第五十二話  「再会」


 名を呼ばれて、セドロスは振り返った。千紫万紅の庭園が臨める柱廊を、その景観には少しも目もくれずに歩いていた時のことだった。
 彼を呼び止めたのはひとつの報告だった。
「退魔師が王都に侵入したとの情報が御座います。第九番隊隊長からの報ですので、まず間違いは無いかと。話によれば、巫女である可能性が高いようです」
 部下の女性から語られる注進を、セドロスは静かな表情で聞いていた。脳裏に、先日の人間界での争いが思い出された。邪魔をすれば斬る、との彼の忠告にも全く耳を貸さず抵抗を続けた巫女の瞳の強さは、印象深かった。“獄門”開放を控えたこの時期に、王都にまで侵入してくる人間となれば、まず間違いなくあの少女であろうと、セドロスは推断した。
「そのひとりだけか、退魔師は」
「確認されているのはその巫女らしき人物のみですが……」
 ひとりということはあるまい、とセドロスは口には出さずに思った。どのような方法を用いて魔界に来たのかは知れなかったが、明確な意思を持ってやって来ている以上は、他にも退魔師がいるとみて間違いなかった。
 他の仲間が既に王都に入り込んでいるのかどうか、それは定かではない。しかし、予防線は張る必要がある。
「転移装置に検問は」
「それはもう、即座に設けられました。不審者についての連絡はまだ入っていませんので、対象が王都内に潜んでいるということだけは確かです」
「捕獲態勢はどうなっている」
「現在、二個中隊で捜索中です。ですが、足取りが殆ど掴めていないとのことです」
 あの巫女の退魔師としての実力はかなりのものであったとセドロスの記憶には残っていた。彼女はあの若さで不完全ながらも魔力吸引術を修得しており、“聖禍石”奪還に際してはセドロスの予想以上の障害となってみせた。
 並の追っ手では発見すら容易ではあるまい、との予想が彼の頭をよぎった。恐らくは、こちらの魔力を感知して逃げているのだ。それに、仮に発見したところで、一般兵卒では返り討ちに遭うのが関の山だった。
「他にも鼠がいる可能性がある。私も出よう」
 セドロスは淡々と言った。報告に来た部下は驚いた様子で、ほんの僅かに表情を動かした。
「セドロス様が直々にお出になられるのですか」
 質問には答えず、人員を集めよ、とセドロスは口にしただけだった。命じられた相手は畏まって了承の返事をした。石柱の立ち並ぶ廊下に、その声が小さく反響した。
 セドロスがその場を立ち去ろうとしたその時、最後の報告が付け足された。
「お待ち下さい、セドロス様。その……アクエルムに赴いていた部隊が、任を終えて戻ってきたと」
 躊躇いがちな声に、セドロスは表情を微かにも変えなかった。その瞳はただいつもと同じ、感情の読み取れない静けさを持っていた。
「そうか。ご苦労だったと伝えてくれ。できれば、そのまま侵入者の捜索に当たって欲しい」
 無駄を排され、要点のみを抽出された台詞がその口から告げられる。何事かを言うべきかどうか迷っているかのように、報告役の女性の表情が曇った。セドロスは彼女が何を言いたいのかを理解していた。そして、敢えてそれを促すようなことはしなかった。言われたところで相手の望むような答えを返せないこともまた理解していたからだ。
 セドロスの心中を知ってか知らずか、彼女は迷った末にその質問を口にした。差し出口かもしれませんが、と断ってから報告役は言った。
「何故、アクエルムへは御同行されなかったのですか」
 侵入者の捜索にはお出になられるのに、とは、皆まで言えなかった。
 確かに差し出口だな、とセドロスは泰然と答えた。
「私が行かずとも片付く任務だった。だから行かなかった。それに何か問題でもあるというのか」
「ですが、今回アクエルムで起こった事件では、セドロス様の……」
「任務は事後処理のみだったと、そう聞いている。私が行ったところで、既に起きてしまったことを覆せはしない。違うか」
「それは……そうですが」
「ならばもう何も言うな。詮無いことだ」
 セドロスは丈の長い上衣を翻すと、清冽な足音をたててその場を去った。その音は、氷上を歩いているかのような響きをしていた。

*  *  *

「……朝か」
 木の上で眠ったのは初めてでは無かったが、久々だった。眠ったと言うには浅すぎる眠りだったものの、それでも陽が昇った瞬間を記憶していないということは、多少は意識を無くしていたということだった。
 整備をされた王都にも、やはりひと気の少ない裏路地は存在した。景観を整えるために植えられたのであろう街路樹の列はそこにも続いていて、すすきはその枝の上で一夜を過ごしたのだった。
 すすきが入都に成功して、一日が経った。転移装置の発した光に視界が白く染まったその後、思わず閉じてしまった瞳を開くと、そこは今までいた場所と何ら変わらない部屋の中だった。彼女を取り囲む三本の角錐も同じなら、その角錐と床が放つ淡い光も同じ、室内の薄暗さも、装置の隣の操作台も同じだった。ただひとつ異なっていたのは、その台の前にいる係員の顔だけだった。お陰で、転移に失敗したわけではないことをどうにか理解することができた。
 その部屋から一歩出ると、理解はより確かなものになった。建物全体の規模が、コークセアのものとは比較にならなかったのだ。吹き抜けの孔雀模様の天井も、顔が映りそうなくらいに磨き込まれたモザイク調の床も、ステンドグラスのはめ込まれた薔薇窓も、ただ圧巻だった。
 すすきは瞬きを繰り返しながら大広間を抜け、その酔いが覚めやらぬ内に更に酔わされることになった。王都シンヴァーナリエスの転移装置が設置された建物は、一歩外に出るとそのまま王城が目に入る位置に建てられていたのだった。
 街の景観などただの付録でしかないと思わせるような、それだけの壮大さと優雅さと権威を持った建築物が、シンヴァーナリエス城だった。一等高い尖塔を中心に、それを取り囲むように並ぶ四つの塔。それらを繋げるようにそびえ立つ、朽葉色の城棟。整然たる高低と起伏の付けられた壁面はいかにも荘厳で、窓枠は輝くように白く映え、絶対的な存在感を持ってその城はそこにあった。他の何処にあってもならない、ここにあるべきだと思わせるような力が、大きな塊として構えていた。
 すすきが恍惚感に囚われてシンヴァーナリエス城を眺めていられたのは、そこまでだった。同じ衣服に身を包み、同じ帽子を頭に被った数十人の兵士が突然走り来たかと思うと、彼女を取り囲んだのだった。その衣装はもう幾度も目にしていた。縫い付けられた翡翠色の紋章は、明らかに王家正規軍を表すものだった。
 すすきは逃げた。時には呪符を用い、時には身を潜め、右も左も解らぬ王都を駆け回った。したくもない鬼ごっこは、開始から一日が経過した今もまだ続いている。魔力探知はすすきの得意とするところだったので、どうにか追手を避け、未だ捕まらずに済んでいるのだが、常に気を張り巡らせている状態が長く、疲弊もしていた。魔族は空を飛べるため、上空からの目も意識する必要があり、軒や樹木の陰を伝って移動するのも楽ではなかった。
 広範囲・高精度の魔力分析巫呪“索色之法(さくしきのほう)”で周囲一帯の様子を定期的に確認しているが、今のところはこちらへ向かう反応は無かった。遠目に軍人の姿を視認することもあるが、距離が大分離れているので気付かれずにいた。
 軍人の姿を何度も目にする内に、何となく解ったこともあった。彼らの制服と制帽は、形は一種でも色は何種類かがあるらしかった。そして、すすきの魔力分析と照らし合わせた結果、どうやらその色は魔力の『色』に対応しているとみて良さそうだった。見かける服装の色は黒か青がほとんどで、詰まるところ、すすきの捜索に当たっているのは『玄』魔族か『青』魔族ということだった。破壊力の高い『朱』は街中の戦闘には用い難いところがあるし、回復・防御が中心の『白』では捕獲に向かない。敵の動きを封じる系統の魔術が多い『玄』の部隊と臨機応変に戦闘様式を変えやすい『青』の部隊が割り当てられたというところか。
 自分へと近付いてくる魔力を感じて、すすきは周囲を見回し、樹上から飛び降りた。まだ少し相手との距離があるが、ひとつの場所に長く留まることは危険だった。そろそろこの潜伏地点も立ち去り時だったので、丁度良い。すすきは辺りに、そして上空にも注意を払いながらそろそろと走り出した。
 しかしこんな調子では、城の中へ入り込むことはかなり困難だった。恐らく王城の周辺には一層多くの警備の目が光っていることだろう。それもこれも、自分が軍に目を付けられてしまったせいなのだが、悔やんだところでどうにもならなかった。
 せめて衙か澪の所在が明らかになれば、とすすきは切に思った。王都に辿り着いているのならば、合流ができればまだ少しは状況が良くなりそうなものだ。勿論、まだ彼らが王都までやって来ていない可能性は大いにあるし、もしかしたら既に軍に捕えられてしまっているということも考えられる。
 すすきが気がかりなのは、彼らだけではなかった。自分を逃がしてくれた後、ティスカはどうなったのか、それが大きな懸念として胸の中に居座っていた。現在こうして軍に追い回されているということは、すすきが人間であるということを誰かが報告したということだ。そしてそれができたのは、ティスカの兄をおいて他にはいなかった。だとすれば、その兄を足止めすると言ったティスカが今どういった状況にあるのかは、容易に想像ができた。
 あの時、ティスカを置いていくしかなかったのは事実だった。すすきがあの場でどれだけ説得を試みたとしても、ティスカは意見を変えなかっただろう。けれど、選択肢がひとつしかなかったことを言い訳に、彼女を犠牲にしたことを正当化するなど無理な話だった。仕方が無かった、では割り切れない感情がすすきの胸の中で渦巻いていた。
 すすきは不意に足を止めた。黒光りする金属の柵が、目の前に立ちはだかっていた。柵の向こう側には木々が並び、更にその奥には芝生が広がっていた。彼女が今まで走ってきた石畳の地面とは全く異なる空間だった。
 公園か何処かのようだな、とすすきは眼を凝らした。芝生の間を縫うようにこげ茶色の小道があり、その両脇を赤や黄の花が控えめに彩っていた。小道はところどころで細い水の流れをまたいでおり、そこだけ灰色の石橋に変わっていた。水の流れを辿れば、その先には明るい色の茂みに囲われた、円形の噴水があった。両の手を差し伸べる姿の美しい女性の像が、水飛沫の中で今にも動き出しそうだった。ゆったりとした衣を纏った白い像は、女神のように見えた。
 幻想的とも言える石像にしばし視線を奪われた後で、すすきは柵を乗り越えるべきかどうか逡巡した。木々の多いこの公園は追手の目から身を隠すには都合が良さそうだったが、ひとたび見つかってしまえば逃げるのには向かなさそうだった。境界線を成している柵はそれなりの高さがあり、越えるのに多少の時間を要するのは確かだった。この中に入ることは、自ら檻の中へ飛び込むようなことと同義かもしれなかった。
 やはりここは避けた方が賢明か、と今来た道を引き返そうとしたところで、すすきはそれができないことに気が付いた。近付いてくる魔力の気配が、進行方向を行き止まりに変えていた。追手はすぐそこまで迫ってきていて、このまま街の方へ戻ることが不可能であるのは勿論、じっとしていても発見されるのは時間の問題だった。
 最早迷っている暇は無かった。すすきは黒色の柵に飛びつくと、両腕に力を込めて一息に体を引き上げた。縦横に金属棒が交差した部分を利用して足をかけ、柵の尖頂に服の裾を引っ掛けないように注意を払いながら、それでもできる限り素早く跳び越えた。
 手近な木の太い幹の陰に隠れると、すすきは息を殺した。足音と魔力の気配が近付いて、止まり、そして遠ざかっていくと、安堵に深いため息を漏らした。
(どうやら助かった……)
 鎮まり切らない動悸と引き切らない冷や汗に気分を悪くしながら、すすきは改めて公園内を見渡した。中央部に例の噴水が置かれ、公園全体は正方形に近い長方形をしていた。その対角線を通るように、噴水から流れ出した水が流路を伝い、公園の外へと続いている。四辺はこんもりと葉を生い茂らせた木々が囲っていて、その外側をさらに囲うのが、先程すすきが跳び越えた金属製の柵だった。木々には長方形の一辺毎に区切りがあり、そこはこの公園と街とを繋ぐ出入り口のようで、その四箇所だけは漆黒の柵もその様相を複雑に変化させ、華と蔓を模した繊巧な細工で飾られた門となっていた。
 背後からの声に、すすきの動悸と冷や汗が蘇ったのは、突然だった。
「ここは、都民専用の公園なんだがな。シンヴァーナリエスの住民以外は利用禁止だぞ、お嬢ちゃん」




Copyright (c) Takamura Machi. All Right Reserved.