ジョーンは座り込んだ姿勢からゆっくりと立ち上がろうとした。妹は丸腰であるし、屋内の相手とは多少の距離が空いている。どう抵抗されても、もう状況は覆されないと思った。それが彼にほんの僅かな油断を生んだ。
 ティスカの手が、勢いよく彼の口を塞いだ。すぐに振り払おうと思ったジョーンだったが、すぐに振り払えると思ったその予想とは裏腹に、体は動かなかった。口の中に、例えようの無い苦味が広がっていた。
 ジョーンの口に手を押し当てたまま、ティスカの口もとが何処か哀しそうに緩んだ。
「甘く見ているのは、兄さんの方よ。私がどれだけ本気なのかを測り間違えるから、こういうことになるの。兄さんの口に入れたのはね、“雷草(いかづちそう)”。葉の汁をひと舐めでもすれば、どんなに屈強な大男でも麻痺して動けなくなるって代物よ。さっき兄さんが倒した鉢植えの中に植わっていたの、知らなかったでしょう」
「ティスカ、お前……」
 最後まで言葉を続けられずに、ジョーンはくずおれた。脳までもが麻痺してしまったようで、意識が一気に遠退いていった。
 ジョーンが完全に沈黙したのと同時に、ティスカもまたその場にへたり込んだ。今の騒動の間、体を固めていたすすきは、我に返って彼女のもとへ駆け寄った。
「大丈夫か、ティスカ」
 ティスカはすすきをきっと睨み付けた。そして、ひとこと目に馬鹿と言った。
「どうしてすぐに逃げなかったの。馬鹿ね」
「お前こそ馬鹿だ。何という無茶な真似を。お前の兄は隊長格なのだろう、下手をすればどうなっていたか」
 大丈夫よ、とティスカはもう気を鎮めたのか、服に付いた泥を払いながら立ち上がった。
「兄さんは本気で私を傷つけるつもりなんてなかったわ。だから毒草を口に入れられたの。もし私が妹でなかったのなら、幾ら何でもこんなへまはしなかったでしょうよ」
「それは、そうかもしれないが、だが……」
 言いかけたところで、すすきは言葉をやめた。
「……何をしておるのだ?」
「見て解らない? 追いはぎ、よ」
 ティスカは何かを探すように、気を失っている兄の軍服を入念に調べていた。やがて、その手が一枚の小さな金属板を見つけ出した。
「災い転じて福と成す、ね。ススキ、受け取って」
 ティスカはその鉛色をしたプレートをすすきに向かって放り投げた。ゆっくりと回転しながら飛んできた薄い板を捕まえると、すすきは鈍い光沢を放つそれをまじまじと眺めた。角が丸みを帯びた長方形のその板には、中心には何かの紋章が刻まれ、周りにはずらずらと刻銘があった。
「これは、何だ」
「軍用の入都許可証よ。それがあれば、転移装置を使ってシンヴァーナリエスへ行くことができるわ。それを持って、早くここを出るのよ、ススキ。“雷草”は即効性だけど、その効果はあまり長くないの。兄さんがいつ目覚めるとも解らないわ」
 すすきは、渡された許可証を握りしめた。
「これは確かに、私には必要なものだが……だが、ティスカ、お前はどうするのだ」
「私はここに残って、兄さんの足止めをしなくちゃ。ススキが王都に着くまでは、このことが軍本部に伝わらないようにしておくから、心配しないで」
「そんなことを訊いておるのではない。こんなことをして、お前とてただでは済まぬだろう。私のせいで、お前にこれ以上の迷惑は――」
 いいの、とティスカはすすきの言葉を無理矢理打ち切った。
「兄さんをこのまま放ってもおけないし。私なら何とかなるわよ、きっと。それより、ここで二人とも捕まってしまう方が、私が何のために頑張ったのか解らなくなるじゃないの。だから、早く行って」
 まだ何か言おうとしているすすきの背中を強引に押しやって、ティスカは彼女を家の外へと向かわせた。
「兄さんが軍人だってこと、隠しててごめんなさい。別に、騙すつもりとか、そんなのじゃなかったの。兄さんが軍人だって言えば、あなたはきっと私のことを疑うと思って……言えなかったの。折角仲良くなれそうだったあなたに疑われると思うと、怖くてどうしても言えなかった。本当にごめんなさい」
 背中を押す彼女の顔はすすきには見えなかったが、声と、そして手のぬくもりだけでも、充分に伝わるものはあった。すすきはティスカの手から背中を離すと、彼女に向き直った。
「何故お前が謝る。謝るのは私の方だ。そして、礼も言わねばならん」
「ススキなら、そういう風に言うんじゃないかって思っていたわ。だから謝ったの」
 得意気な笑みで返されては、すすきはもう何も言うことができなかった。
「実は、私から兄さんに事情を話して、陛下へのお目通りをお願いしようかとも考えたのよ。ほら、昨日の夕食の後、私が言いかけて途中でやめたことがあったでしょう」
 ああ、とすすきは記憶を蘇らせた。食器を片付ける直前、最後に何かを言おうとしてティスカは言葉を濁したのだった。
「ススキさえよければ、それで解決の道も開けるんじゃないかって思ったの。結局、兄さんが軍人だってことを教えるのが怖くて、言えなかったけれど。でも、言わなくて正解だったみたい。隊長である兄さんをよこすなんて、どう考えてもおかしいわ。兄さんの口振りだと、逮捕どころか抹殺まで許可されているような節もあったし」
「話し合う気は無い、と。そういうことか」
「さあ、これでお喋りはおしまいよ。行ってちょうだい、ススキ。元気でね」
 差し出されたティスカの右手を、すすきは握り返すしかなかった。
「ティスカも、元気で」
 言ってから、その言葉がとても空虚なものに感じられた。言わば、ティスカを犠牲にしてここを去るようなものなのだから。
 すすきの湿っぽい表情を吹き飛ばすかのような明るい笑顔と一緒に、ティスカは腰ポケットから藍色の布切れを取り出した。金と銀の糸で刺繍がされている、額当てだった。
「よければ、これも持って行ってくれないかしら。友達が作ってくれたものなのだけれど、是非あなたに受け取ってもらいたいの」
 ティスカは額当てをそっとすすきの手に握らせると、両の手でやさしく、あたたかく、彼女の手を包み込んだ。
「お友達、助けられるといいわね」
 最後にもう一度笑うと、ティスカは力任せにすすきの体を反転させ、その背中を突き飛ばした。すすきは彼女の後押しによって動き出した体を止めないよう、そのまま駆けた。立ち止まるなというメッセージが込められていたような、そんな気がした。
 ティスカはハーブ畑の中を遠ざかってゆく背中を見送りながら、満足そうに手を振っていた。

*  *  *

 出逢いは森の中。別れも森の中。
 共に過ごしたのは二年と三ヶ月と二十九日。
 偶然に開いていた、世界を繋ぐ黒い扉。それは、彼女と出逢ってから二年三ヶ月二十九日目のその日に、全てを吸い込もうとするような大口を開けて、森の中で待っていた。
 最後の彼女の声は、よく聞こえなかった。空気が裂けるような音に邪魔されて、何かを叫んでいるということしか解らなかった。
 「助けて」か「放して」か。
 今でもどっちだったのか、ティスカは答えが解らないままでいる。
 放したのか放れたのか、それもよく解らなかったけれど、彼女の手と自分の手が離れてしまったのは確かな事実だった。
 そして彼女は帰って行った。彼女の世界に。来た時と同じように、突然に。
 そして黒い扉は唐突に閉まった。彼女を吸い込んで満足したかのように。
 彼女は、本当は帰りたかったのだろうか。自分との生活はやはり仮のものに過ぎなかったのだろうか。
 そんな不安を抱えていたから、彼女の声が聞こえなかった。「助けて」か「放して」か。そして、今でも不安は消えない。
 助けたかったのかどうかと問われれば、助けたかったと答えることができた。時々喧嘩はしたものの、彼女との生活は楽しかった。
 別れから時が経つにつれ、答えが揺らぎ始めた。彼女との生活を楽しんでいたのは今でも疑いない。しかし、そこに一抹の不安を覚えていなかっただろうか。彼女が異なる世界の者であるということを、隠し続けて暮らしてゆくことに、微かな怖れを抱いてはいなかっただろうか。
 心に落ちた黒い染みは、じわじわと広がった。
 結局、彼女との生活を終わらせる上手い言い訳と機会を、欲していただけではなかったのだろうかと、いつからか強く思うようになっていた。だから手を放してしまったのではないだろうかと、いつからか強く思うようになっていた。
 それでも、一緒にいた時間だけは、心の中で鮮やかさを増していく。
 共に過ごしたのは二年と三ヶ月と二十九日。
 出逢いは森の中。別れも森の中。

*  *  *

 ジョーンはのろのろと目を開けた。瞼の動きよりも更に脳の動きの方が遅く、しばらくは自分が今何処にいるのかさえも思い出せなかった。
 痺れの抜け切らない頭を必死に回転させて、ジョーンはようやく、何があったのかを記憶の引き出しから探し出した。と同時に味覚も蘇り、口の中に残っていた苦味が吐き気を誘った。
 軽くむせ返した後で、ジョーンは自分の体が椅子にがんじがらめにされていることを知った。手で口を覆おうとしたところ、縄が食い込んだことで初めて気が付いた。
 場所は妹の家の食卓で、机を挟んで向かい合わせの椅子に家主が座っていた。
「お早う、兄さん。思ったよりも遅かったわね。最近、よく眠っていなかったんじゃないの」
「ティスカ、何の真似だ。お前、あのニンゲンは」
「いないわよ、とっくの昔に」
 にこにこと笑いながらティスカは答えた。
「でも、しばらくはそうしていてね、兄さん。少なくとも、彼女が王都に入るまでは」
「ふざけるな。何を考えてる、お前」
「兄さんは陛下の御命令が大切なんでしょうけど、私にとっては友達の方が大切なの。それだけよ」
「馬鹿を言うな。何でお前は、そう何度もニンゲンと関わってしまうんだ。前の時は、命令も無かったし魔界に危害を加える恐れも少ないと判断したから黙認したが、今回は事情が違う」
「そうみたいね」
 すました顔でティスカは頬杖をついた。ジョーンは弱り切ったように小さく唸った。口の中の苦味がさっきよりも強くなっているような気がした。
「魔界に住む全ての者に害を与えるかもしれないんだぞ、あのニンゲンは。だから危険人物とみなされて、俺が遣わされたんだ」
「そうみなしたのは陛下でしょう。私は陛下よりも、友達を信じるの。彼女はそんな酷いことはしないわよ」
「あのニンゲンの意図に関わらず、結果として、そうなる恐れがあると言ってるんだ。だから止めなけりゃならん」
「知らないわよ、そんなこと。彼女は、彼女の友達を助けに行っただけよ。それを止める権利なんて、兄さんにも、陛下にだってありはしないんだから」
 ティスカの怒鳴り声に、ジョーンは数秒沈黙した。これ以上の問答は無駄だった。妹は決して己の意思を曲げないだろうと、ジョーンには察せていた。あの時、友達を助けられなかったと打ちひしがれる彼女の姿を見ているジョーンには、妹の気持ちも解らないではなかった。
 しかしそれでも、彼は軍人であり、第九番隊隊長であった。任務の邪魔をする者は、取り払わなければならない。例えそれが実の妹であろうとも。
 ジョーンは静かに立ち上がった。その手の中には、彼を束縛していた幾本もの荒縄がだらりとぶら下がっていた。
 ジョーンは静かに、残念そうな声で言った。
仮にも(・・・)隊長の俺を本気で捕まえておきたかったのなら、鎖で縛るべきだったな。この程度の縄なら、魔力を固めた刃であっさりと切れる」
 ティスカは身じろぐことすらできず、瞬きを忘れてしまったかのように、ただ兄の姿を瞳に映していた。ジョーンは胸ポケットからシガレットケースとライターを取り出すと、煙草を一本口にくわえ、火を着けた。
「ティスカ、お前の罪は重い。裁きを受けるために、王都まで来てもらわなけりゃならん。無論、あのニンゲンを捕えた後で、だがな」
 言い終えて、ジョーンは深くため息をついた。薄墨色の煙が部屋の中に広がった。




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