竜の助力を得られることになって、澪は顔中の筋肉を緩めた。マァルと同列に扱われることには異論が無い訳ではなかったが、不満を口に出来るような立場では無いことも充分に承知していたので、諸手を上げて喜ぶべき大成功であると言ってよかった。
「それで、体の調子はどう? 回復に時間がかかりそう?」
 あまり悠長にもしていられないので、澪はクーレイに尋ねた。竜が飛べないことには、契約の成功も全く意味を成さない。
 クーレイはマァルのすぐ傍まで寄せていた頭を戻すと、頼もしい声で言った。
「いや、もう殆ど完調だ。いつでも飛べる」
「マァルってばホントに頑張ってくれたのね、よかったあ」
 安心して胸を撫で下ろした澪だったが、でも、と続けた。
「この獣たち、どうしてクーレイを襲ってきたのかな。クーレイを倒したって、こんなに仲間がやられちゃうんだったら何の意味があるんだろ」
「犠牲の数は関係ないのだ、そやつらには。いや、犠牲という概念すら持ち合わせてはいないのだろう。元より、我を殺すことだけを目的としているのだからな」
 全てを了解しているかのように、竜は静かな声を響かせた。どういうこと、と澪が訊いた。
「どうしてクーレイを殺さなきゃならないの」
「このような襲撃は、今回に始まった事ではないのだ」
 澪の質問に直接は答えず、クーレイはそう返した。そして説明を続けた。
 マトアの下を去り、ただの竜に戻った後。クーレイがハーデン山に帰還してから数年が経つと、住み処を襲ってくる獣の数が急増した。古巣に戻った時点で、辺りに住まう獣の量と質の激変ぶりには驚いてはいたのだが、よもや竜である自分を標的としようとは思ってもいなかった。近頃はそれが更に激化、果ては今日の不覚である。
「この獣たちが備えていた毒の強さと質は、自然発生的には在り得ない。己の身に受けたからこそ解る。魔力そのものを蝕む、このような質の毒を備えていれば、それだけでその身を滅ぼすだろう」
「自分の毒が強すぎて、長生きできないってこと?」
 その通りだ、とクーレイは頷いた。
「この獣たちは、我を殺すことだけを目的にしている……目的にさせられて、産み落とされたのだ。その僅かな生は、我を狙う間だけ持てば良いという考えの下にな。そなたの話を聞かされて、確信した。この件には、裏で手を引いている何者かが存在している。そしてその者の存在に、恐らくマトアは気付いたのだ」
 そこにこそ自分が狙われる理由があったのだと、今ではクーレイは理解していた。
「知っていると、思っているのだろう。以前はマトアの竜であった我が、何らかの事実を耳にしているのではないかと。そして恐れているのだろう、それが我の口から明るみになる事を。実際は、マトアは我に何も告げてはいないのだがな。告げてくれていた方がどんなに良かった事か」
 ちょっと待って、と驚きを露わにした声で澪が口を挟んだ。
「最近は辺りをうろつく魔物の数が増えた、ってマァルが言ってた。あちこちで街を襲ってるやつらも、その誰かが差し向けた連中だってことなの?」
「まず間違いはあるまいな」
「おかしいじゃない、クーレイの口封じが目的なんだったら、この山にだけ獣を放てばいいことでしょ。それに、クーレイがこの山に戻って来た時にはもう、変な獣たちは沢山いたんだよね? だったら順序が逆じゃないの。誰かが獣に街を襲わせてて、そのことをお父さんに気付かれて、クーレイも真相を教えられてたんじゃないかっていう疑いから口封じをしようとしたわけでしょ」
「我を襲う獣と、街を襲う獣……その目的は全く別であると考えるべきだろう。ある程度の予測は付いている。しかし、理由が解らぬ。手段としての目的が引き起こす結果は理解出来ても、その結果を何の目的としているのか。何の益がそこに在るというのか。或いはそれすらが、更に高次の目的を果たすための手段なのか」
 よくわからなくなってきた、と澪が難しい顔をした。
「無理もない。『白』の真の価値を、そなたは知らぬのだろう」
「シンのカチ?」
「この先、真実を知るためには恐らく必要な事だ。そなたには教えておいてやろう」
 竜はそう言って語り始めた。それは、澪の――いや、彼女のみならず魔界に住む殆どの者が知り得なかった、この世界の裏側だった。

*  *  *

 体を激しく揺さぶられる感覚に、マァルは顔をしかめた。まだ酷く体が重い。もうしばらくは休息を欲している。起こしてくれるな、と靄のかかった頭で考えた。
 しかし、彼の体の震動はますます激しさを増すばかりだった。無理矢理に靄を吹き飛ばされていくような、そんな状況下でマァルの意識は現実世界に戻り始めた。
 同時に、感覚が明瞭になってきたためか、自分の体が揺れ続けていることに対して身体的拒否反応が生じた。胸の辺りがむかむかとしてきて、徐々に吐き気が込み上げてくる。頭に折角回り始めた血液が、また引いていくのが解った。確認の仕様が無いが、恐らく自分の顔は真っ青になっているだろうとマァルは妙に冷静に分析した。
「ちょっと、いいかげんに起きて!」
 頬を叩かれる軽い痛みに、マァルはうっすらと目を開けた。体を揺らしていた震源が、彼の目の前で眉根を寄せていた。震源の背景には、夜空が広がっていた。
「ミオ……」
「やっと気が付いた。顔色悪いわね、大丈夫?」
 それは貴女の所為で御座います、とは気分が悪すぎて言えなかった。
「何だよ、俺はまだちっとも回復してないんだよ? 頼むから、もう少し休ませてくれよ」
 そうはいかないわ、と澪は厳しい口調で言った。
「一応アンタにも同意してもらわないと駄目だって言うのよ」
 誰が何を、とマァルは聞き返した。
「クーレイに決まってるじゃないの。アンタが介抱したくせに、何言ってるのよ」
「クーレイ……って、竜が意識を取り戻したのかい」
 驚いて、マァルの瞼が一気に上がった。途端に、それに連動するかのように、体中の感覚が蘇った。一瞬でマァルは、自分が何処にいるのかを理解した。理解して、転げ落ちそうになった。
 澪とマァルの二人は、話題の中心そのものの背中に乗っていたのだ。
「こ、こ、これは一体どういう」
 呂律が回らなくなったマァルを、見返った竜が直視していた。
「初口からの動揺ぶりだな。これでは半人前にも満たないのではないか。四分の一が良いところだ」
 呆れた様子のクーレイを、慌てたように澪が仰いだ。
「そんなこと言わないでよ。あたしと合わせても一人前に足りなくなっちゃうじゃない」
「その時は、契約は無効だ。若しくは、ミオ、そなたが四分の三を負担するのだな」
「四分の三って……何だか逆に器用じゃない?」
 普通に竜と会話をしている澪に、マァルは唖然となった。気を失っている間に竜の背中に乗せられ、洞の外まで運び出されたのだということはどうにか解ったが、丸く開いた口からは何の言葉も出てこなかった。
「マァル、そういうわけだから、アンタもしっかりしてよね」
 そうは言われても、どういう訳だかさっぱりであった。マァルは動かない口の代わりに、瞼を幾度も上下させた。
 ここでようやく、マァルが何よりも必要としていた説明がなされた。ただ、それは彼が望んでいたような説明ではなかった。
「あたしとアンタ、二人でクーレイの主人になることになったから」
 さも何でも無さそうに、澪の口が述べた。
「クーレイに指示をするには、アンタも一緒にいる必要があるってことよ。わかった? わかったら、出発するわよ」
「ちょ、ちょっと待った。それってもしかして、俺もミオと一緒に王都まで行くってことかい」
「当たり前じゃないの。でなきゃクーレイは飛んでくれないんだから。第一、あたしは魔界に詳しくないんだから、アンタが案内やら説明やらしてくれないと困るじゃない」
「そんなァ、俺はてっきり、竜のところまで案内すればお役御免だと思って……そんな話、聞いてないよォ」
「言ってなかったっけ?」
 まあいいや、と澪はマァルにとって非常に重要な部分をあっさりと流した。彼女にとってはマァルの同行は最早決定事項であって、そして彼には拒否権など存在しない。
「さあ、クーレイ、飛んでちょうだい。王都は警備が厳しいから、直接は近付けないのよね? よし、目的地は『白』の首都よ。おばあちゃんに一応の報告をしておきたいから、街の人たちが避難してる洞窟経由でお願い」
 文句無いわよね、と澪は背後の青年に笑いかけた。目は笑っていなかった。
「別にいいじゃないの、アンタだって王都に行ってみたかったんでしょ。竜に乗って行けるだなんて、こんな機会、またとないわよ」
「そりゃあそうだけど……」
「なら決まりじゃない。クーレイ、マァルもいいってさ」
 強引な解釈でマァルの言葉を了承へと変換して、澪は竜の首筋をぺしぺしと叩いた。クーレイは半ば呆れ気味に、それでもその強大な翼を広げた。
「しかと掴まっておくことだ。振り落とされるなよ」
 そう言うと同時にクーレイは四本の脚で地を蹴り、振り上げた翼を勢い良く振り下ろした。ただ一度の羽ばたきで、二人を乗せた巨体は星空高く舞い上がった。
 月明かりに蒼白く浮かび上がった、ハーデン山脈の山並み。その裾野から広がった、銀色の雪原。更にそれを越えた先に見えるのは、深遠な闇を抱え込んだ夜海。
 そこまで俯瞰して、澪は海の向こうにあるのであろう空中都市に思いを馳せた。そこに、自分の追って来た二人がいるはずだ。
 絶対にもう一度会って、そして、一緒に帰るんだ。澪は口の中でそうつぶやいた。
 決意を新たにしていた澪に、そんな引き締まった気分を台無しにするような声が飛んできた。
「ミオ、やっぱりやめようよ。俺、高所恐怖症なんだよォ」
「……なさけな」
 白い眼で見られても、マァルはかぼそい声で弱音を続けた。
「ばっちゃんにも言われたじゃないか、“飛行注意”って。今、こうして飛んでいることこそ、最大限に危険な行為じゃないかァ」
 言われてみれば、と澪は考え込んだ。オフィールに占いをしてもらった際、最後に付け加えられた言がそれだった。
(飛行注意……飛行注意ねえ。まさか、とは思うけど)
 クーレイ、と澪は自分が座っている相手に声をかけた。
「何か?」
「あたしたちを首都まで送り届けたその後、アンタはどうするの」
「どうもせぬ、住み処にまた戻るだけだ。それとも、まだ我に頼みたいことでも?」
 うん、と澪は答えた。
「もうひとつだけ、お願い」
「主の命ならば、従わぬ訳にはいかぬな」
 夜空を切り裂いて飛翔するクーレイは、観念したような口振りで言った。




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