第五十話  「玄(4) さよならのてのひら」


「今開けるからちょっと待って、兄さん」
 ドア越しに兄にそう言って、ティスカはゆっくりと玄関へ向かった。すすきが隠れる時間を稼ぐため、ドアの前で何もせずに五秒数えた。すすきの姿がここからは完全に見えなくなったのを確認すると、ティスカは玄関の錠を外した。
 扉を開いたその先に、見慣れた男の顔があった。
 ジョーン・ロラン。ゼクラルゼーレ王家正規軍第九番隊隊長にして、ティスカの実兄だった。ひしゃげた制帽も、その下から覗く少しも整える気の無い髪も、よれよれになった軍服も、前に会った時と少しも変わっていなかった。額の右側には、ティスカと同じロラン家の家紋が刻まれていた。
 くわえ煙草を手に取ると、ジョーンは口から煙を吐いた。
「朝早くからすまんな。叩き起こしてしまったか」
「ううん、起きていたから気にしないで。それよりどうしたの、突然。休暇にはまだ早いし、第一、今日は仕事日でしょう」
 ティスカの心臓は痛いくらいに波打っていた。不安で仕方がなかった。嫌な予感が胸の辺りで渦巻いている。
 仕事だ、とジョーンは答えた。
「目撃証言が入ってな、その調査確認に来た」
「目撃証言? 調査確認?」
 何のこと、とティスカはうそぶいた。
「いや、知らなきゃそれでいいんだがな。先日……そう、報告によると確か五日前だ。コークセアでお前、誰に会った?」
「さあ……五日も前のことなんて、忘れてしまったわ。それより、煙草はやめてよ。兄さんの体にも悪いし、私はあまり好きじゃないもの」
 すまんな、と言ってジョーンは懐中から銀のシガレットケースを取り出すと、その中に吸殻を放り込んだ。一日三十本は煙草を吸う彼には、携帯灰皿と一体化したこのシガレットケースが必需品だった。
「忘れた、か。まあ、それで済めば俺としても楽なんだがな。仕事なんでそうもいかん。このまま帰ると部下にどやされるんで、もう少し話を聞かせてくれ」
 頭を掻きながら、ジョーンは面倒臭そうに言った。煙草を失った口もとが、少し寂しそうに動いた。
「お前、五日前にニンゲンを助けなかったか。住民の中に、お前が連れて行った女がニンゲンなんじゃないかって言って来た奴がいてな。その女の服装やその時の状況なんかについて複数人の目撃証言を照らし合わせた結果、お前が助けたのはニンゲンで、しかも退魔師、“門”を通過して魔界にやって来たんじゃないかって説が有力になった」
 ティスカの鼓動はもう、体が震えてしまいそうな程に強まっていた。喉の辺りはからからに乾いてしまっていた。汗ばむ手を握り直して、ティスカは出来る限り声を落ち着かせた。
「もう、とんだ勘違いもいいところだわ。あの人は昔の友達で、あの時たまたま会っただけよ。その日の内に別れたから、今は何処にいるのだか解らないわ。大体、その程度のことで、仮にも隊長である兄さんが駆り出されるなんてどういうこと。大袈裟すぎるじゃない」
「“仮にも”は余計だ」
「兄さんの勤務態度の不真面目さは、私の耳にも届いているもの。それよりも、私の質問に答えてないわよ」
「隊長がわざわざ動くことについては、まあ確かに俺もそう思わんでもないが、陛下の御意思だから仕方ないだろう。今回の件を耳にした陛下が、勅命を下されたんだ。逆らうわけにいくか」
「陛下の勅命ですって? それこそ大袈裟すぎるじゃないの」
 思わず声を荒らげた妹に、ジョーンはまた頭を掻いた。
「何でも、魔界に仇成す危険人物かもしれないんだと。詳しいことは機密なんで言えないが、早い話が、抵抗させずに捕えるために俺が指名されたってことだ。一般市民に被害が出るとまずいんでな。それに、被疑者に接触したのが妹のお前だったってのが、一番の理由だろうな。お前だって、見ず知らずの軍人に朝っぱらから訪ねて来られたら嫌だろう」
「それはそうだけど。でも、おあいにくさま。さっきも言った通り、今回のは完全に兄さんたち、軍の勘違いよ。取り越し苦労だったわね」
 ティスカは大仰に肩を竦めてみせた。何としてもすすきの存在は誤魔化しきるつもりだった。
 そのすすきはというと、部屋の隅の衣装箪笥の陰で息を殺しながら、二人の会話に胸の音を荒くしていた。ジョーンから伝わってくる魔力の強さは、隊長というだけあって並ならぬものがあった。
 正規軍の隊長の話は、少しではあるがティスカから耳にしていた。それだけならば大して印象にも残らない、ただの短い話で終わっていただろうが、ひとりの男の名がそれを阻んだ。
 ブラント・ファルブリー――以前人間界に“聖禍石”を奪いにやってきた魔族の名である。栞の魔力が覚醒したことで幸運にも勝利を収めることができたが、彼の実力は相当のものであった。普通に戦っていれば、どうなっていたかは解らない。その彼の地位が第五番隊隊長であったということは、ティスカに教わって初めて知った事実だった。
 仮にジョーンがブラントと同等の実力を備えているとすれば、ひとりで戦った場合の勝算は少なかった。だが、上手くすれば隙を突いて逃げることくらいは可能かもしれない。いざという時に備えて、すすきは全身に張り詰めた緊張の糸を切らさないよう、ジョーンの声に意識を集中させた。
「しかしなあ、ティスカ」
「くどいわよ、兄さん。これ以上は付き合っていられないわ。私だって、暇じゃないのよ」
「だが、しかし……そこに誰か隠れているだろう。気配で解る」
 ジョーンの言葉に、ティスカとすすきの背筋が一瞬凍り付いた。
 すすきの心臓が大きく拍動した。どうして気付かれたのか、理解できなかった。魔族ならば魔力の有無で感知もできようが、すすきは人間なのだ。そもそも、“降魔の能力”も気配も、完全に絶つ訓練は受けている。気付かれるはずがなかった。
 ティスカは兄の言葉に怯えながら、しかし気丈に否定した。
「何を言ってるの、誰もいないわよ。いいかげんにして」
 態度を硬化させたティスカを見て、ジョーンは項垂れて頭を振ると、困り果てたようなため息をついた。
「……参ったな、まさか本当に誰かを匿っているとは思わなかった」
 ジョーンのつぶやきに、ティスカは息を止めた。見事に引っかかったのだ、彼のはったりに。
 ジョーンは斜めになっていた漆黒の制帽を被り直すと、渋い口調でティスカに言った。
「ティスカ、次からは気を付けるんだな。相手の反応で事の真偽を確かめるなんてやり方は、使い古された方法だ。すぐに動揺を表に出してりゃ、隠し事はすぐにばれる」
 出てきな、とジョーンは声の音量を上げた。
「素直に連行されるならそれで良し、でなきゃ、少しばかり手荒な真似をしなきゃならん。俺もそういうのは好きじゃない。面倒だしな」
 落ち着いた声音で成される呼びかけに、すすきは固く奥歯を噛みしめた。もう、ここに隠れ続けることは不可能だった。どうすべきか、どうするにしても一瞬の判断が命取りになりかねない。すすきの頭が惑いに満ちた思考で占められつつあったその時、どどっという響きが床を伝った。
 その場の三人の中で最初に動いたのはティスカだった。
 妹に足払いと体当たりをされ、家の外のテラスにジョーンは倒れ込んだ。その拍子に、陶器でできた鉢植えが幾つか倒れ、大きな音をたてて砕け散った。ふわりと空中散歩をした彼の帽子が、その上に舞い降りた。
「……ティスカ、どういうつもりだ」
 ジョーンは、白刃を突きつける相手を困惑した眼差しで見つめた。流石にこうまで真剣な妨害を妹から受けるとは、予想していなかった。
「刺されないと解らないの。幾ら兄さんでも、私の友達に手を出すのなら許さないわ。ススキ、今の内に早く逃げて」
 ティスカは兄を見下ろしたままで叫んだ。妹を見上げるジョーンは、眉をしかめて言った。
「お前、自分が何をしてるか解ってるのか。逮捕命令が出てる人物への逃走幇助並びに職務執行妨害、立派な第一級犯罪だぞ」
「関係ないわ、そんなこと。また友達を助けられないくらいなら、罪を背負った方がずっとましよ」
 ティスカの激昂が空気を震わせた。ジョーンは苦々しい表情で彼女の声を聞いていた。
「またニンゲンとは……お前、やっぱりあの時のことを引きずってるのか」
「引きずってなんかいないわ。ただ、忘れられないし、忘れたくもないだけよ」
「そういうのを、引きずってるっていうんだ」
 その言葉には敢えて応じず、ティスカは声を張り上げた。
「何してるの、ススキ。早く!」
 彼女の二度目の命令に、すすきは意を決すると、弾かれたように飛び出した。
 瞬間、ティスカの意識がほんの僅かにすすきに逸れ、それを見逃さなかったジョーンの腕が彼女の手の短刀を払いのけていた。宙を舞った刃は、飛び出したすすきの目の前の床に突き刺さって、彼女の足を止めた。
 短刀を弾かれた右手を押さえるティスカを静かな瞳で直視して、ジョーンは仰向けになっていた体を起こした。
「ティスカ、俺を甘く見すぎているんじゃないのか。仮にも(・・・)俺は隊長のひとりだ。お前にねじ伏せられるほど落ちちゃいないつもりだ」
 ジョーンはすすきに視線をやった。
「歯向かうなよ、そこのお嬢ちゃん。妹の家で暴れたり、ましてや殺しなんてのはしたくないんでね」
 すすきはその場に立ち止まったまま、動くことができなかった。相手はまだ手を抜いているということがすぐに感じられた。本気を出されれば即座に斬って捨てられると、そう直感した。




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