第五十一話  「玄(5) 縁起」


 夜は明けたというのに、森の中は薄暗く、不気味ですらあった。道とも呼べないような道を、何度も木の根に足を取られそうになりながら、すすきは走り続けていた。ティスカのように飛ぶことができれば楽なのだろうが、人間でそんなことができるのは人魔術師くらいのものだ。
 一昨日の雨がまだ残っているのか、地面は少しぬかるんでいて、時々体勢を崩しそうになっては近くの木に寄りかかった。その度に頭上の葉から降ってくる朝露が頬を濡らせたが、拭うことすらせずにただ走った。紫陽花色のローブに泥がはねたが、気になるわけもなかった。
 一刻も早く、『玄』の国の首都であるコークセアへ辿り着かなければならなかった。そして、王都シンヴァーナリエスへ。ティスカはジョーンの足止めをすると言ったが、果たしてそれがどれくらいの時間可能であるのかは知れなかった。
 追手に追いつかれることだけは回避しなければならなかった。隊長格ともなれば飛行術は使えるだろうから、もたもたしていれば先回りをされてしまう可能性もある。すすきの息はもう完全に上がってしまっていたが、足を止めているような余裕は無かった。
 果てしなく続くかのような同じ景色の中を走るのは、精神的にもこたえた。道のりのどれくらいを走ったのか、残りはどれだけあるのか、誰でもいいから教えて欲しかった。しばしばすすきは、出口の見えない迷路を走っているような気分になった。道をどこかで間違えたのではないかという不安も何度か頭を掠めたが、その度に一本道だったと自分に言い聞かせて地面を蹴った。
 すすきは手の中に、ティスカから渡された額当てを強く握りしめていた。そして、子どもの頃の記憶を思い出していた。何故今頃になって思い出す、と自分自身を罵った。もっと早くに思い出して当然だったのに。

『常磐、なぜおじい様はあれ程までに魔界を憎んでいらっしゃるのだろう』
 自宅の庭で池の鯉を眺めていた時、急に尋ねてみたくなって、すすきはそう訊いた。夏から秋へと季節が移り変わり、風が涼しくなってきた頃のことだった。確か夕暮れ時で、巫呪の稽古を終えて夕餉を待っていた時だったように記憶しているが、その辺りは定かでない。
『突然どうされたのですか、すすき様。何かあったのですか』
 常磐は直接には答えを返さず、まずすすきの質問の理由を訊いた。勿論、それは七年経った今になって冷静に思い返すから解ることであって、その頃は質問に対して質問を受けたことには何も思わず、すすきは素直に答えていた。
『魔界のことについて尋ねると、おじい様はいつも怖い顔をなさる』
『それは当然ではありませんか。我等退魔の一族は、魔界の者と戦うのが役目なのですから。敵を好く者などおりませんでしょう』
『それはもちろんそうだが、おじい様は、他の大人たちとは違うような気がするのだ。一族で集まりがある時も、一番怖い顔をしている。そんな時におじい様のそばにいると、身を切られるような気分になって、私はあまり好きではない』
『仁斎様は、退魔眷属の中でも取り分け責任の重い立場のお方です。その言動が周囲の者たちに与える影響を鑑みれば、惰弱な態度は取れないのでしょう』
『だからといって、強い態度でいるのと憎しみを持つのとは違うだろう。人間を襲う魔物を憎むのはまだわかる。私だって憎い。しかし、魔族にまであれ程の敵意を向けるのはどうしてなのだ。もう長い間、人間と魔族との間で争いは起きていないのだろう。一千年前の大戦を境に魔界からの侵攻は止んだと、そう習った』
 納得できずに更に詰め寄ったすすきに、常磐は穏やかな声で返した。
『すすき様は、何故、憎しみが消えないと思いますか』
 常磐が何を言っているのか、すすきには解らなかった。問いかけの意味を把握できずにいるすすきに、常磐は変わらない静かな声で語った。
『憎しみは消えないのではなく、消さないのです。それが、退魔眷属を結んできた絆でもあり、縛ってきた鎖でもあるのです』
『……憎しみを消さない?』
『退魔眷属が戦う理由を見失わないためにも、憎しみが必要なのです。弱き意志では、戦い抜くことはできませんから。強き意志を持つためには、強き理由が必要なのです』
 すすき様、と常磐はまた問いかけた。
『憎しみを消さないためには、どうすれば良いと思いますか』
『それは……』
 すすきには答えることができなかった。そんなことは考えたことがなかった。
 常磐は言った。
『憎しみを否定する者を憎むのです』
 すすきはしばらく常磐の言葉を頭の中で繰り返したが、結局返答は疑問になった。
『どういう意味だ』
『憎しみを消そうとする者を憎む。敵を擁護する者を敵としてみなすことが、敵を敵として存在させ続けることを可能にするのです。そうすることで、憎しみの正当性は守られ、そこからは疑問を挟む余地が失われ、純粋な憎しみだけが存続するのです』
『それが、私たちが戦う理由だというのか。そんなのはおかしい、間違っている』
 思わず声を張り上げたすすきに、そうですね、と常磐は言った。
『私も、おかしいと思います。憎しみは消すべきではないのかと。ですが、消したくても憎しみを消すことのできない者もいるということも、覚えておいて頂けますか。憎しみが生み出す憎しみの犠牲となった者は、迷い無く幸福だという訳ではないのです。大事なのは、すすき様がご自分で考えられて、ご自分の意思を持たれることです』

 一年後に『水守』の一族が魔族の襲撃に遭った。すすきは董士の家族を奪った魔族を許すことができず、そして、常磐との話は記憶の片隅に追いやってしまっていた。すすきは今になってようやく、常磐が何を言おうとしていたのかが解った気がした。
 すすきは走りながら、歯を喰いしばった。足が悲鳴をあげているせいだけではなかった。手に持つ藍の額当てを強く握りしめた。
 ティスカから渡された額当てには、金と銀の糸で刺繍がしてあった。裏には、作り手の名も控えめに縫い刻まれていた。
 時白つばき、と。
 曾祖母の名だった。簡単な話だった。全ては繋がっていて、だからティスカはこの額当てをくれたのだった。
 魔界へ行って、そして帰ってきた人間。それが退魔師集団の中でどのような扱いを受けたかは、想像に難くなかった。仮に彼女が、魔族の中にも友好的な者がいたと主張したとすれば、それは尚のこと彼女の立場を悪くしただろう。
(“敵を擁護する者を、敵としてみなす”)
 憎しみを消さない方法。その的となった者は、どんな思いをしたのだろうか。そして、そうやって数限りない陰口を叩かれる女性を母親に持った子どもは、どんな思いをしたのだろうか。
 常磐は確かに、すすきの質問に答えていた。あの時話してくれたのは、紛れも無く己の祖父の話だったのだと、すすきは自分の察しの悪さに眉を歪めた。
 祖父が『高瀬』の咎を許さなかったことは、その一家を見捨てたことは、今でも間違っていると思っていた。けれど、そうまでして頑なに敵を受け入れず、掟を遵守しようとしたのは、敵に与する者として冷視を受け、掟によって痛めつけられた母親の姿を見て育った祖父にとっては、仕方の無いことだったのかもしれない。掟を否定することは、母親が罰せられた理由を否定することなのだから。憎しみを正当化しなければ、母親が受けた痛みが正当化されないから、祖父は敵を憎んだのではなかったか。
 そうやって、母親が悪く言われるのは母親が本当に悪かったせいなのだと自分に言い聞かせることで、祖父はどうにか耐えてゆくことができたのかもしれない。そうしなければ、耐えてゆくことができなかったのかもしれない。
 すすきは、自分の想像は飽くまで想像に過ぎないということを自覚していた。あの気難しい祖父は、やはり子どもの頃から気難しくて、初めから凝り固まった思考しか持ち合わせていなかったとも充分に考えられた。むしろ、その方が考えやすかった。母親を非難されて傷つき落ち込んでいる祖父の姿など、少しも現実感を伴わない。
 本当のところは一切解らない。曾祖母はすすきが物心つく頃にはとうに他界していたし、祖父が自分の昔話をしてくれるとも思えない。だから、本当のところはもう、確かめようがない。
 だからこそそこに、何かがあるのだと、すすきは信じていた。想像は想像でしかない。けれど、想像できるのは、真実があやふやだからこそだ。
 ならば、とすすきは考える。祖父が魔族に対して強い敵意を表すのにも、何か理由があったと想像する方がよいではないか、と。少なくとも、何も無いよりはずっといい。そして、そう思っていれば、祖父のことを心の底から嫌わずにも済みそうだった。
 祖父の考えが正しいと認めたわけではない。その逆の思いは、むしろ強まっている。この想像は、祖父の凝り固まった考えを解きほぐすための、動機だ。人間界に帰ったら、誰よりも祖父に告げようと思った。魔族にも悪い奴ばかりいるわけではないと。憎むばかりが能ではないと。
 そして、魔界で友達ができた、と。

*  *  *

 半時間は全力疾走を続けただろうか。ようやく森が終わった。一度足を止めて、視界に映った街並を見据えた後で、すすきはまた走り出した。
 街の中では何処をどう走ったのか、街の風景はどんな様子だったのか、そんなことはよく覚えていない。ただ、道行く人を片端から捕まえては、転移装置のある場所を尋ね、そして息を切らせて辿り着いた。
「許可証の提示をお願いします」
 受付の男性にまずそう言われて、すすきは弾む肩を鎮めながら、鉛色のプレートを差し出した。ジョーンと全く同じ恰好をしている相手に、内心少し不安を抱えていたが、それはどうやら無用のことだったらしい。軍の制帽と制服を隙無く着込んだ男性は、慣れた口調で応対した。
「ああ、軍の方ですか。でしたらこちらにご記名の後、奥の扉へどうぞ。行き先はどちらですか」
 王都だ、とすすきは荒い息の合間に答えた。そして、少し熱の冷めてきた頭で、周囲をぐるりと見回した。石造りの巨大な建物の内部は、しんと静まり返っていて、すすきの呼吸の音だけが響いていた。美しく磨かれた床から天井まで伸びた円柱は、丸いドーム型の屋根を支えている。屋根に開けられた四つの四角い天窓からは太陽の光が降り注ぎ、壁面に刻まれた装飾に克明な影を落としていた。
 差し出された帳簿に適当な名を書くと、それだけでもう手続きは完了だった。あっさりすぎる程に転移装置が置かれている部屋に通されて、すすきは些か拍子抜けすると同時に、ティスカに聞いた話を思い出していた。確か、民衆に開かれた都であるために、厳しい審査は行わないとのことだった。一時滞在の許可証は誰にでも受け取る権利があるし、費用は一切かからない。それに対して不法入都の罪はかなり重く定められている。だからこそ、法を犯してまで王都に入るのは割に合わないし、そんなことをする物好きもまずいないのだという話だった。「普通の街に出入りするのに、いちいち身分証明は必要ないでしょう? それと同じよ」というのがティスカの言だった。すすきにとっては、有り難いことこの上ない話だ。
 転移装置は、東屋のような代物だった。角のような角錐が床から三本、斜めに突き出していて、円盤状の屋根と繋がっていた。大理石のような色をしたその装置は、その内側から緩やかな光の波を立てていた。薄暗い室内に浮かび上がるように佇む装置に、すすきは息を呑んだ。
 係員に言われるがまま、すすきは三本の角錐の中心に立った。中央部の床は少しへこんでいて、光の粒子が湧き上がるかのように、ぼうっと淡く発光していた。気のせいかもしれないが、足もとから僅かに熱を感じた。
「魔力の注入、開始します。完了次第転移を実行しますので、その場から動かないで下さい」
 転移装置の横に設置された大きな台のような物の前に立って、係員が言った。スイッチやパネルや計測器が溢れんばかりに並ぶその台の上を、その手が踊るように滑っていく。やがて、彼の手が止まると、すすきの立つ空間が唸りを上げて強い光を放ち始めた。装置が刻む震動が体にも伝わった。
「転移五秒前、四、三、二、一」
 ゼロ、と事務的な声が告げた途端、すすきの視界は光の渦に包まれた。装置が発した閃光が引いた後に、そこには誰の姿も存在していなかった。
 係員は転移の成功を見届けると、計器を操作して装置を待機状態に落ち着かせた。角錐はまた穏やかに強弱を付けて光り始め、床面は薄闇にぼんやりと広がる光を湛えていた。
 全ての作業を終えると、その場を静けさが支配した。しかし、係員が部屋から出て行こうとしたその時、慌しい足音が彼の耳に入った。不思議に思って扉を開けようとすると、その前にけたたましい大音が鉄扉を弾き飛ばす勢いで室内にやって来た。
 係員は驚いて、血相を変えている相手の顔を見つめた。転移装置は軍の管轄下にあり、職員である係員は受付同様、軍の一員でもある。魔将に次ぐ地位にある十六人の隊長の顔くらいは、覚えていないはずがなかった。
「どうかなされたのですか、ロラン隊長」
「どうもこうもない。黒髪の女が、来なかったか。淡い紫の服を着ていたと思うんだが」
 大層焦った様子で口早に尋ねた第九番隊隊長に、係員はあっさりと答えた。
「ああ、その方でしたらたった今、王都へと転移なされたところです。ロラン隊長の部下の方ですか」
 すすきが提示したのが軍用の許可証だったのを思い出し、係員がそう付け足すと、ジョーンは頭上の制帽に手を当てて項垂れた。ここまで大急ぎで飛んで来たのだが、その疲れが一気に襲ってきたような気分だった。許可証を奪われてしまっていたため、受付で手間取ったのが一番の悔やみどころだった。
「大至急、俺を王都に飛ばせ。あの女には、逮捕命令が出ている」
 ジョーンが苦々しくそう命じると、係員は声をあげて驚き、その後で騒々しく回れ右をして操作台に向かった。隊の長が直々に追うなど、ただ事ではない。どれだけの重犯罪者を王都に送り込んでしまったのかと、冷たい汗が背中を伝った。
「つい先程転移を行ったばかりですので、少しばかり魔力の再充填に時間がかかります。申し訳ありません。王都の方へは、知らせなくてもよろしいのですか」
「今、連絡を取ってもらっている。ああ、それと、俺の後に罪人もひとり王都に送ってくれ。向こうで部下に引き渡す手はずになっている」
「罪人、ですか」
「今は術で眠らせて、受付の者に預けている。とにかく頼んだ。今は詳しい説明をしていられる程の余裕がない」
 その罪人が自分の妹である、などと言えば話を複雑にするだけなので、その点に関しては黙っていた。もっとも、公私を混同しない意味でも、そんなことまで発言する必要性は無いとジョーンは考えていた。
 解りました、と係員が頷いた時、転移装置が微かに震動を始めた。
「ロラン隊長、装置の中心へお入り下さい。充填が完了しました。転移を開始します」
 ジョーンは駆け足で指定された位置に付いた。彼の体が光に包まれてゆくのと同時に、係員は秒読みを開始した。




Copyright (c) Takamura Machi. All Right Reserved.