第四十五話 「都(1) Savior」 シンヴァーナリエスは、アグニス海のほぼ中央に位置している。人口およそ二万五千人のこの街は、その住民を連れて空中に浮遊している。それを可能としているのは、本来ならば街の地下に当たる部分に設置された、巨大な装置である。 この浮遊装置が、殆ど原型を留めていない城壁とともにアグニス海の海底から発見されたのは、ゼクラルゼーレT世の治世が始まって十二年の後のことであった。推定八十五万年前の古代文明の遺産と認められた後、王家の監督の下で装置の研究・復元が行われ、皇暦五九七年、シンヴァーナリエスは長き時を経て再び宙に舞い上がった。“シンヴァーナリエス”とは古代語で“彼方なる天空”の意であり、崩れた城壁に辛うじて残存していた文字を都市の名として採用したのであった。 シンヴァーナリエスを浮遊させ続けるのには、膨大な魔力が必要である。復元された装置は驚くべき技術でもって作られていたが、都市ひとつを浮かび上がらせるだけの魔力となると、やはり並の量ではなかった。 しかし、当時の魔界の争乱状態を考えれば、浮遊都市の存在は王都として最も相応しいものだった。獰猛で巨大な魔物や、新たな統治者に不満を持つ叛乱分子などの外敵からの侵入を阻むのに、これほど適した都はなかった。そこで、ゼクラルゼーレ王家は王都の住民を募った。住民たちから安全な居住環境の代価として魔力を徴収することで、都市を浮遊させる動力に当てようと考えたのである。 かくしてシンヴァーナリエスは、約四千年の昔に作られた制度に従って、今も天空に在り続けている。初期は貴族や領主といった高い身分の者しか住まうことを許されなかったが、ゼクラルゼーレW世が統治する現在は、その規制も大分緩くなっている。とは言え、定期的な魔力徴収に堪えられるだけの力量が求められるため、誰もが無条件に住民となれるわけではない。 シンヴァーナリエスの街並と王城は、都の再浮上に際して新設されたものである。あらゆる業種の店が建ち並んでいるため、住民たちは下界に赴かずとも不自由することはない。もっとも、物品の納入元の大半は下界ではあるが、そういった品々の仕入れは商人が行うことなので、一般住民が気にかける必要はないのである。 下界への経路には、転移装置が使われる。これは浮遊装置と同時に発見された古代文明の遺産のひとつで、今では研究解析が進んだため、地上の主要都市間の移動にも用いられている。 この転移装置を利用すれば、下界に住む民衆もシンヴァーナリエスへ来ることが可能である。都に入るのには身分や魔力量などによる規制は存在せず、全ての者に来訪が認可されている。民衆に広く開放された都であるべき、という理念に基づいて、審査や身分証明などといった厳しい査定も行われていない。それは、内乱や紛争がごく稀となった今の時勢でこそ可能になったことであり、少なくとも国家間の諍いは平定されたという証でもある。ただし、浮遊都市という特性上、シンヴァーナリエスが一日に許容できる安全定員は限られており、入都には許可証が必要である。住民と軍人、そして一部の商人には永続的な効力を有する許可証が発行されているが、他の一般民衆は、一時的な滞在許可証の発行を申請し、公正な抽選によって選ばれるのを待つのが決まりである。 そんなシンヴァーナリエスに、許可証を持たずにやって来た少女がいた。名前は高瀬栞。正しくは、やって来たのではなく、連れて来られたのである。 シンヴァーナリエス城中央棟、玉座の間で、栞は魔界の統治者からの質問を受けていた。 「お前がマトア・テーゼンワイトの娘か」 クロスフォードの質問に、少女は口を開こうとはしなかった。ただ、睨むような強い視線を、一段高い場所に鎮座している彼に投げかけ続けていた。 クロスフォードは奇妙に感慨深くさえあった。こうした敵意を剥き出しにした視線を誰かから浴びせられるのは、実に久しい事だった。クロスフォードの指示ひとつで己の首が簡単に飛ぶという状況下にあってなお、怯えや恐れを一切見せない少女は、それだけでも彼の賞賛に値した。後ろ手に縛られ、しかし決して面を伏さず、跪こうともせず、少女はこの世界の支配者を真っ直ぐに睨んでいた。 玉座から一直線に伸びた赤絨毯、それに沿うようにして立ち並んだ臣下の中から、非難の声が上がった。 「陛下に対して無礼であろう、小娘。態度を慎まぬか」 「よい、構わぬ」 玉座に腰を下ろしたままで、クロスフォードは口の端を僅かに上げた。しかし陛下、とまだ何事かを言わんとする臣下に対して、クロスフォードは軽く手を上げただけでそれを抑止した。 「これくらいの気概の持ち主であってこそ、魔将たるには相応しい」 「私があなたたちに協力するとでも思っているの」 静かな、それでいて熱を持った栞の声が、玉座の間にこだました。ほんの一時間前まで涙していた少女の声だとは、誰にも思えなかった。栞自身、自分の声音の強さには驚いていた。 「私の大切な人をたくさん傷つけて、許さないから」 「許さない……か」 クロスフォードは栞の瞳を見つめ返した。そして、その視線を彼女の髪の毛にもやった。魔族にはおよそ有り得ない色をしている。 「そのような瞳と髪の色で、よく言えたものだ。魔力も僅かにしか感じられぬ。今のままでは、とても任を果たせそうにはないな」 テーゼンワイトの家紋も、今は額に表出していなかった。栗色の瞳と髪を蔑まれたような気がして、頬にかっと血が上るのを栞は感じた。手首に縄が食い込むのも、気にならなかった。 「私の瞳と髪は、この色です。任なんて、果たすつもりも、果たさせられるつもりもありませんから」 「お前の意思は関係ない。『白』の“聖禍石”を扱うに足る人材がお前を除いては存在しない以上、お前のすべきことは決まっている」 「嫌です」 「お前の意思は関係ないと、言ったはずだ」 クロスフォードが言い放つと同時に、栞の背後の空間が、緑色に弾けた。彼が何らかの魔術を行使したのだと栞が理解できたのは、両腕が自由になったのを認知した後だった。急に解放された腕を恐る恐る前に持ってくると、焼け焦げた縄が手首の周りに黒く跡を作っていた。煙の臭いが鼻を衝いた。 「威そうとしたって、無駄だから」 声の震えはもう隠しようがなかったが、それでも栞は屈しようとはしなかった。相手は自分の存在を必要としているのだから、危害は加えられないはずだ、という思いがあった。燻るように熱い手首は、怖れをもたらすには充分だったものの、辛うじて打ち倒されずにすんだ。 少女の強情さを楽しんでいるのか、クロスフォードには少しも苛立った様子がなかった。不遜な物言いにも、悠然とした構えを崩すことなく、ただ彼の落ち着きだけが際立った。それが逆に、栞の畏怖を煽った。 トルチェ、と突然に彼は『玄』の将の名を呼んだ。玉座のすぐ近くに控えていた少女は、畏まって返事をした。 「ハイ、なんでしょうか」 「お前は、別の人間も魔界に連れて来ていたな。先刻、救命措置も願い出ていた」 「ハイ、人魔術の使い手です。うっかり……じゃなかった、ナリユキジョウ、連れてこざるをえませんでした。キョウミぶかいノウリョクの持ち主ですので、ショバツしないでいただきたく」 不慣れな言葉遣いで、トルチェははきはきと答えた。その小さな子どもにしか見えない体が、実は自分の数倍の年月を生きているなどということは、栞は知らない。無論、トルチェの年齢は魔族の中では子ども以外の何物でもないのではあるが、人間ならばとうに老人である。 人魔術師が話題に上った途端、栞の顔から血の気が引いた。 「そうだ、真人さん――……」 「察しがいいな。頭は悪くないようだ」 クロスフォードは満足気に眼を細めた。 「トルチェの願いもあって、今はただ牢に繋ぐだけに留めているが、別段生かしておくことに意味も無いのだ」 栞は声を荒らげ、一層強い眼差しをクロスフォードに向けた。 「卑怯です。真人さんを人質にとるなんて。真人さんは関係ないでしょう、手を出さないで」 「ならば、どうすれば良いか、解っているであろう。成就の暁には、お前たち二人とも人間界に戻してやることも可能だ」 半ば命令に近い言葉で問われて、栞は唇を噛みしめた。最早、何も言うことができなかった。 「尤も、現在のお前では話にならぬ。すべきことを為し得るだけの力があるまい。次の“獄門”開放日まで、まだ些かの余裕がある。それまでに訓練をしてもらおうか」 クロスフォードの緑色の瞳が、栞を嘲笑うかのように鮮やかに光った。少なくとも、栞の目にはそう見えた。彼の額では、王家の印である“ゲフェスディア”が、同じく緑の光を放っていた。 金色に光る彼の手は、突然視界から消え去った。届く、と思ったその瞬間の出来事だった。彼の名前を叫んだ、その瞬間の出来事だった。 そして連れて来られたのは、父親の生まれ育った世界だった。陛下の御前にお連れするからしばし待て、と言われて、言われたままに待った。それ以外にどうしようもなかった。できることは、涙を拭って、みっともない表情を繕うことだけだった。せめて、相手に馬鹿にされないような顔で、胸を張って対面してやろうと思った。 実際に対面して、涙は見せずに済んだものの、だからといって自分が何かに勝ったという訳でもなく、ただ己の小さな意地だけが感じられて、余計に惨めな気持ちになった。結局のところ、泣こうが泣くまいがこの状況に何の変化ももたらさないのだと気付いて、涙を堪えることが良かったのか悪かったのか、はっきりしない。涙の理由は何なのだろうと考えるが、それすらも明確な形を得ず、薄ぼんやりと頭を漂っている。 母親は心配してはいないだろうか。妹はどうしているだろうか。自分の涙の理由は解らなかったが、自分が誰かの涙の理由になっているのではないかと思うと、今会いたいという想いと相まって心が波打った。 最も強い不安は、傷だらけになった彼のことだった。彼が死んではいないことを願わずにはいられなかった。それは、最後に大きな言い争いをしてそのままになってしまったためかもしれなかったし、彼の流した血が自分のせいであったという罪の意識が残っているためかもしれなかった。 ただひとつ言えることは、届かなかった彼の手が、あの時あれだけ近付いた彼の手が、今はもう遠い場所に離れてしまっているということだった。とても触れることの出来ない距離で隔たれてしまったと思うと、大切にしていたグラスを割ってしまったような、そんな気分になった。 彼の手が届けば、それだけで元に戻れるような、そんな気がしていた。どこか遠くなってしまった彼の言葉も、冷たくなってしまった彼の微笑みも、ずれてしまった彼との関係も。 彼が伸ばした手が届けば、自分はもう一度笑えて、そして彼ももう一度笑ってくれて、全部元通りになるような、そんな気がしていた。 でも、彼の手は目の前から消えてしまって、金色の光だけが目に焼きついて消えなくて、その時の彼の表情なんて思い出せなかった。 どうして彼を拒絶するような真似をしてしまったのか、未だに解らなかった。ただ、彼は彼ではなかった。嘘で塗り固めた臭いがした。耐えられなかった。 それが初めからだったのか、途中からだったのか、もっと前からだったのか、判断する術は持ち合わせていなかった。何れにせよ、思い出せる彼の顔は、全て偽りに見えた。 その嘘が途中からでなかったとすれば、自分は急に耐えられなくなったということだった。急に気付いて、そしてすぐに限界が訪れた。それまでは何ともなかったのに。 仮に初めから、もしくはもっと以前から偽りが存在していたとしても、それは偽りだけではなかったはずだと、何度思い返してもそう感じた。必死で覆い隠していた殻の隙間から、僅かにでも見える本当があったのに、彼はその小さな隙間すらも塞いでしまったのだ。何かから逃げるように。 そして、そんな彼に耐えられなくなった。何かから逃げる彼は、自分からも逃げているように感じられた。悔しかったのかもしれない、逃げられるのが。だから逃げたのだ、彼の前から。追いかけて欲しかったから。 追いかけるために逃げた? 追いかけてもらうために逃げた? よく解らない。わからない………… |