第五十四話  「青(2) 男は目覚める、そして少女は笑う」


 金の取っ手を両手で掴んで、少女は自身の二倍は優にある赤茶色の扉を少しだけ開いた。そうやってできた僅かな隙間から、室内の様子を覗き見て、控えめに言った。
「ねえ、母さま。入ってはいけない?」
「駄目、と言いたいところだけれど……大人しくしているのなら許してあげます。熱も大分引いたようだし、何より、彼を連れてきたのはあなただものね、フェリシア。気にならない訳がないわよね」
 フェリシアと呼ばれた少女は、母親の許しに目を輝かせて、部屋の中に飛び込んだ。空色の髪が宙に踊った。
「こら、大人しくするって約束でしょう。足音を響かせては駄目よ」
「あ、ごめんなさい」
 少女は小さくなって謝ると、今度はそろりそろりと母親の元へ歩み寄った。革靴と石床では、音をたてない方が難しい。フェリシアは細心の注意を払いながら、他人の目には払い過ぎに映るに違いない忍び足で、ようやく目的地へ辿り着いた。
 部屋の隅にある寝台の脇の長椅子に、フェリシアはちょこんと腰掛けた。菜の花色のクッションは柔らかく、羽根のように軽い少女でもふわりと沈み込む。そうやって幼い彼女なりに努めて大人しくしながら、フェリシアは金紗の天蓋がかかる寝台で瞳を閉じている怪我人を覗き込んだ。
 昨日は晴れとは呼び難くとも久しぶりに太陽が顔を覗かせた。長雨のせいでずっと館の中に閉じ込められていた少女がこの機会にじっとしているはずもなく、フェリシアは母親の注意もなおざりに喜び勇んで外に出て行った。
 母親の注意というのは最近ではもう決まりきった文句だったから、耳にたこができていた。詰まり、あまり遠くへ行ってはいけないということと、暗くなる前には帰ってくるということと、ここのところずっと強い雨が続いていて、河や池や湖の水位が上がっているから気を付けなさいということだった。
 最後のひとつはここ数年になって付け加えられた条件だった。世界規模の環境異変の影響ということらしいが、フェリシアにとっては憂鬱の種以外の何物でもなかった。フェリシアの住むこの土地は、昔はこれほど降水量の多い地域ではなかったのだが、近年になって急にそれが増え始め、今では晴れの日の方が圧倒的に少ないという有様だった。自然、外で遊ぶことができない日が増えた。
 だからこそ、雨の止んだ日は貴重だった。何の計画が無くとも、雨でない日にはフェリシアは家から飛び出した。昨日も同じだった。
 フェリシアが行く場所はたくさんあったが、多くは草野原だった。自宅から続く道は二手に分かれていて、湖の方へ下る道と丘の方へ上る道とがあったが、フェリシアは丘の方を好んだ。色々な野草を摘んだり、それを編んで花冠を作ったり、そういうことが好きで、釣りやボートにはあまり興味が無かった。それに、最近は湖の水かさが増える一方で、危ないから行ってはいけないと言われていた。
 よく晴れた日の草原は太陽の匂いを一杯に吸い込んでふかふかで、そこに寝そべって青い空を眺めるのが本当は一番好きなのだが、もうずっとそれはできていない。今の気象状況では地面が乾くことはまず無く、青空を見ることさえ稀なのだ。フェリシアは雨雲が憎らしくもあり、恨めしい視線を送ることもしばしばだった。
 昨日は一週間ぶりに雨が止んで、その日を待ち望んでいた彼女は足取り軽くぬかるんだ緑野へ向かったのだったが、その外出はいつもと違いただの遊びでは終わらなかった。まず包帯だらけの黒髪の男が苦しそうにしているのを発見し、母親に知らせようと思ったところを大蛇に襲われかけ、そこを当の包帯男に助けてもらったのだが相手はその直後に倒れてしまい、触ってみると酷い熱で、大急ぎで村医者を呼んだのだ。これだけのことが続けばフェリシアにとってはもう最上級の大事件で、昨晩は興奮してあまりよく眠れなかった。
 怪我人を運び込んだのはフェリシアの家の一階の奥の部屋で、診察と治療の最中は勿論、彼の容態が落ち着くまでフェリシアはその部屋に近付けさせてももらえなかった。よく眠れなかった原因には、怪我人に対する不安と、面会謝絶に対する不満もあったのかもしれない。それがようやく、今日の昼時になって許しが出たのだ。
 雲のように膨らんだ羽根布団から顔だけを覗かせている包帯男を、フェリシアはまじまじと見つめた。昨日はあまりに動転していたので殆ど顔を見られなかったのだ。もっとも、動転していなかったとしても殆ど顔を見られなかったに違いない。あの時、男の顔の前には長い前髪がかかっていて、どのような相手であるのかはほぼ覆い隠されていたのだから。
 男の前髪は、今は顔の横に流れていて、その顔立ちを確認することができた。引き締まった頬と顎は、それだけで強い体躯の持ち主であることを窺わせる。眉と口は、どこか他人を寄せ付けないような冷たさを持っていて、その雰囲気が顔全体に広がっていた。眠っている今でも男はその周りに壁を張っているような、フェリシアはそんな気分がした。
 男の額に載せられていた濡れ手ぬぐいがぬるくなっているのを確かめて、少女の母親はそれを水盤で冷やした後、絞ってもう一度彼に宛がった。怪我人の眉間がそれに反応するように一瞬狭まった。
「母さま、この人、どこから来たのかな。『玄』の人なんて、この辺りではあまり見ないのに」
 母親は少し顔を曇らせて、その後で歯切れの悪い口調で答えた。
「そうね。昨日、ウィンストン先生に診てもらった話だと……この人は、ニンゲンかもしれないそうよ」
 フェリシアは心底驚いたように、大きな瞳をぱちぱちと瞬いた。
「うそでしょう、母さま。そんなの信じられない」
「いいえ、本当のことよ。この人の顔には家紋が見つからなかったし、何より、魔力が感じられないってウィンストン先生はおっしゃっていたわ」
「でも、それだけじゃ本当にニンゲンかどうかは」
 魔族には、家紋と魔力が失われる時期が存在する。長い生涯の中で、その時期が訪れるのはただの四度。僅かではあるがその可能性を思って、フェリシアは反論した。その時期に外へ出るような魔族はまずいないのだが、それでも目の前の相手が異世界の住民だとはにわかには信じ難かった。
 フェリシアの言いたいことを察して、母親は静かに首を振った。
「瞳孔も丸いの。ニンゲンの特徴でしょう」
 これはもう決定的だった。魔族の瞳孔は円形ではなく、線のように縦に細長い。これは一生の間、変わるはずのないことだった。母の言葉に、フェリシアはもう数度慌しい瞬きをして、男のことを改めて見つめ直した。
「でも、それでは治療は上手くいったの? この人、死んだりしないのよね」
 不安げに尋ねたフェリシアに、母親は優しく微笑みを返した。
「きっと大丈夫よ。昨日より、ずっと顔色がよくなったもの。お薬が効いたのに違いないわ」
「ニンゲンでも、私たちのお薬が効くのね。私、知らなかった」
 フェリシアは、ほうと安堵のため息を漏らした。
「早く目を覚まさないかしら。お礼が言いたいの」
「もう少しすれば気が付くのではないかしら。私はもう行くけれど、フェリシア。あなたはどうするの」
 母親は銀の水盤を手に抱えると、部屋を立ち去りながら娘に訊いた。もう少しこうしている、とフェリシアは寝台を覗き込んだままで答えた。
「そう、それでは静かにね。それと、侍女たちにはその人がニンゲンだということは伏せておくのよ。騒ぎになっては大変だから」
「はい、母さま」
 少女は畏まった口調で返事をしたが、怪我人からは一度も視線を外さなかった。母親はそんな娘の様子に小さく肩を竦めると、足音を抑えた歩き方で部屋から出て行った。




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