第四十七話  「玄(1) 三分の一の偶然」


 ティスカ・ロランは歳のほど九一一歳、人間でいうならば二十代半ばの、黒髪が良く似合う女性だった。彼女は『玄』の国の首都、コークセアの郊外に居を構えていた。菜園で栽培しているハーブは、薬用から香草まで多岐に亘っていて、それを売ることで生計を立てていた。
 森林に囲われた『玄』の国では、植生が多様で豊かである。日光が当たらない森の奥には沼地も多く、希少な動植物が数多く生息している。勿論、ティスカが暮らしているのはそんな奥地ではなく、彼女の菜園で育てられるハーブもそこまで希少なものではない。しかし『玄』の国では、他国では考えられないほどに郊外が田舎なのも確かだった。
 首都コークセアを出ると、すぐに木々の壁に遭遇する。初めてこの国を訪れた旅人たちは、まずここで尻込みし、準備を整えに街へと引き返すことになる。その生い茂る木々の向こう側が、“郊外”と呼ばれる地域だった。他国では“未開地”と呼んでも何ら差し障りがないような地域ではあるが、ティスカはその一角に住んでいた。
 ハーブを売りにコークセアを訪れるのは、二日おきと決まっていた。誰に決められたわけでもないが、それがティスカの生活リズムになってから随分になる。歩いておよそ一時間半、往復三時間の道のりにも、もうすっかり慣れてしまっていた。
 ハーブは概ね好評で、たまに苦情を受けることはあっても、帰路において籠の中に葉っぱ一枚残っていることは無かった。何より、彼女の気立ての良さは街の住民にも評判で、常連客も数え切れないほどに付いていた。ティスカは商売を終えた後、食料品や生活用品の買出しをして空になった籠の中を満たし、足取り軽く帰路につくのだった。
 前回ハーブを売りに行ったのは、一昨日の昨日。詰まるところ、今日はまた、コークセアへ行く日だった。普段は独りで暮らしているせいか、あまり服装には頓着しないティスカだが、三日に一回やってくるこの日ばかりは、身だしなみに気を配らないわけにはいかなかった。
 髪を整えて、首の後ろでひとつに結う。額の右側にある家紋が見えるように穴の開けられた、藍の額当てを着ける。額当てには金と銀の糸で刺繍がしてあって、陽の光を受けると鮮やかに煌いた。遠目からでも、知る人が見れば彼女であるとひと目で解る。ティスカがいつも同じ額当てをして街へ行くのは勿論そのためでもあったが、実際は、装飾品らしい装飾品をこれしか持っていない、というのも理由のひとつだった。
 別段、そこまで切り詰めねば生活していけないというわけではない。ハーブ売りで得られる収入はそれなりのものだったし、幾らかの蓄えもあった。ティスカには兄がひとりいるが、独り暮らしの妹を気遣ってか、時たま彼女の家にふらりとやって来ては何も言わずに札束を置いて帰っていく。ティスカはその金に全く手を付けなかったから、貯蓄は増える一方だった。
 だから、買おうと思えばそれなりの装飾品は買うことができた。コークセアは『玄』の首都というだけあってかなりの都会だから、そういったお店は腐るほどあるし、道端でハーブを売っていれば、露店に並んだ商品は自然と目に付いた。
 けれど、ティスカはそれを買うのを躊躇ってしまう。欲しいと思わないわけではなかった。しかし、いざ買おうと思うと、果たして本当に自分に似合うのかどうか――そんな疑問が頭に浮かんでしまって、手に取った品を戻してしまうのだった。ひとつしかない藍の額当てを彼女は何より気に入っていて、それと比べると他の品はどうにも色あせて見えてしまうのだ。
 そんなわけで、今日も彼女はいつもと同じ額当てで、いつもと同じようにハーブ売りに出かけていくのだった。いつもと同じ道を、いつもと同じ時間をかけて通り、いつもと同じ時間に営業を開始した彼女に、いつもと違う出来事がやってきたのは、そろそろ店じまいだなと思い始めていた時だった。
 それは空から降ってきた。
 三日に一回、街へ出るその日。確率は三分の一。

*  *  *

 すすきはしたたか腰を打った。受身を取ろうにも、落下時間が短すぎて、反応が間に合わなかったのだ。落下時間が短すぎたといっても、落下距離はそうでもなく、落下開始地点は地面から二・三メートルは離れた場所だったから、体に与えられた衝撃と痛みはかなりのものだった。
 歩夕実の巫呪陣と澪の魔力で人工的に“門”を発生させ、その中に飛び込んだまではよかったが、まさか空中に放り出される形で出口をくぐるとは考えていなかった。入り口に飛び込んだ直後に出口に到達したというのもまた、反応が遅れた一因だった。瞬きをしたのと変わらないような刹那の暗闇の後に、いきなり終着点が待ち受けていて、早い話、心の準備が足りなかったのである。
 落ちると思ったその半秒後には、大地と自らの体とがくっついていた。大きな音が鳴り響いた気がしたが、果たして自分の体内の中だけのことだったのかどうか、判断できなかった。
 すすきは地面に打ち付けられた腰の痛みに呻き、顔をしかめ、やっとのことで上体を起こした。骨は折れてはいないようだったが、軽傷と呼ぶには些か甚大な被害だった。彼女の被った痛みに比べて、大地の方は僅かにも苦しむ素振りは無く、何事も無かったかのようにただ静かにそこにあった。
 胸の中で悪態付くと、すすきは半ば止まっていた肺の活動を再開させた。荒々しい深呼吸の後に、固く閉じていた涙目をうっすらと開くと、一気に血の気が引いた。涙も引っ込んだ。
 彼女の体は、大量の視線を浴びていた。繁華街のど真ん中、大勢の通行人が行き交う道の中央に、すすきは座り込んでいたのである。
 黒い木枠に白壁、合掌造りの屋根、という統一された様式の建物が並び、その一階部分ではどの建物も店を開いていた。骨董、書籍、刀剣、家具、宝石、食料品……数多の店舗が道の両端に整列していた。そしてそれらの店の店員・客・通行人を問わず、全ての視線が今やすすきの身に降り注いでいた。彼らが体に帯びる魔力を彼女ははっきりと感じ取ることができ、それはここが魔界であると証明する充分な理由になった。
 すすきを取り囲む群集がざわめいているのが、彼女にも解った。“門”を抜けた瞬間を見た者はほとんどいないかもしれないし、仮にそれを見たところで“門”だったとは理解できなかったかもしれない。しかし、道の真ん中で盛大に転倒している者がいて、しかも身にまとっている衣服が見慣れないものだったのだから、注目されるには充分だった。すすきの巫女装束は、魔界の住民たちの中で、あまりに浮いていた。
 状況が最悪であるということは、嫌でも感じ取れた。血の廻りが悪くなった頭は、今は逆に良くなりすぎていて、額が汗ばむほどだった。何事かを弁明すべきかどうか、まずそこですすきは迷った。このまま無言でこの場から逃げ出すか、それとも適当な嘘で取り繕うか――どちらも、あまり良い策には思えなかった。
 結果、無言が数十秒続いた。それが尚、事態を悪化させているのだということは、周囲のざわめきが次第に大きくなることで実感できた。けれど、かといって思い切った行動にも出られず、ただ先刻強打した腰だけが痛かった。
 未だ痛みの引いていないこの体では、逃げることも叶うまい。何よりこの恰好では、何処へ逃げたところで注目の的となるのは間違いない。ならば腹を決めて、今ここでこの窮状を打破するほかあるまい、とすすきはとりあえずの方針を決定した。
 上手く誤魔化せるか自信はないが、黙ったままではどうにもならない、と彼女が口を開こうとした、その時だった。ひとりの女性が、人込みの中から飛び出し、すすきのもとへと駆け寄った。
「メアリじゃないの、久しぶりね!」
 は、とすすきが聞き返す暇も無く、相手はまくし立てた。
「もう、どうしたのこんな恰好で。あなたはほんと、昔から奇抜な服装が好きだったわよね。腰を痛めたの、大丈夫? 少し飛べるからって、いい気になってるからこんな目に遭うのよ。飛行術の練習なら、もっと広い、ひと気の少ない場所でやらなくちゃ駄目でしょう。馬鹿ねえ、他の人にぶつかってたら、どうするつもりだったの」
「あ、いや、どうも……申し訳ない」
 その勢いに押されて、すすきは訳が解らないままに頭を下げ、相手の顔をまじまじと見つめた。大きめの瞳に、引き締まった眉、すっと伸びた鼻筋。額に、藍地に金銀の刺繍を施した布が巻かれていた。
 どれだけ凝視しても、見覚えのある顔ではなかった。第一、メアリなどと呼ばれたのは初めてであるし、そんな名前を持った記憶も無い。
 すすきの困惑をよそに、女性は地面に転がっていたすすきの荷物を拾い上げ、そして彼女に手を差し伸べた。
「ほら、立てる? 道端で座り込んでちゃ通行の邪魔、早くどきましょうよ。私が手当てしてあげるから」
「……ああ、はあ」
 思わず反応して少し持ち上がってしまったすすきの手を、女性はむんずと掴むと引きずるようにして起き上がらせ、そのまま力強く引っ張った。乱暴に扱われて腰に痛みが走ったが、すすきは呻き声を堪える意外に何も出来ず、ただ女性に連れられるがままよたよたと歩いた。
 彼女の介入によって、場の空気が急に和んだということは、すすきにも察せられた。今まで遠巻きに眺めているだけだった見物人は銘々の行動に戻っていったし、そうでない者は軽い調子で彼女に声を投げかけた。
「ティスカ、お前さんの知り合いかい」
「ええ、そうなの。お騒がせしてごめんなさいね」
「随分珍しい恰好をしてるわねえ、その子。どこの国の服だい」
「さあ、私にも解らないわ。自分で作ったのかもしれないわね、彼女は洋裁が得意だから」
「飛べるってのは大したもんだが、ここじゃあ危ねえよなあ。今度からは慎重に飛ぶんだぞ、嬢ちゃん」
「本当にその通りよね。私からもよく言っておくわ」
 四方八方に笑顔を振り撒きながら、女性はすすきを連れて足早に歩を進めていった。すすきがただ呆然としている間に、いつの間にか、周囲の景色はひと気の無い街外れに変わっていた。道幅もかなり狭まっていて、そこは裏路地といった様相の区域だった。
 周りに誰もいないその場所に辿り着いて初めて、女性はすすきの手を放した。かと思うと、そのままその場にへたりこんだ。
「……もう、びっくりしたぁ」
 うずくまって深いため息を漏らした女性に、すすきは何と言っていいのか解らず、相手を眺めるばかりだった。訊きたいことは溢れんばかりにあったが、何から訊くのが適切か定かでなく、とりあえず名前を尋ねようとしたその時、女性は急に立ち上がってこちらに向き直った。
「あなた、どうやってこっちに来たの。吸い込まれてしまったの?」
 自然発生した“門”に偶然吸い込まれる形で魔界にやってきたのか、ということを訊いているのだと、すすきにも理解できた。それは同時に、すすきが人間であるということを問われているのと同じだった。
「あ、いや、私は……」
「その服は、退魔師の伝統的な衣装のひとつなんでしょう。なら、ここが魔界だということは知っているのよね」
 すすきは更に言葉に詰まった。自分が退魔師であるということまで理解していながら、それならば何故この女性は自分を助けるような真似をしたのか、見当が付かなかった。
「そこまで知っていて、どうして……あなたは、一体」
 女性への明答を避け、すすきは逆に問い返した。
「私はティスカ・ロランっていうの、ただのハーブ屋。そんなに怖い顔をしないで、あなたがニンゲンだっていうことを他の誰かに教えるつもりはこれっぽっちもないわ。ニンゲンの存在を快く思っていない魔族は大勢いるけれど、少なくとも私はそうじゃないから」
 最早、隠し立てをすることは無意味だった。ティスカと名乗った女性は、全てを了解している。仮にここから逃げようとしたところで、彼女に敵意あらば即座に通報されるに違いないし、彼女の言が真実ならば逃走に必要性は無い。手荒な策としては彼女の口を封じるということも可能だが、すすきの力量が上であるという保証も無く、仮にそうであったとすれば、相手から殆ど何も聞き出せていない現段階でそれを行動に移す必要性はますます存在しなかった。
 すすきは観念にも似た心境で、口を開いた。
「助けてもらったことには礼を言う、ありがとう。察しの通り、私は人間だ。時白すすき、という名だ」
 一瞬、ティスカの表情が微細な変化を見せた。その理由をすすきは知り得なかったが、急に揺らぎ、深みを増したような彼女の瞳の色だけが、妙に頭に残った。
 ティスカは視線を地面に落として、何処か戸惑ったように笑った。
「そう……それなら、ススキで良いかしら。姓が前で、名が後ろなのでしょう? 私のことは、ティスカ、で良いわ」
 一方的にそう取り決めると、すすきが何らかの返答をするだけの時間を置かず、ティスカは彼女に背を向けて歩き始めた。
「ついて来て。腰、打ったんでしょう。こんな場所じゃ手当てもできないし、いつまでもここにいたら、また誰かに見られてしまうし。私の家、少し遠いけど、歩くのは辛いかしら?」
 訊かれて、すすきは思わず患部に手を当て、そして首を横に振った。痛みは残っていたが、押さえたり捻ったりしなければどうにか平気だった。
 そう、とティスカは嬉しそうに微笑んだ。
「辛いようだったらすぐに言って。それじゃ、行きましょうか」
 行きましょうか、と言われても、すすきには素直について行くことはできなかった。このティスカという女性が何者なのか、何を考えてこんなことをするのか、本当に信用して良いものか、量りかねていた。
 訝るような顔で立ち尽くしているすすきを見て、ティスカは少し眉尻を下げた。けれど、口もとの微笑は崩れなかった。
「疑われるのも無理はないわね。でも、本当に、ただあなたの手当てをしてあげたいだけなの。病院に行くわけにもいかないでしょう、ニンゲンだと知られてしまうもの」
「それはそうだが、しかし、何故私を助けてくれるのだ。そうまでしてもらう理由が私には思い当たらぬし、だからこそあなたを全面的に信用することもできぬ」
 哀しみを微かに浮かべたティスカの唇が、ゆっくりと答えを紡いだ。
「話を……」
「話?」
「話を、聞きたいの。人間界の話。私、歴史学に興味があって、人間界のことも少し勉強しているの。だからその服装を見ただけですぐにあなたのこと、ニンゲンだって解ったわ。あなたの世界のこと、私に色々と教えてくれないかしら。私もあなたに、魔界のことを教えてあげられるし」
「話は解ったが、だが、やはりお断りする」
 ティスカが言った内容を鵜呑みにもできず、すすきは静かに、しかしはっきりと答えた。今聞いたその内容とて、嘘である可能性は消し去れなかった。このまま彼女について行くのは、危険が大きすぎる。
 ティスカはしばしすすきの目をじっと見つめたまま黙っていたが、不意に口を開いた。
「ついて来てくれなければ、今ここで、大声をあげると言ったら?」
 すすきの体に緊張が走ったのを見て、それを緩ませるかのように、ティスカはにこりと笑った。
「冗談よ。でも、私にはそれができて、でも、私はそれをしないっていうこと、わかってほしいの」
 私の薬草、とてもよく効くのよ、とティスカは最後にそう付け足して、すすきの手を取った。ティスカの手はあたたかく、優しく、すすきの手を包み込むように捕まえた。




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