その声は低く小さいものだったが、確かにすすきに向けて発せられたものであり、彼女もそれを瞬間的に感じ取った。だからこそ、背筋が凍った。
 彼女が振り向いたその先では、ひとりの男が褐色の幹に背を預けて、煙草をふかしていた。腰上の辺りでベルトに止められた黒色の厚手のコートと、申し訳程度に頭に載っているつばの硬そうな帽子。そのどちらも随分とくたびれていて手入れの杜撰さが伺えたが、それでもはっきりと正規軍の制服であることが識別できた。もう既にすすきが見飽きてしまった、菱形を基礎型とした翡翠色の紋章は、その形を崩さずに凛然と構えていた。
 しかし、仮に相手の服装にその印が刻まれていなかったとしても、すすきには彼が軍人であると判別することができたに違いなかった。右額にティスカと同じ家紋を持つその男は、確かに彼女の兄だった。
「随分と探したぞ、お嬢ちゃん。俺の部下も数人、お嬢ちゃんにやられたらしいな。よりにもよって、恋人同士の待ち合わせの名所で再会とは……奇妙な廻り合わせだな」
 ジョーン・ロランは少し不機嫌そうに煙を吐いた。朝の白い空に溶け入るように、煙は薄くたなびいて広がった。
「隠れん坊はもう終いだ。これ以上手間をかけさせてくれるなよ」
 ジョーンの体からにわかに強い魔力が伝わってきて、すすきは思わず息を止めた。今の今まで、魔力を殺していたのだろう。“索色之法”でなければ感知が叶わない程に抑えられた力は、先刻の逃走時にはとても気付くことができなかった。
「流石に、隊長という地位に就いているだけのことはある。見事な魔力制御だ」
「お褒めの言葉、どうも」
 右手に持った戦斧槍(ハルバード)を低く構えて、ジョーンはつまらなさそうに言った。左手を高く掲げると、その掌に黒い光が集まった。光は彼の掌を飛び出して、天高くまで上昇すると、弾けて強い閃光を放った。
「今の合図で、じきに他の兵士も駆け付けて来る。観念することだ。抵抗しなけりゃ、手荒な真似はせんよ」
「そういうわけにもいかんな」
 片足を引いて身構えると、すすきは呪符を手に相手を真っ直ぐに見据えた。ジョーンは無言で、得物を両手に持ち直した。長い柄の先に続く斧のような刃が、鈍い光をすすきに向けて放っていた。
「強情だな、お嬢ちゃんも」
「そちらもなかなかに強情だと思うがな」
「俺のは仕事だ」
 すすきはひとつ大きく息を吸い込むと、ひとつ訊きたい、と言った。ジョーンは怪訝そうに眉根を寄せた。
「何だ。見逃せって言うのなら聞かんぞ」
「そうではない。訊きたいのは、お前の妹のことだ。ティスカは今、どうしている」
「……捕えた。昨日の内に牢に繋がれたはずだ。今は裁きを待つ身だ」
 昨日口にした毒草の味を思い出しているかのように、ジョーンは苦々しい表情になった。
「お嬢ちゃん、理由は解っているだろう。あんたのせいだ。だからこそ、お嬢ちゃんには捕まってもらわないと困るんだ。あんたが逃げおおせているのといないのとじゃ、それを手助けした者の罪の重さも大きく変わってくる。俺も、できることなら実の妹に課せられる罪科は軽くしたい」
「ならばなぜ、そもそもティスカを捕えたのだ。あやつを自分の手で牢に送っておきながら、よくもそんなことが言えるな」
「俺は軍人だ。身内だからといって罪を見逃すような真似、あんたは正しいと思うかね? 俺はそうは思わん。それじゃあ法はあって無いようなものだ。それに、お嬢ちゃんがそれを言うのもお門違いだと思うがね。あいつが捕まった理由、もう一度言われなけりゃ自覚できないのか」
 冷たく言い放たれて、すすきは返す言葉を失った。彼の言うことは確かにもっともで、反論する術が無かった。何より、反論が意味を成さない状況であることは、すすきとて理解していた。
「自覚はしている。ティスカが捕えられたのは私のせいだ」
「なら、大人しく捕まれ」
「それはできぬ」
 一層声音を硬くしたすすきに、戦斧槍を握るジョーンの手が力を増した。
「結局は、ティスカを犠牲にすることに、何の罪悪も感じちゃいないんだろう。あんたは自分の目的のために、あいつを利用しただけだったってことだ」
「違う」
「何が違うって言うんだ、お嬢ちゃん。自分のせいだと解っているなら、もっと違った態度の取り方があると思うがね」
 違う、ともう一度すすきは言った。
「私のせいだからこそ、私はこんな所で捕まるわけにはいかぬのだ。私を行かせてくれた、あやつのためにも」
 責任感も罪悪感も、そして幾らかの後悔も、すすきの胸の内にはあった。しかし、ここで足を止めてしまっては、申し訳が立たなかった。背中を押して送り出してくれたティスカの手は、道半ばで立ち止まることを許しはしないだろうし、すすきを立ち止まらせないための後押しであったのにも違いなかった。
「邪魔はさせぬ。私は行く」
 すすきの手から放たれた呪符を、ジョーンの繰る刃が瞬時に切り捨てた。ジョーンはそのまますすきに向かって地を駆け、続け様に矛先を閃かせた。
「都合の良い解釈だな、詭弁だ。いいさ、もともとお嬢ちゃんの意見を聞いてやるつもりもない」
 大きく跳び退いたすすきに向かって、鋭利な切っ先が追撃する。すすきは呪符を、短い芝で覆われた大地に叩き付けた。
「“炸破之呪(さくはのじゅ)”!」
 爆音と共に、途端に土煙が巻き上がった。即席の煙幕に空気が砂色に濁り、すすきの姿がジョーンの視界から消え失せる。
「煙に紛れて逃げるつもりか。そうはいかん」
 ジョーンは砂塵の中から抜け出るように飛翔した。飛行魔術によって上空に出てしまえば、煙幕は無意味だった。空の真ん中で留まると、ジョーンは武器を片腕に持ち替え、空いた左の掌に魔力を集中させた。先程のような、連絡用のただ発光するだけの魔術ではない。黒き光が球状の檻を成す、捕獲型『玄』魔術“影牢(かげろう)”である。
「こいつで、幕引きだ」
 ジョーンが黒球を放とうとしたその瞬間、眼下の煙中から数枚の呪符が飛来した。咄嗟に上体を捻ってそれを回避したジョーンだったが、その内の一枚は放たれる前の“影牢”にぶつかって爆ぜた。間近で生じた衝撃に、ジョーンは腕で顔を覆った。爆風が彼の帽子を吹き飛ばし、黒髪をかき上げた。
 すすきの対応の速さは、明らかに初めから策を弄していたとしか考えられなかった。煙に紛れて逃げるつもりなど端から無く、ジョーンの飛翔を誘っておいてそこを狙い撃ったのに違いなかった。相手を見くびっていたことに、彼は改めて気付かされた。
「やるじゃないかお嬢ちゃん。どうやら遠距離戦の方が得意なようだな」
 ジョーンはあっさりと地上に舞い戻った。徐々に晴れてゆく土煙の中にすすきの姿を認めると、戦斧槍を手にゆっくりと歩み寄る。
「なら、その札を投げさせないようにするまでだ」
 すう、と静かに長尺の戦斧槍を持つ彼の手が上がった。それだけですすきに伝わる空気が痛いものに変わった。先程の初撃をかわせたのは半ば幸運に近く、次を凌ぐことは困難であるように思えた。ジョーンの言った通り、近接戦闘はすすきにとって分が悪そうだった。呪符が近距離での戦いに適していないというわけではない。相手に手が届くほどに接近していれば、投げずに直接張り付けることも可能であるから、それが不利の要因になることはない。だが、ジョーンの得物は戦斧槍であり、その間合いの違いが問題だった。相手の攻撃のみが届くような一方的な間合いでの近接戦闘では、その隙を衝くことは難しい。いっそジョーンの懐に飛び込むことができれば勝機があるかもしれないが、恐らくは手数の多さに圧倒されて到底叶わないだろう。
 完全にジョーンの間合いになる前にと、すすきは敢えて自ら飛び出した。間合いを詰められるのをただ待つくらいなら、自分から詰め切ってしまった方が良い、との判断だった。
 だがしかし、彼女が駆け出すか駆け出さないかの内に、その体は急停止を強いられた。すすきの目の前の地面を突き破って彼女の鼻先にそびえ立ったのは、蒼く透き通る、氷の壁だった。
「これは……『青』魔術」
 肌を切り付けるような冷気に、すすきは全身を強張らせて立ち竦んだ。脚が地に根を張ってしまったかのように動かないこの感覚は、以前にも経験したことがあった。
 自身の背後からゆっくりと近付いてくるその気配が、彼女の脳に鮮烈に刻まれた。万象を凍て付かせるように清冽な魔力は、この上なく鋭利な刃物に似ていて、すすきはまるで喉もとに白刃を押し当てられているような錯覚に襲われた。
 小刻みに震えるばかりの体を叱咤して、すすきはやっとのことでその気配に向き合った。彼女が振り返ったその先には、真冬の月のような青銀色の髪をした男が、片刃の大刀を手に立っていた。その背後には、彼の部下であろう十数名の集団が、画一的な服装に身を包んで立ち並んでいた。
「ご苦労だった、ロラン隊長」
 男は止水よりも静かな声音で言った。ジョーンは今まで構えていた戦斧槍を下ろすと、小さく敬礼した。久々に目にした『青』の将の魔術に、彼の表情も硬く引き締まっていた。
 ジョーンを僅かに見やった後で、男はすすきへと視線を戻した。
「やはり(なれ)であったか。『時白』の巫女よ」
 右頬にある、青い鉤型の家紋はフリス家の紋。その上の、冷たい色の瞳が彼女を射抜いた。
 すすきは上手く動かない口の端を微かに上げた。それだけするのが精一杯だった。
「私なぞのためにわざわざご足労頂けるとはな、セドロス・フリス魔将。光栄だ」
「汝が気にする程のことでもない。恐縮せずとも結構だ」
 セドロスは部下たちに合図をするように穏やかに片手を上げた。彼の後ろに控えていた兵士たちが一斉に駆け、すすきを取り囲んだ。彼女の周りには、青い軍服が円形に壁を成した。その全員が、抜き身の剣をすすきへと突きつけた。
 靴音をたてないような足取りで、セドロスはすすきへと歩を進めた。
「ここまでだな。何故魔界までやって来た。死に急ぐ必要が何処にある」
「死する為に来たのではない。奪われたものを、返してもらいに来ただけだ」
「目的や過程に何の意味がある。結果的に汝が命を落とせば、それが汝の魔界へ来た理由ということになるさ。よもや、我等との戦いに勝つ自信があったわけでもあるまい」
「負けるつもりで来たわけでもないがな」
 強がりを、とセドロスは息をついた。
「この状況で、どの口がそのような虚勢を張れるのだ。履き違えるな。暴虎馮河の勇は、決して賞賛に値するものではない」
「そんなもの、己の小心を正当化するための、体のいい言い訳と口実だ。ただの逃げ以外の何物でもない。そのような金科玉条、私は要らぬ」
 すすきの頑なな抗弁に、これ以上は声の冗費だとでも言わんばかりに、セドロスは風に揺れる柳のように首を振った。
「先日の戦いで運良く拾った命、むざむざ散らせに来るとは……汝の為に沈んだあの男も、報われまいな」
 彼の言葉に答えたのは、すすきではなかった。
「全くだ」
 降ってわいたようなその声に、すすきは初め、幻聴ではないかと自分の耳を疑った。聞き間違えるはずのない声だったが、だからこそ今ここで耳にすることは幻聴以外にはあり得ないと思った。
 重い音を地面に響かせて、数人の兵士がくずおれた。折り重なるように地に伏した彼らの真ん中で、ひとりの兵士が悠然と立っていた。『青』の隊服に身を包み、『青』の隊帽を目深に被り、しかしその手に持つのは、一兵卒の持つような大量生産の剣ではなかった。鈍色(にびいろ)の剣影は重厚で、落ち着いた光を湛えていた。
「貴様……まさか」
 セドロスの口から、声が零れ落ちた。倒されずに残っていた彼の部下たちが、反逆行為を行ったその兵士に向かって剣を構えた。その誰もが現状に混乱していて、動揺を隠し切れてはいなかった。
 謀反人は、王家の紋章が付された制帽を、音も無く脱ぎ捨てた。その陰に隠れていた顔と、そして『青』の部隊にはあり得ない黒髪が露わになった。
 すすきの頭は未だ、その姿を冷静に認識できずにいた。思考は原動機を故障させてしまったかのように停止していて、その停止状態すら自分で把握できないくらいだった。あるはずのない、しかし見慣れた顔がそこにあることは、彼女を麻痺させるには充分だった。
 そして、そこにはこの上ない違和感が存在していた。見慣れた顔は、しかし見慣れぬ髪型で、だからこそ彼が別人なのではないかという疑念をすすきに抱かせた。腰まで届いていた彼の黒髪は、今では肩にもかかっていなかった。
 ひとことも無く凝視するすすきの視線に気付いたのか、彼は素っ気無く口を開いた。
「何を呆けている、すすき」
 愛想の無い声はやはり紛れも無く彼の声であり、すすきはようやく目の前の存在を現実と認めることができた。同時に、今まで停止していた思考の反動が、蓄積された混乱の洪水という形で襲ってきた。
 お前、とか、何で、とかといった単語の切れ端をつかえながら繰り返した後で、やっとのことで彼女は相手の名前を口にした。
「……董士!」




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