これは懺悔なの、とティスカは言った。起きているということを示すのは僅かにも許されない気がして、すすきはじっと動きを止めたまま、耳をすましていた。
「私、あなたに謝らなくちゃいけない。あなたは私にありがとうと言ってくれたけれど、だからこそ私はあなたに謝らなくちゃいけないの。私、あなたに毎日薬を塗ったでしょう。あれね、本当は、怪我に効く薬なんかじゃなかったの。ただひんやりするだけ。嘘、ついてたのよ」
 すすきは目を開けることすらできなかった。瞼を上げればすぐそこにティスカの姿があるはずだったが、それを見ることは酷く怖かった。何故だか、ティスカは泣いているのではないかと思った。
「治ってしまえば、あなたはすぐにでも出て行ってしまうと思ったから。あなたと少しでも長く、食事したり、話したり、笑ったりしたかった。だからわざと、治りが遅くなるようにハーブを選んだの。あなたがここに、一日でも長くいてくれるように」
 ぽつり、ぽつりとティスカは話した。ひとことひとことの間に生じる空白の時間すら、何かの意味を持っていて懸命にそれを伝えようとしているかのように、すすきの耳には届いた。
「ススキ、あなたは私に訊いたわよね。どうして助けてくれるのか、って。私はあなたに答えたわ。人間界の話が聞きたいから、って。それは勿論嘘じゃなかったけど、でも、一番の理由はそんなところにはなかったの。歴史学に興味があるのも本当、人間界のことを勉強しているのも本当、でも、あなたを助けたのは、そんな理由からじゃないの」
 ティスカは答えを口にした。ゆっくりと、止まりそうな声で。
「あなたが、私の友達に、似ていたから。友達だったあの人に、似ていたから」
 家の中は静か過ぎて、ティスカの息遣いさえも聞こえた。自分の呼吸音も相手に届いているのではないかと思えて、すすきは自然と息をひそめた。
「彼女もニンゲンだったの。あなたと同じように“門”を通ってやってきて、あなたと同じ服装をしていて、あなたそっくりだった。ひと目であなたのことをニンゲンだって解ったのも、そのせい。びっくりしたわ。ススキって、本当に彼女とうりふたつだったんだもの。服装だけじゃなくて、髪型も、顔立ちも、性格も、口調までそっくりだった」
 そこで長い長い静寂が空いた。ティスカの声が途絶えると、瞳を閉じた闇の世界には何もなく、すすきは自分が横になっているベッドすらも消え失せてしまったような気がして、掴みどころのない不安感に襲われた。
 だから、ティスカの口がまた言葉を紡ぎ始めた時、すすきは思わず体をびくりと震わせてしまいそうになった。実際に震わせてしまったかもしれなかったが、よく解らなかった。
「ススキと違っていたのは、彼女が故意にこっちの世界にやってきたのではなかったということ。“門”に吸い込まれてしまったんだって言っていたわ。それともうひとつ、彼女はあなたみたいに街中にやって来たわけじゃなくて、私と彼女が出逢ったのは森の中だった。怪我をしてた彼女を私は介抱して、それで、友達になった。行く当ての無かった彼女は私の家に住むことになって、二人で暮らしたの。変な共同生活だったわ、今思うと。ハーブ畑はその頃、まだすごく小さくて、ハーブの種類も片手で数えられるくらいしかなかった。二人で一緒に、少しずつ色んな種をまいて、枯らしちゃったりしたこともあったけど、嵐でなぎ倒されたりもしたけれど、上手く育ったものはハーブティーにして……あのお茶のハーブの組み合わせは、私と彼女で考えたものなの」
 おいしかったでしょう、と少し得意気に言った後で、ティスカは声を落とした。
「彼女がいなくなってもう随分経つけれど、私はずっと、もう一度彼女に逢えたらって思ってた。もう逢えないのは解っていたけど、それでも彼女にもう一度逢って、食事したり、話したり、笑ったりしたかった。無理だって解ってたけど、それでも、心の何処かでそう望まずにはいられなかったの」
 木床の軋む音がした。ティスカが寝返りか何かを打ったのかもしれなかったが、それはあくまですすきの想像の域を出ない、耳で感じる動きでしかなかった。
「ススキと過ごしていて、時々、彼女と過ごしていた時のことを思い出した。重ね合わせて、とても懐かしくて、嬉しかった。楽しくて仕方がなくて、彼女が好きだった料理をススキにも作ってあげようと思って、張り切っちゃった。キノコのスープは、彼女が一番喜んでくれる料理だったの」
 すすきは今晩食べたスープの味を思い出そうとした。飽きる程に毎日食べさせられたスープなのに、今はどうにもぼやけた味しか蘇ってこなかった。必死で思い出そうとすればする程、何か違う味になってしまっているような気がした。
「私はススキと過ごすことで、彼女との日々を再現しようとしてたのかもしれない。でもね、今は少し違うの。確かに最初は何度か、彼女とススキを重ね合わせていたけど、でも途中からは、ススキはススキだったの。見た目はそっくりなのに、ちっとも彼女ではなくなっていたの。だけど嬉しさも楽しさも少しも消えなくて、それどころかどんどん大きくなって、それで、本当の薬を塗ることが、ますますできなくなったの」
 ごめんなさい、とティスカは何かをそっとそこに置くかのようにつぶやいた。
「安心して、今晩最後に塗った薬だけは、本物だから。きっと明日の朝には、すっかり痛みが引いているはずよ。私の薬草、本当はとてもよく効くんだから」
 無理矢理に作ったような弱々しい笑い声が部屋の中に響いて、ゆっくりと消えていった。
「私の話はこれでおしまい。聞いて貰えていなくてもいいの。最後に、言っておきたかったから。言わないままにさよならするのだけは、だめだと思ったから。ねえ、ススキ、私はあなたと友達になれたのかしら。あなたを嘘で繋ぎ止めた私に、あなたと友達になる資格なんて無いのかもしれないけど、それでも私は、少なくとも私は」
 そこまで言ったところでティスカの言葉は途切れた。
「……来てくれて、ありがとう。そして、お休みなさい、ススキ。この五日間、本当に素敵な毎日だったわ」
 布を被る音がして、それきりティスカはもう何も喋らなかった。彼女の声が無くなると、室内が急に冷えていくように感じられた。
 ティスカの話が終わった後も、すすきは瞳を閉じ続けていたが、自分でもどれくらいの時が経ったのか解らない頃になってようやく、ゆっくりと瞼を持ち上げた。自然に持ち上がった、と言うべきかもしれなかった。
 暗闇の中に、目を閉じる前と全く変わらない様子で毛布にくるまっているティスカの姿があった。すすきは無言で彼女から視線を外した。天井を睨み、そして窓の外を睨んだ。星は相変わらず脈打つように輝いていた。
「……ティスカ」
 ぽつりとすすきは呼びかけた。
「起きているなら、何も言わずに聞いてくれ。眠っているなら、そのまま眠っていてくれて構わない」
 こんなに綺麗な星は見たことがないし、これから先見ることもないだろうとすすきは思った。
「私も、楽しかった。本当に素敵な日々だったと、そう思う。怪我の治療をありがとう。おいしい食事とお茶をありがとう。人間界に帰ったら、皆に話すよ。魔界で友達ができた、と」
 すすきも、それきり何も喋らなかった。星を眺めながら、静かに眠りに落ちていった。

*  *  *

 夜明け前に、すすきは目を覚ました。白み始めている空には、もう星は見えなかった。ここ数日の間に染み付いてしまった癖で、慎重に上体を起こすと、痛みは全く無かった。驚いて、思わず左右に数回、上体を捻ってみた。昨日までは僅かにしか捻れなかったのが、今は何の制約も無かった。
 ティスカの薬は本当によく効くのだと改めて感心して、すすきは部屋の中を見渡した。当のティスカは既に起きた後らしく、綺麗な長方形に畳まれた毛布が部屋の角にあるだけだった。
 すすきはベッドから抜け出ると、確認の意味も込めて大きく伸びをした。無論、一応は注意して、控えめに。けれどそんな注意は必要なかったらしく、全快の太鼓判が押されただけだった。
 すすきはティスカから借りていた寝間着を脱ぐと、ティスカから譲り受けた紫陽花色のローブを身に着けた。袖丈が少し長いが、気になる程ではなかった。巫女装束は魔界では目立ちすぎるということが解ったので、ここに置いていくことになっていた。
 すすきはいつものように髪をひとつに結った。ただ、前髪はいつもより多めに残しておいた。顔の全てを見せるよりは、こうして髪で隠しておいた方が、家紋の有無を誤魔化すのにも有効だった。幸い『玄』の国であるので、すすきの黒髪は目立たずに済みそうだった。
 ベッドを整え、脱いだ寝間着を畳み、荷物をまとめると、すすきは部屋を出た。梯子のような階段を下りると、そこはすぐ食卓である。ティスカが台所に立って、朝ご飯の支度をしていた。野菜を刻む包丁の音が小気味良い。
「お早う、ススキ。そろそろ起こしに行こうかなと思っていたの」
「それはすまぬことをしたな。もう少し寝ておればよかった」
 笑顔で振り向いたティスカに、すすきも笑顔を返した。
 ティスカは包丁を置くと手を拭いて、食卓の上に置かれていた四角い包みを手に取った。
「お弁当を作っておいたの、お昼にでも食べて。それにこれ、少しだけど」
 弁当箱をすすきに差し出しながら、ティスカは腰のポケットから小さな布袋を取り出して添えた。金属同士がぶつかる音が、袋の中から聞こえた。
「そんな、受け取れぬ。既に服まで貰っているというのに。お前の金は、お前のために使うべきだ」
 断ろうとしたすすきに、これは私のためよ、とティスカは幾分強い口調で言った。彼女は強引に、すすきの手の中に箱と袋を押し込んだ。
「私がそうしたくてするのだから、私のためなの。案内もできないのだから、せめてこれくらいはさせてちょうだい。それとも、他に何か手伝わせてくれるの?」
「いや、それは」
 駄目に決まっていた。ティスカにコークセアの中を案内して貰えばどんなに助かるかしれないが、二人でいるところを見られればティスカまで犯罪者に加担したとして罪を問われる恐れがある。すすきは、それだけはどうあっても避けたかった。だからこそ、何度も案内役を買って出たティスカを、懸命に説き伏せたのだ。
 やれやれ、とすすきはため息をついた。
「わかった、有り難く頂くよ。何から何まで、本当に恩に着る」
「着なくていいわよ、私からの餞別だと思ってくれればいいわ」
 満足そうな笑顔でティスカが食事の準備に戻ろうとしたその時だった。玄関の扉を、控えめなノックが震わせた。ティスカの顔色が急変した。こんな森の奥の自分の家に、しかもこんな朝早くからやってくる相手の心当たりは、ティスカにはひとりしかいなかった。
 扉の向こうから、低い男性の声がやって来た。
「ティスカ、起きてるか。俺だ」
 心当たりは見事に的中した。突然の来訪者に困惑しているすすきに向かって、ティスカは小声で、そして口早に言った。
「ススキ、あなたは部屋の奥にでも隠れていて。絶対に出てきては駄目よ」
「どういうことだ。彼は何者だ」
 扉の方を見やって、やはり小声で尋ね返したすすきに、ティスカは張り詰めた声で答えた。
「私の兄よ」
「ああ、そういえば兄がいると言っていたな。だが、何故それ程に慌てるのだ。お前の動揺の仕方は尋常ではないぞ」
 すすきは青ざめたティスカの顔を見つめた。ティスカはどう見ても何かを怖れていた。
 軍人なの、とティスカは震える唇でそう言った。
「隠していてごめんなさい、兄さんは軍人で、それも、正規軍全十六隊の中の、第九番隊隊長なの。あなたのことが知られたらただではすまないわ。だから、早く隠れて」
 切迫したティスカの声がそう告げた時、扉がまた叩かれた。




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