クロスフォードに謁した後、栞が通されたのはシンヴァーナリエス城北棟最上階の一室だった。案内してくれたのは、栞より少し年上――あくまで外見年齢の話であるが――に見える女性で、どうやら栞の魔術の教師役を命じられたらしかった。丁寧な言葉遣いと優しい物腰の女性で、栞の警戒心も少し緩んだ。流れるような銀の髪をした女性は、エルレーゼ・ライリィと名乗った。
 エルレーゼ・ライリィはゼクラルゼーレ王家正規軍全十六隊の内、第十六番隊の隊長を任せられている。隊長としては新米ながら、魔術の扱いに関しては『白』の部隊の中でも有数の実力を有している。エルレーゼの隊長就任の一因に『白』の人員不足があったのは確かな事実であるが、彼女の力量ならば遅かれ早かれ隊長にはなれていただろうという意見が、軍内部でも大多数を占めている。つい先日の、ブラント・ファルブリー五番隊隊長の救命治療に際しても、総括指揮を任されたのは彼女であり、見事に一命を取り留めさせた。
 隊長・副隊長は、職務のひとつとして輪番制で士官学校生の指導教官を受け持つが、エルレーゼは教官としての評価にも高いものがあった。エルレーゼの教官としての手腕がどれほどのものかは、彼女の指導を受けた学生の伸び具合を見れば明らかである。そんな彼女であるからこそ、魔力の操作術を栞に教える役目が与えられたのである。
 如何に今は無力な少女であろうと、テーゼンワイトの血を引いている以上は、栞は軽視できない存在だった。事実として、トルチェの捕獲魔術“影牢(かげろう)”も、一度打ち消されそうになっている。中途半端な実力の者を割り当ててはいざという時の抑止が不可能であるということも考えた上での、クロスフォードの任命だった。
「こちらが、シオリ様の過ごして頂くお部屋になります」
 エルレーゼが開いた扉の中は、栞の予想以上に広々とした部屋だった。立場的には捕虜のようなものだから、てっきり監獄のような場所に入れられると思っていた栞は、正直驚いた。
 よくよく見ると、そこは相当に高い身分の者が使う部屋のようであった。派手さはないが、高貴さと清澄さで溢れていた。照明器具、机、椅子、書棚、寝台、どれも少しも煌びやかではないし、装飾等が施されているわけでもない。けれど、その配置、バランス、組み合わせが、全体としてひとつの調和を成して、その部屋をこの上なく鮮やかに彩っているのだった。
 栞は、どこか懐かしい気持ちになった。この部屋には以前来たことがあるような、そんな気がしてならなかった。一歩足を踏み入れただけで、心地よさが全身に広がって、胸が熱くなった。
 吸い込まれるように室内に入り込んだ栞の後ろで、エルレーゼが扉を閉じた。
「このお部屋は、代々『白』の魔将がお使いになられてきました。先代のマトア様がいなくなられてからは、ずっと魔将の地位は空席でしたので、このお部屋はマトア様が使われていた状態のままです」
 もちろん、定期的にお掃除はしていますけれど、とエルレーゼは付け足した。
 栞はようやく、この感慨の理由が解った。幼心に覚えている父の部屋の雰囲気と、ここは全く同じだったのだ。眼を閉じれば、すぐそこに父がいるような気がした。机に向かってペンを走らせる音が、聞こえてきそうだった。
「お気に召して頂けましたか。お食事は、朝七時と昼一時、そして夜七時にお持ちすることになっています。おひとりで自由に出歩くことはできませんが、私が同行する場合に限り許可されています。何かありましたら何なりと申し付けて下さいね、シオリ様」
 栞が眼を開けると、エルレーゼが優しく笑っていた。透き通った泉のような笑顔に、栞はついつられて口もとを緩めた。魔界全体に対する敵対心は残っていたが、どうやら、この女性は好きになれそうだった。魔族にも悪い人ばかりがいるわけではなさそうだと、栞は少し意外に思った。
「あの、聞きたいことがふたつあるんです」
「何でしょう?」
「真人さん……私といっしょに魔界に連れて来られた男の子は、今、どうしているんでしょうか」
 『玄』の将の術によって意識を失った彼を見たのが最後で、それきりだった。先程の玉座の間での会話からすれば無事ではあるようだが、やはり心配だった。命に別状はないのか、牢に入れられていると聞いたが、酷い扱いを受けてはいないのか。
 栞の動揺を大きくすまいと配慮しているかのように、エルレーゼはゆっくりと答えた。
「彼でしたら、私の隊の副隊長が治療を行っているはずです。心配しないで下さい、トルチェ様の術はもともと、気絶させる事を目的としてかけられたものですから、命に関わるようなことはありません」
「これから、どうなるんですか」
「陛下が仰られたように、牢の中で過ごして頂くことになります。けれど、罪人のように厳しい措置が取られるわけではありません。安心して下さい」
 そうですか、と答えたものの、栞の表情は晴れなかった。真人は、妹を庇う形で囚われの身となったのである。責任を感じないではいられなかった。そして、だからこそ、クロスフォードの意思に逆らうわけにもいかなかった。
 塞ぎ込んだ栞を気遣うようなやわらかい声で、エルレーゼが尋ねた。
「ふたつめのご質問は、何でしょうか」
 ええ、と栞は真人に対する深憂を拭えぬままに話題を移した。
「“獄門”のことなんです。どうして魔界の方々は、それを開けようとしているんですか。私たちの世界をどうしたいんですか。何のために、こんなことをしているんです? 一度、きちんと聞いておかなければいけないと思って」
 訊いた途端に、エルレーゼの顔に不思議そうな色が浮かんだ。
「ご存知、ないのですか」
「知りません。何も解らないままに連れて来られたんですから」
「そうですか、それでは私たちのしていることに難色を示されるのも無理はありませんね」
 エルレーゼは残念そうに笑うと、話を続けた。
「けれど、事情を知って下されば、きっと協力して頂けると思います。陛下は人間界の方々と争いを起こしたいと思っているわけでは、決してないのです」
 王のことを悪く思わないで欲しい、という想いが、エルレーゼの言葉からは強く伝わってきた。彼女の目はとても、いい加減なことを言っているようには見えなかった。
「そもそも、“獄門”を開くという計画自体が、機密的なものなのです。一般の方々はもちろん、この計画を関知しているのは軍の中でも一部の者だけです」
「どうしてですか。そんな風に、秘密にしなければいけない理由でも?」
「真実を公表してしまえば、魔界中が混乱に陥ってしまうことが明らかだからです。民衆を動揺させないためにも、秘密裏に進めてきたんです。けれど、シオリ様には知る権利があると思います。何といっても、“獄門”を開く四人の中の一人なんですから」
 そもそもの原因はここ数十年来の環境変動なのだとエルレーゼは語った。魔界には四つの国が存在しているが、その何れの地域においても、異常気象や自然災害が頻発しているのだと。
「これだけの世界規模で異変が起こるなんて、未だかつて無かったことなんです。世界中で、被災者や難民が大勢苦しんでいます。軍も救難活動に当たっているんですが、数が多すぎてとても対応し切れていないのが現状です。『朱』の国では旱魃が続いていますし、砂漠化の被害は拡大する一方です。『青』の国では長雨による洪水の被害が止まりません。『白』の国はこれまでにないような豪雪に雪崩、『玄』の国では森林の立ち枯れが問題になっています。地震や津波は至る地域で発生していて、環境の状態は、年々悪化の一途を辿っています。原因は不明で、改善される見通しは、正直なところ全くありません。けれど、だからといって、民衆に向かってそんなことは言えないのです」
 それは死刑を宣告するに等しい。崩れゆく世界で、世界と一緒に滅びよと言うようなものだ。滅びを告げられた者が、その絶望の中でどのような行動に出るかなど、想像に難くない。
「食糧や水、物資が不足する中で、民衆には、辛抱するように言っています。必ず、この世界は元に戻るからと。でも本当は、大地の力はどんどん弱っていく一方で、もう魔界は回復しようがないのではないかというのが、私たちの所見なのです」
 栞はいつしか、息を止めるようにしてエルレーゼの話に耳を傾けていた。
「魔界ではもう生きていけないと考えた時、残された場所は人間界しかありませんでした。けれど、私たち魔族は、人間界では長く生きることができません。魔界の大気中に含まれている、魔力の源とも呼べる成分が、人間界には一切存在していないのです。このまま人間界に移り住んだところで、それでは数年の内に私たちは死に絶えてしまいます。そこで、提言されたのが、“獄門”の開放です」
 “獄門”を開くことで魔界と人間界は半永久的に繋がれ、人間界へと流れ込んだ魔界の大気が、そこでの魔族の生存を可能にする。人間界が魔界住民の避難地足り得るためには、“獄門”の開放が必要不可欠だった。
「魔界の窮状の打開策として、クロスフォード陛下が“獄門”の開放を裁可されたのが、丁度六年前のことです。一千年前の大戦で人間界に残されたままになっていた『玄』の“聖禍石”の回収はすぐになされましたが、問題はマトア様が所持したままその行方が解らなくなっていた『白』の“聖禍石”でした。それに、その“聖禍石”を機能させられるだけの魔力の持ち主も存在しなかったため、私たちは両面における捜査を続けました。結果、六年の歳月を経て、ようやくシオリ様と“聖禍石”を発見したというわけです」
 そこまで話して、エルレーゼは小さくため息をついた。やり切れない表情だった。
「もちろん、“聖禍石”の回収に際して、人間界の方々に犠牲が出ていることは知っています。けれど、どうか解って下さい。私たちも、好き好んで人間界の方々に危害を加えているわけではないのです。“獄門”を開放するのも、人間界に侵攻するだとか、そのような理由からではないのです。死にゆく魔界の民衆を救うため……クロスフォード陛下も、苦渋のご決断をなさったのです」
「魔界の民衆を、救うため……」
 栞の口は、無意識の内にエルレーゼの言葉を繰り返していた。
「でも、それじゃあ人間界の人たちはどうなるんですか。“獄門”が開けば、猛獣のような魔物たちも人間界に来てしまうんでしょう。魔界のためなら、私たちの世界の人はどうなっても構わないっていうんですか」
 栞の脳裏には、自分たち姉妹を襲った緑色の流動体のような生物の姿が蘇っていた。そして、その時の押し潰されるような恐怖も。
 エルレーゼは真摯な表情になって首を振った。
「いいえ、そのようなことは決して。“聖禍石”の回収に伴う争いは避けられないことでもありましたが、必要以上の被害を出すつもりは陛下にも私たちにもありません。“獄門”の開放自体は、人間界の方々にとって何ら危険を伴うことではないのです。その後の保全に関しては、私たち軍の人員が責任を持って行います。魔物や犯罪者の越界は、厳しく取り締まることになっています。人間界の平和を乱すような真似は、一切行いませんし、行わせません。信じて下さい。私たちにはもう、人間界に縋るよりほか、望みがないのです」
 訴えかけるような彼女の瞳に、栞は反論する術を失った。魔界の住民なんて滅びてしまえばいい、などとはとても言えなかったし、思えなかった。人間界のために魔界を見捨てるということは、とても身勝手で利己的な考え以外の何物でもないように思えた。
「シオリ様が人間界のことを心配されるのも無理はないと思います。でも、どうか、私たちを助けて頂けないでしょうか。それができるのは四魔将の方々だけ、シオリ様を除いては他にいらっしゃらないのです」
 栞は一度視線を外すと、眉間を狭めて俯いた。どうすることが正しいのかなど、解らなかった。ただ、今ここで魔界への助力を拒否することはできないということだけは解った。何より、真人の存在を思えば、選択の余地は存在しなかった。どうしたって、彼を死なせるわけにはいくはずもなかった。
「わかりました。教えて下さい、魔力を扱う方法を。お役に立てるかどうかはわかりませんけど」
「ありがとうございます、シオリ様」
 飛びつくように栞の手を握りしめたエルレーゼに、栞は曖昧に笑った。
「あの、ひとつだけお願いしたいんですけど」
「はい、何でしょうか、シオリ様」
「その、“シオリ様”っていうの、やめてもらえませんか。私は教わる側ですし、そういう風に呼ばれるのも好きじゃないです」
 一瞬、エルレーゼは驚いたような顔になって、その後で嬉しそうに笑った。




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