第五十三話  「青(1) 蛇退治の結論」


「仁斎様、大変です」
 その報せが入ったのは、彼が孫に禁書庫の鍵を渡した翌朝早くのことだった。自室でひとり黙想していた仁斎は、慌しく開かれた襖に眉をしかめた。
「何事だ。騒々しい」
 報告に来たのは常磐だった。平時ならば、このように無断で押し入るような真似をする女性ではない。それが、今はいつになく動揺を露わにしていた。
「どうしたというのだ、常磐。お前らしくも無い。死者が蘇ったのを見たかのような慌てぶりではないか」
 仁斎は勿論真剣に言ったわけではなかったが、奇しくもその言は、真実に当たらずも遠からずといったところだった。
 常磐は上擦った声で答えた。
「董士様がおられません」
 死者同然だった男がいつの間にか離床して、姿を消していた。

 同刻、『時白』の屋敷を騒がせていたその男は、『柊』の庭にも驚愕を持ち込んでいた。“門”の開通を成功させ、息子たちを魔界に送り出すという一大事業をやり終えた歩夕実は、庭の隅に腰を下ろして睡魔に身を委ねようとしていたところだった。が、そこに何の前触れも無く現れたのが包帯だらけの男で、しかもその男は反物のように長い黒髪を乱れさせ、鞘に収まっているとはいえ一振りの刀を持って立っていたのだから、歩夕実の眠気を吹き飛ばすのには充分だった。
 君は、と尋ねた歩夕実に、相手は短く名乗った。そして、名乗っただけで、それ以上は何も言わず、半ば閉じかけていた“門”に飛び込んだ。その瞬間、彼の通過を待っていたかのように、空中に開いていた黒円は急速にすぼまり、点になって終には消えた。
 吹き残る風に巫呪陣がはためき、魔力を蓄積するという役目を果たした石は今では光を失って、ただ静かに転がっていた。

*  *  *

 水守董士は、水の中に降り立った。細かな飛沫が跳ね上がり、薄雲に遮られた弱い陽射しに煌いた。彼が“門”を通過したその先は、浅い小川の、その中でも一番浅い場所のようだった。
 董士は周囲を見渡した。遠くには藍碧の尾根が連なっていたが、周囲に広がるのは鮮やかな淡緑の草原だった。なだらかな起伏のある広野では、所々で紫色の花穂が頭を垂れて揺れていた。緑の大地を切り裂くように、水流の線が何本も走っていた。董士が今足を浸しているような小川はあちこちに見受けられ、音をたてて勢いよく流れていた。
 氷のように冷たい水が、董士の足をさらうように通り過ぎてゆく。陽を反射する時だけ白く光るが、殆ど濁流と言っても差し支えない色をしていた。足裏には、ずぶりと体が沈むような泥の感触があった。
 董士は裸足だった。寝床を出た後、何も履かずに屋敷を飛び出してきたためだった。着ているのは木綿の(ひとえ)一枚きりで、床に伏していた時そのままの恰好だった。ただ、彼の体に巻かれている包帯は、面積的には衣服と呼んでも構わない程ではあった。

 彼が意識を取り戻したのは、夜闇が去りつつあったかわたれ時のことだった。董士は初め、己がまだ生きていたということに驚いた。彼の記憶は、『青』魔将との戦いで相手を道連れにしようとしたところで途切れていた。敵に肉薄し、生命力でもある“降魔の能力”の全てを解き放っての攻撃――死を決したその最後の一撃の後に命を取り留めているということは、それが失敗した証でもあった。自身は助かったが、相手を倒せてもいないということを、董士は直感的に理解した。
 僅かに動く度、体が千切れそうな痛みが走る全身に鞭打って、董士は寝床から這い出た。掠れる視界に映った部屋の風景に、自分がどうやら『時白』の屋敷で介護を受けていたのだということを理解するも、果たしてあの戦闘からどれ程の時が経過しているのかは解らなかった。
 枕元の畳の上には一振りの刀が、漆塗りの鞘に包まれて静かにあった。董士は刀を手に取ると、柄を握りすらりと抜き払った。薄闇の中、発光しているかのように浮かび上がった刀身に、彼は視線を走らせた。魔将との戦いの後でも刃こぼれひとつ無い秋水は、手に馴染む握り心地で、胸に安堵が広がった。
 董士は白刃を鞘に戻すと、中庭に面した廊下へと続く明り障子を開け放ち、部屋を出た。

 そしてそのまま、魔界までやって来たと、そういう次第だった。無論、途中で屋敷の警護の者を捕まえて、気絶していた間の経緯を威し半分で聞き出し、引き止める相手を全員眠らせはしたものの。
 流れから足を引き抜くと、董士は草原を踏みしめた。草丈は膝元くらいまでで、真っ直ぐに伸びた葉は彼の皮膚を傷つけたが、今更この程度の傷が幾ら増えたところで大差は無いので気にならなかった。草むらも濡れ渡っていて地面は柔らかく、やはり冷たかったが、小川の水よりは多少ましだった。しかし、時折吹く木枯らしのような寒風は、彼の体に染み入って体温を奪おうとした。刺すような痛みが、すぐに冷え切ってしまった指先を痺れさせた。
 董士は緩い斜面を少し登り、もう一度辺りを見回した。小高い場所からは新たな景色が見えた。草原のその先には、巨大な三日月形をした湖が、深い瑠璃色の水を溢れんばかりに湛えていた。その湖以外にも、窪地には大量の水が溜まり、さながら池の群生地と化していた。
 豪雨でも降った後なのだろうかと思いながら、董士は瑠璃色の三日月へ向かって斜面を下った。湖畔の丘陵地には無数の民家が見えた。遠目では解り辛いが、どの家も青銅色の石造りであるようだった。屋根には少し濃い色の、壁には少し薄い色の石が積み重ねられていた。
 居並んだ家々の中でもひときわ大きな館が、董士の目を惹いた。その館だけ、周りの家との間隔が段違いに広かったので、目立つのも当然だった。建物が大きければそれだけ庭も大きいものなのだろう。角張った青銅色の館は濃緑の木々に囲まれて、いかにも別格といった風格だった。
 急に眩暈を覚えて、董士はよろめいた。片足が水溜りを蹴り、泥水が跳ねた。包帯の下で胸の傷が熱を帯び、鈍く疼いていた。冷えた外気に勝る熱が、その部分にだけ集まっていた。傷の癒え切っていない体に無茶を強いすぎたせいか、若しくは痛み止めの薬が切れてしまったに違いなかった。
 董士はただひとつの持ち物である刀を、強く握りしめた。そうすることで、どうにか倒れずにその場に踏みとどまった。こんなところで倒れる訳にはいかないと思った。
 何故魔界に来たのか、その理由を董士は持っていなかった。理由など考える暇も無く、この場所に来てしまっていたからだ。ただ行かなければならないと感じ、その衝動に近い感情が彼をここまで導いた。
 後付けの理由ならば、幾らでも思い浮かべることができた。『青』の将との決着を付けなければならない。奪われた“聖禍石”と二人を取り戻さなければならない。“獄門”の開放を防がなければならない。
 だが、そのどれもが、理由の根幹を成してはいないような気がしていた。頭の中で連なる理由の数々は、ひとつとして決定的な重みを持たなかった。
 董士は微かに苛立った。思考が上手く働かない。それは体を縛る痛みのせいかもしれなかった。拍動するような痛みは何よりも脳を叩き、痛覚が鮮明になるにつれ、思考を含めた他の感覚は鈍磨されていった。ともすれば刈り取られそうになる意識を必死で繋ぎとめながら、董士は歩を進めた。
 そうやって、足を引きずるように半時間も草原を踏み分けた頃だったろうか。草丈が徐々に低くなり始め、ふくらはぎの下辺りになった時、淡緑の草野原にぽつんと小さく別の色が混じっているのを董士は見つけた。
 遠目に見えるその色は、晴れ渡った空のように澄んだ蒼で、まるで切り取られた天が大地に落ちて来たかのように思える程だった。雲間から差し込んだ陽射しに当たると、そこだけが周囲の何倍も輝くようだった。
 眼を凝らして十数歩近付くと、それは人の形をしているのだということに董士は気が付いた。ゆったりと二つに結われた、胸元まである蒼髪。それが緑野に舞い降りた蒼穹の正体だった。
 空色の髪の持ち主は、まだ年端もいかない少女だった。上下ひと続きの浅葱色の服は裾がゆったりと膨らんで、丘陵から吹き降ろす風にそよいでいた。羽織っているのは毛編みの長袖で布地は薄く、少女の華奢な細腕を菫色で包んでいた。左手には籐編みの手篭を抱え、右手では野草を摘みながら、少女はまるで草の海にふわふわと漂っているかのようだった。
 少女を認識したところで、董士の視界はまたぼやけた。焦点が上手く定まらなかった。瞳に映る映像は大きく乱れ、世界はその輪郭を揺らがせていた。一瞬、膝の力が抜けて、くずおれそうになった董士は刀を地面に突き立て、体を支えた。彼の長い黒髪が首筋を滑り落ち、体の前にしだれかかった。
 その体勢のまま、董士は動くことができずにただ眉を歪めた。荒ぶる呼吸は鎮まらず、肩だけが激しく上下していた。今は杖と化している刀を握る手も、痙攣を起こしたかのように震えていた。
 董士は乱れた肺の動きの合間に、歯を喰いしばった。でなければ、とても正気を保っていることはできそうになかった。怪我の状態は悪化の一途を辿っているようで、これ以上やり過ごすには限界が近かった。
 辛うじて開いていた董士の瞼が、瞳の上に覆い被さろうとしていたまさにその時、彼は自分の体に影がかかるのを感じた。僅かに視線を前にやると、生い茂った草の中に二本の細い足があった。鳶色の深靴は深紅の結び紐がよく映え、浅葱色の布の下から控えめに伸びていた。この潤った大地を歩けば自然とそうなることではあるが、靴は水に濡れ泥にまみれていた。
 先刻目にした少女であることは、鈍った頭でもどうにか推察することができた。ただ、その根拠は服の裾の色だけで、それ以上には何も無かった。どうやっても上体どころか首も起きず、相手の足もとを見るだけで精一杯だったのだ。
 大丈夫ですか、と少女が声をかけた。音が軽やかに空気中を転がるような、そんな声だった。かけられた声は上からでも下からでもなく、自分の耳と同じくらいの高さから発せられたものであることを、董士は漠然と理解した。刀に寄りかかり頭を垂れた状態の彼と同じ位置に口があるということだから、少女の背の高さの程度が知れた。遠目に見て子どもだとは解っていたのだが、思っていたよりも小さい身の丈だった。
「どうされたんですか。怪我をなさっているんですか」
 まだ幼い、あどけなさを残した声音は少し高く、微かに震えていて、しかしそれでも懸命に相手を気遣う響きを宿していた。
 董士は返事をしなかった。実際は、言葉を口に出すのもままならず、何も答えることができなかったという方が正しかった。しかし、彼の酷く乱雑な呼吸音を答えと受け取ったのか、少女は戸惑ったように落ち着かない動きで両足を半歩ずつ前後させた。
「あの、少し待っていて下さい。誰か呼んで来ます」
 少女は踵を返し、その足が董士の視界から消えていった。相手を引き止めることもできず、董士はただ刀に体を預けていた。苦痛の波は少しばかり引き始めたようだったが、またいつ再来するともしれなかった。
 不意に、野草と何かが擦れ合う音が彼の耳を刺激した。風がそよがせているにしては強過ぎて耳障りな音色だった。酷く嫌な感じを受けるその音を、董士は無意識の内に目で追っていた。僅かに回復した体力をまた消耗するような行為には違いなかったが、それでも確認せずにはいられなかった。
 左肩の向こう側を見やった彼が目にしたのは、丸太のような太さと長さをした、大蛇だった。ぬらりと光る滑らかな曲線は艶やかな苔色をしていて、無数の黒い斑紋があった。草むらの中に紛れ込むような姿態の中、瞳は気持ちが悪いほどに毒々しい黄色で、長く伸びた舌先だけが異様に赤い。
 次の瞬間、大蛇は四本の針のような牙が光る大口を、顎を切り離したかのように勢い良く開くと、董士へと飛びかかった。反射的に、董士は鯉口を切った。紫電一閃するも、思うように動かない四肢で放った一太刀に、手応えは弱かった。
 浅い、と董士は顔をしかめた。無理矢理に放った抜き打ちに体勢を崩し、片膝が地に付いた。手傷を負った相手は、赤黒い血液を撒き散らしながら水溜りに落ち、跳ねるようにのた打ち回った。血と泥が混ざり合った水が周囲に飛び散った。
 醜態を晒しながら、大蛇は反転して驚くべき速度でもって逸走しだした。落ち行くその生物に止めを刺そうなどとは董士は考えてはいなかったし、それだけの余力も残ってはいなかったが、その行く先を見てしまっては、追撃はどうあっても必要だった。
 蛇の向かった先は、つい先程彼の元から走り去った少女だった。息を継ぐかのような僅かな時間に、董士の頭の中からは一切の思念が掻き消えた。何も考えず、何を考えるより早く、彼の体は動いていた。そういった無意識下での行動だからこそ、屍同然の体が動いたのかもしれなかった。
「伏せろ!」
 雷鳴のような董士の怒声に少女は振り向いて、そして自らへと迫り来る大蛇を目にした。その表情は一度の瞬きで恐怖に歪み、その身は竦んで、石像になってしまったかのように動かなかった。
「伏せろと言っている!」
 青ざめた白肌に凶牙が届くか届かないかの瞬間、二度目の忠告が耳に届いて我に返ったのか、少女は頭を抱えてうずくまった。持っていた籐籠が落ち、中に入っていた草葉が吹雪のように宙を舞った。
 下げられた少女の頭上を、刀が薙ぎ払った。頭部を斬り離された斑模様の大蛇は、草中にぼとりと落ちた後もしばらくは激しくうねっていたが、やがて静かになった。濁った血液がぬかるんだ地面に広がり、染み入っていった。
 少女は腰を抜かしたのか、両腕で頭を抱えた姿勢のまま、声も出さずに固まっていた。髪よりも少し深い蒼をした両の瞳は大きく見開かれて、我を失ったまま茫然と目の前の光景を映していた。
 蛇の血が流れ残る刀を片手にぶら下げたまま、董士は忌々しそうに言った。
「一度目で応じろ、全く……死にたい……のか……」
 語尾は徐々に小さくなり、気管を擦る空気の音に変わった。血刀が董士の指先を滑り落ち、水音をたててぬかるみに浅く沈んだ。その音に脅かされたかのように、少女の体がびくりと震え、瞼が忙しなく上下した。
「ご、ごめんなさい。私、気が付かなくて……」
 少女が言い終える前に、董士の膝が刀の後を追うようにがくんと落ちた。少女の声は事態を把握できずに止まってしまい、その間にも彼の体は前のめりに倒れていった。少女の眼前でその全身が地に伏し、次いで夜の色をした長髪がその上に覆い被さった。
 董士が完全に倒れ切った後も少女は言葉を失っていたが、彼の灰白色の単に濁水がゆっくりと浸透していくのを目にして、ようやく弾かれたように立ち上がった。慌てふためいて少女は董士の背に手を当て、恐る恐る、弱々しくゆすった。
「あの、大丈夫ですか。もしかして、私のせいですか」
 彼の体をゆすっていた手がその首筋に触れた時、少女は火傷をしてしまうのではないかと思った。それ程に相手の体は熱を持っていて、だのに顔色は凍えてしまいそうに蒼白だった。息遣いは相変わらず荒く、彼の口もとから吐き出される息は白く、呼気も熱を帯びているのがひと目で解った。
 少女は今までにこれ程の瀕死者に会ったことがなく、頭からみるみる血の気が引いていった。少女は病気の経験は多い方だったが、その中で一番辛かった状態を思い出してみても、目の前で横たわっている相手に敵わないのは明らかだった。
「し、死なないで下さい。今、村のお医者さまを呼んできますから」
 死なないで下さい、と少女はもう一度繰り返すと、今にも転びそうな危なっかしい足取りで、全速力で駆けていった。
 地面に触れている董士の全身にその足音が伝わり、響き、そして小さくなって消えていった。まだどうにか意識が残っていた董士だったが、しかしそれもそろそろ限界だと察せていた。意識が遠退いてゆくのを虚ろに感じながら、体中の力が抜け切るその直前に、彼は唐突に訪れた確信を胸に抱いた。
 先程まではどれだけ考えても、自分が今ここにいる理由が見つからなかった。手を伸ばせば届きそうな距離に曖昧な輪郭はあったのだが、いざ掴もうとすると靄がかかってしまって、余計にぼやけて見えなくなった。それが、今でははっきりと姿を現していた。
 気付いてしまえばどうということはなかった。遠ざかってゆく足音が、それを気付かせた。その音に対する嫌悪感が答えだった。ただ、置き去りにされることが堪らなく厭わしかっただけだったのだ。
 自分を残して、周りのものが消え失せてしまうことを恐れていた。既に一度、気付いていたことだった。失うのはもう御免だと、気付いたはずだのに董士は忘れてしまっていた。いや、もしかしたら忘れていたのではなく、意識せずとも良いくらいにまで、彼の奥底に根付いてしまっていたのかもしれない。
 彼が立ち止まっている内に周囲のものが勝手に遠ざかっていってしまうのを許すことはできなくて、追いかけた。
 違う世界にいては、追いつくことができないどころか、追いかけることすらできない。消え去るのを防ぎたくても手が届かない。助けたくても助けられない。失われてしまうのを黙って待つことしかできない。そうやって外野のままで終わってしまって、遠ざかったものが帰って来ないようなことになるとすれば、それは耐えられないことだった。
 己が守りたいものを守るために、ここまで来た。そして、そのためにここにいる。
 気付くのが遅いな、と董士は最後にそう思って瞳を閉じた。




Copyright (c) Takamura Machi. All Right Reserved.