薄暗い。
 窓から差し込むのは、夜闇の色だった。月も落ちたのか、と男は思った。ほんの僅かな間、椅子に腰掛けたまま、現実の世界から意識を飛ばしていたらしかった。
 寝付きの悪い日々が、もうずっと続いていた。浅く短い眠りを断片的に取ることが、習慣化してしまうほどに。自らの思考を失った状態を長時間継続させることは、不安で仕方がなかった。
 男は腰を上げた。部屋の中は静寂に包まれていて、己の呼吸の音がやけに耳についた。姿見の前に立ち、男はそっと額に手をやった。微かに熱い。鏡の世界の自分が同じ動きをするのを、冷めた目で見ていた。
「あれ以来、少しも痛まぬな……。疼くことも無い。諦めたか、或いは、完全に消え去ったか……」
 妻と、そして息子が死んでからは――いや、殺してからは――苦しむこともなくなった。それ以前は発作的に襲ってきたものだが、今はただ黙している。
 大勢の前にいる最中にその波が押し寄せたこともある。そのせいで、無用の心配をかけられた。醜態を晒したものだ、と男は眉根を寄せた。
 二人を殺したのは自らの手であると、男は自覚していた。どちらの死も、間違いなく自分のためだった。自分のため以外の何物でもなかった。
「もうすぐだ……」
 魔族であるこの身にも、長過ぎる時を待った。本当ならば、これほどまで待たずともよかったはずだ。あの時、裏切られさえしなければ。
 男は眼を閉じた。己の姿を見続けることに耐えられなくなったかのように。鏡に映し出されているのは、最も忌むべき相手の肖像なのだから。今でもまだ、許しを与えることなど出来なかった。そして、それはこの先、未来永劫変わることはないだろう。
 決して逃げられはしないし、逃しはしない。籠の中の鳥。
「お前は今、どんな思いでいるのだろうな」
 ふと口を出た問いかけに返ってくる答えは無く、静けさだけが室内にこだましていた。それでいい、と男は笑った。答えなど必要とはしていないし、仮に返ってきてもそれは意味を持たない。どれだけ非難されようが、道を変えるつもりは無かった。元より、違えてしまった道だ。だからこそ相容れなかったというのに。
 痛みは懐かしくなどなかった。煩いだけだった。聞きたくもない声が、頭に響くだけだった。黙れと叫び続けるような日々は、もう二度と御免だ。
 男は瞼を開いた。瞳に映ったのはやはり、先刻と何も変わらない鏡像だった。
「お前さえ、いなければ」
 男はぽつりと呟いた。出来ることなら、この身を滅ぼしてしまいたかった。しかし、そんなことが叶うはずもない。
 音も無く、白い光が舞い降りた。男は窓の先に広がる夜空に目をやった。黒雲の狭間で、半月が淡い光を放っていた。
「雲の陰に、隠れていただけか」
 月は沈んでいなかった。
「今更、足掻いても無駄な事だ……仮に、残っていたとしても、もう何も変えられはしない。返すつもりも無い」
 夜風が雲を運び、再び月を陰らせた。空が闇に閉ざされるその最後の一瞬、零れ落ちた月光のひとひらが、男の全身を照らし出した。若葉色の光を放った男の髪だけが、暗転した世界の中で、しばらくの間消え残っていた。




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