬間、少女の体は跳ね橋が上がるように勢い良く起き上がった。
「いけない、私ったら眠ってしまって……」
 透き通るような睫毛をひらめかせた少女の蒼い瞳と、無言で彼女を見ていた董士の黒い瞳とが、音をたてそうなくらいにぴたりと合った。少女は寝起きのせいかそれとも怪我人が起きているのに驚いたせいか、しばらくは両の手で口を押さえたまま黙りこくっていた。董士も進んで口を開こうとはしなかったので、結果的に沈黙が長く居座る羽目になった。
 亀が一メートルを完走するくらいの時間が流れた後で、少女は思い出したように深く頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。私、居眠りなんてするつもりではなかったのに。ただ、あなたが目を覚ますのを待っていようと……」
「いや、いい」
 董士が短く答えると、少女はおずおずと顔を上げた。
 董士は息を止めそうになった。別段、少女が華のように可憐だったから目を奪われたという訳ではない。少女が可憐だったのには違いないが、彼が表情を硬くしたのは別の理由からだった。
 少女の右目の下に刻まれた、青色の家紋。それは二本の直線が直角に組み合わさった形――鉤型をしていた。見間違えるはずがなかった。今、彼が夢の中で目にしたばかりの家紋だった。
「――フリスの紋」
 董士の声音が強張ったのには気付かぬ様子で、少女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ご存知なんですか。はい、この紋はフリス家の家紋です。私、フェリシア・フリスといいます」
 名乗った後で、少女は笑顔を消して小首を傾げた。
「……あれ、でも、どうしてニンゲンのあなたが我が家の家紋をご存知なんですか。もしかして、退魔の」
 治療をされた時点で人間であるということが知られただろうとは思っていたので、董士はフェリシアの言葉にさほど動揺しなかった。ばれてしまっていることを隠しても仕方が無いと、彼は小さく首を縦に振った。
 言葉無く頷いた董士に、フェリシアはとんでもないことをしてしまったという顔付きになって、おろおろとうろたえた。
「す、すみません。でしたら、フリスの紋に良い印象を持たれているはずがありませんよね」
 それどころか、董士にとっては最悪の印象である。
 フェリシアはまだぎこちない動きの口で、どうにか言葉を継いだ。
「あの、名前を教えてもらってもかまいませんか」
「……水守、董士」
「『ミズモリ』!」
 フェリシアは頓狂な叫び声を上げた。ぎこちなかった口の動きは更に狂い、開いたり閉じたりを繰り返した。
「あのう、ミズモリというと、剣を用いた退魔の術で有名な、ミズモリですか」
「多分そうだ」
「というと、人間界に残されていた『玄』の“聖禍石”を守護していたというミズモリでしょうか」
「まず間違いないな」
 少女の表情は、これ以上ないくらいに申し訳無さそうに萎れた。今にも泣き出してしまうのではないかと董士には思えたほどだ。すっかり俯いてしまったフェリシアは、消え入りそうな声で言った。
「私は詳しくは知りませんけれど、大体の話だけは聞いています。ミズモリの方々にはどうやってお詫びを言えばいいのか。けれど、命令だったのです。仕方なかったのです。どうか責めたりしないで下さい、兄を」
 兄、という単語に、董士は深くため息をついた。やはりか、と思った。同姓なだけで無関係であるという可能性はついさっきまでは残っていたのだが、今の発言で綺麗さっぱり消え失せてしまった。
「すると、お前は『青』の将の妹というわけか」
「はい。セドロス兄さまは私の実兄です」
 すっかり縮こまってしまった少女に、董士はもう一度空気の塊を口から吐いた。言われてみれば、少女の目もとは何処となくセドロスに似ていて、彼の氷の瞳を温めて溶かすことができればこんな風になるのではないかと思わせた。
 萎縮してしまって言葉も無い少女に、董士は重苦しい声で言った。
「そんなにお前が気に病むことでもない。それに、俺をこうして助けてくれたのはお前なのだろう。贖罪としては釣りが来る」
 彼としては大分和らげたつもりだったのだが、少女の耳には不機嫌そうな声にしか聞こえなかった。それでも、相手がそんなに怒っていないということだけは感じられたので、フェリシアは幾分心を落ち着かせることができた。緊張を少し緩めるのと同時に、フェリシアの口もとも緩んだ。
「いえ、でも、トウジさんは私を助けてくれました。お礼を言うのは私の方なんです。本当にありがとうございました」
「ならば、釣りの分はそれで返済したということにしてもらえるか。これで貸し借り無しだ。構わないか」
 淡々と喋る董士に、フェリシアは一瞬ぽかんとした顔になって、その後で吹き出しながらこくこくと頷いた。
「はい、かまいません」
「……何故、笑う」
 フェリシアは喜色を隠そうともせずに表していた。晴れた空の色をした髪は、そうした明るい表情にこそ本当によく合った。
「理由を言っても、怒りませんか」
「言う前からでは解らないが、おそらく」
 少し口篭ってから、フェリシアはひといきに言った。
「だって、トウジさんって、どこか兄さまに似ているんだもの。静かな話し方とか、ちっとも変わらない表情とか、妙に律儀で真面目なところとか」
 言い切ってから、フェリシアはもうこらえ切れなくなったかのようにおなかを抱えると、寝台に頭を沈めて笑い転げた。何がそんなにおかしいのか、理由を言われた後でも董士にはあまり理解できなかった。




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