第四十四話  「白(6) 契約」


『契約は今この時をもって破棄する。ハーデン山に帰れ、クーレイ』
 宵闇の下、唐突に下された主の命令に、竜は逆らう言葉を持たなかった。いや、逆らえなかったのはその命令にではなく、彼の瞳にかもしれない。
 そこには、揺るぎ無い心が映し出されていた。そして、彼が一度心を決めればそれは決して覆らないということを、この数百年に亘る付き合いの中で知ってしまっていた。その折れることの無い意思の強さは何処から来るのだろうかと、不思議ですらあった。
 けれどせめて、理由を聞かせて貰いたいと思った。それくらいの権利は己にもあると思った。
 そのことを率直に口にした竜に、主はしかし答えを示さなかった。
『私の一方的な我儘だ。不出来な主人の、最初で最後の我儘だと思って、どうか聞いて欲しい』
 そんな風に言われて、どうして納得することが出来ただろうか。
 狡い、と思った。
 そんな風に言われて、どうして反論することが出来ただろうか。
『随分と勝手な物言いだとは思うが……元気で』
 主も、とそれだけを返して、クーレイは星空に向かって羽ばたいた。気ままな独り身に戻ったはずなのに、少しも解放された気分ではなかった。
 主だった男が反逆者として死没したと耳にしたのは、それから十数年の後のことだった。

*  *  *

 固く閉じられたままだった瞼が僅かに震えたかと思うと、ゆっくりと持ち上がった。純金のような光沢を放つ瞳が、その下から現れた。
 それに気付いた澪は、歓喜と安堵に口もとを緩めると、金の瞳の持ち主に向かって嬉しそうに顔を寄せた。
「気が付いた? よかったあ、死んじゃわなくて」
 未だ焦点が定まらないのか、金の瞳は一度細くなって、また開かれた。
「大丈夫? 気分は悪くない?」
 自分の顔を覗き込んでくる少女を煩わしく思ったのか、竜は地に伏していた長い首をもたげた。瞳と同じ金色の鬣が、流れるように波打った。
 ゆらりと四つ足で立ち上がった竜は、頭を一度大きく振り払った。同時に、光の粒が空気中に舞うように、鬣と鱗が煌いた。黒い返り血で体中が汚れてしまっているのに、一瞬、それを忘れさせるような麗姿だった。
 周囲を見回し、累々たる獣の死体を眺め終えた後で、竜の思考はようやく平時の感覚を取り戻した。記憶を辿り、現状を認識し、空白の時間を推察によって埋めた。
 小娘、とその大きな口が初めて物を言った。自分のことを呼んでいるのだと一拍遅れて理解した澪は、竜を見上げる表情を少し固くした。
「そなたか、我を介抱してくれたのは」
「ううん、あたしじゃない」
 澪は首を振ると、竜の足下でぱったりと力尽きている青年を指差した。
「解毒をしたのはアイツ。魔術が苦手なんだってさ、アンタの治療を終えるとそのまま気を失っちゃった」
 少し嬉しそうに澪は笑った。
「会った時からずっと、いっつも腰抜けでさあ。あたしの後ろに隠れるわ、すぐに弱音を吐くわ、軟弱で頼りなくて情けなかったの。でもね、今回だけは頑張ってくれた。無茶とか無理とか大嫌いなのに、自分の魔力がすっからかんになって意識が無くなるまで、アンタの治療を続けてくれたの。せいぜい感謝してよね、アイツに」
 竜は、澪が指差した先で大の字になっている男を見やった。その表情が僅かに緩んだように、澪には見えた。
「ああ、感謝しよう。お陰で、我を蝕んでいた毒は完全に洗い流されたようだ。命拾いをさせて貰ったな」
 深く澄んだ瞳が、澪を見つめた。
「して、そなたたちは?」
「あたしは澪。アイツはマァル。本名は確かもっと長かったんだけど」
 忘れた、とあっさりと澪は言った。今は文句ひとつ言えない彼のために注記しておくと、正式な名はマァシェンフレリオール・マレクシファーミリアンである。もっとも、彼の名前を忘れてしまっていようと、澪の話の進行には何ら支障は無い。
「アンタはクーレイよね?」
「確かにそうだが。そなたたちが此処まで来たのは、我に何か用あってのことか」
 澪は力強く頷いた。
「アンタの力を貸してほしいの。大急ぎで王都に行かなくちゃいけないのよ」
 白銀の竜、クーレイは自分を“アンタ”呼ばわりする少女を見定めるように眺めた。強靭な意志の光を宿した少女の瞳は、何処か懐かしかった。心地良い眼だ。ずっと、求めていたような。
「……話を聞こう。聞かぬことには始まらぬ」

*  *  *

 魔界に来て二度目となるこれまでの経緯の説明を、澪はなるべく掻い摘まんで行った。死体に囲まれた空間というものは、あまり会話に向いた場所ではない。舌の回りがどうにも速くなってしまったのはそのためかもしれない。また、クーレイが話の途中で一言も喋らなかったため、気ばかり急いて、つい落ち着きのない口調となったのも確かだった。相槌くらいは打ってもらいたいところだった。
「クーレイはあたしのお父さんの竜だったんでしょ? そのよしみで、お願い」
 最後に澪は顔の前で両手を合わせた。竜の表情には一向に変化が見られなかった。あくまで悠然と構えている。
「確かにマトア・テーゼンワイトは我が主だった。だが、それは過去のこと。契約は既に破棄されている、最早何の効力も有していない」
「契約が破棄? どうして」
「マトア自身が、そう望んだ。理由は知らぬ。マトアは教えようともしなかった。我はそれに従っただけだ」
 クーレイは淡々と語った。淡々と語りつつも、心の中には重い塊が下りてきていた。それは、長らく推測に過ぎなかった、数十年前に下された契約破棄の理由だった。
 口にした通り、竜はその理由を知らされなかった。しかし、今はもう解っていた。眼下の少女から聞かされた話によって、推測は確たるものへと形を変え、重さを増していた。
 クーレイはやり切れないといった風にかぶりを振った。
 狡い、と思った。今になって答えを遣すなど。
 行き場の無い不平が、鬱積に耐え切れなくなって口を衝いた。
「本当に、不出来な主を持たされたものだ……」
 マトアが王家に背いたという報せを聞いた時から、竜にはおおよその事情は察せていた。あの時点で大逆人となることを覚悟していたからこそ、彼は主従の鎖を解き放ち、自分を遠ざけたのだと。
「危険な目に遭うのは自分独りで充分という訳か、愚かな。挙句の果てに、家族にまで同様の真似をするとは。愚かにも程がある」
 哀惜を帯びた声が、氷洞の中に響いた。澪はクーレイが何のことを言っているのか解らなかったが、ただ、父のことを哀しんでいる思いだけは感じられた。竜の瞳の色が、酷く深まって見えた。
「ねえ、お父さんと喧嘩でもしたの。それで、契約を解いちゃったとか」
 躊躇いがちに訊いてきた彼女の不安げな顔を目にして、クーレイは穏やかに言った。喧嘩の方が幾らか良かっただろうに、と。
 澪にはやはり、竜の言葉の意味が少しも掴めなかった。話の最中に相槌すら打たない竜は、必要最小限のことしか口にしないものなのかもしれない。そんな風にも考えられた。
「クーレイ、アンタとお父さんとの契約がもう白紙に戻っちゃってるってことはわかったよ。でも、それでもお願い、アンタの力が必要なの」
 懇願する澪に、クーレイは淡く響く声で答えた。
「確かにそなたには助けられた。恩がある」
「じゃあ、OKってこと?」
 喜色を露わにした澪に、しかし竜はその長い首をたおやかに振った。
「恩はあるが、そなたは我の主ではない。竜は主でない者の命には、決して従わぬ。そういう生き物なのだ」
「そんな。一回だけでいいのよ、これっきり。恩返しだと思って、一回だけ助けてくれればいいの」
「死するところを救われた、その事に対する礼は無論せねばなるまい。だが、そこに命としての言葉が存在するか否か、それが竜にとっては重大なのだ」
 何て融通が利かないんだ、と澪は内心呆れ返った。ふざけた論理としか思えなかったが、逆らってどうなるものでもなさそうだった。そこで澪は仕方なくその論理に従おうと試みた。
「じゃあ、あたしをアンタの主人として正式に認めてちょうだい。それなら問題無いんでしょ」
「そなたは我の主たるには力不足、半人前だ。テーゼンワイトの血を引いているとはいえ、未熟すぎる。それとも、そなたは己が父親と同等の力量を備えているとでも自負しているのか」
 澪は言葉に詰まった。そんな自負がある筈も無い。
 けれど、諦める訳にはいかないこともまた、事実だった。無理だと言いそうになるところをぐっと堪えて、澪は大見得を切ってみせた。
「じゃあ、勝負よ。あたしが勝ったら、アンタはあたしの家来。それで文句無いわよね」
 無謀が過ぎる発言に、竜は目だけで苦笑した。力の差は歴然。勝敗は見えている。だのに。
 その折れることの無い意思の強さは何処から来るのだろうか、と思った。
 前の主の最後の命令を、自分にとっての最後の命令としたかった――そんな思いが、何処かにあったのかもしれなかった。胸中を探ってみれば底の方に隠れているのかもしれないと、クーレイは両の目を閉じて、そしてまたゆっくりと開いた。
 見つかったのは疑問ばかりだった。答えを返す相手のいなくなった、疑問。
 どうして、自分を共に連れて行ってはくれなかったのか。主のために命を賭す覚悟など、幾らでも持っていたというのに。危険であるのなら尚更、何故自分の力を頼りにしてくれなかったのか。主の盾となることくらいは、自分にも出来た筈だのに。
 嵐の前に船を降ろされては、どうすることも出来なかった。嵐の存在を知ったのは船が沈んでからだったなどとは、笑い話にもならないではないか。狡い男だ。狡い、狡い、ずるい……。
 本当に不出来な主だったと、クーレイは何度言っても言い足りない非難を重ねた。肝心な時に、役に立てなかった。役に立たせてくれなかった。不出来な主だ。頭の悪い主だ。
 そんな主だったからこそ、主のままでいて欲しかった。そんなことにも気付かないとは、この上なく馬鹿な男であったものだと、クーレイは更に罵った。或いは気付いていた上で無視したのかもしれなかったが、それならば尚のこと憎い。
 それでも、勝手に死んだりせずにいて欲しかった。憎いのは生きていないからだ。もう、自分の主では無いからだ。でなければ、憎くなど思わなかったのに。竜が主を憎めるものか――。
 竜は涙を流さない。もし流せたとしても、クーレイにはそんなつもりなど毛頭無い。死者には、涙一粒とて勿体無かった。やる訳にはいかないと考えていた。
 二度と主は持つまいと決めていたし、持たないだろうとも思っていた。新しい主を持つことは、前の主を忘れることに等しい。そして、前の主を忘れることなど、出来ない相談だった。
 忘れることなど出来る訳が無い、あんなにも愚かな主を。クーレイは半ば自嘲気味に自答した。白銀の竜にとって、自分の主は彼ひとりだけで充分だった。
 しかし今、目の前にあるのは失くした筈の瞳。真っ直ぐな光を、躊躇い無く放つ瞳。二度と見ることは無いと思っていた、そして見られることは無いと思っていた瞳だった。
「勝負、か」
 クーレイが言った。
「勝負、よ」
 澪は一向に引く気配を見せなかった。
 クーレイは短く笑った。勝敗は見えている。
「……勝てる筈が無い」
 その瞳には。
「力を貸そう。ただし、主を持たぬままに誰かの命に従う訳にはいかぬし、そなたを主と認める事もやはり出来ぬ」
「それじゃ、どうするっていうの」
「そなたは半人前だ。半人前は二人合わせてようやく一人前、だろう?」
 竜は首をしならせると、未だ気絶したままの青年に鼻先を近付けた。
「マァル、と言ったか。この小僧もまだまだ半人前。だが、彼にもまた恩がある。半人前二人と二つの恩、この和をもって主としよう」
 随分とおかしな主を持たされてしまったものだ、とクーレイは心の中でつぶやいた。それもこれも、全ては前の主のせいだ。他者の助けを全て切り捨てたくせに、結局独りでは問題が解決できず、果ては切り捨てられた側に問題の残りが回ってくるという始末。
 不出来な主のことは、新しい主を得てもどうやら忘れずに済みそうだった。彼のことを否応無しに思い出させる瞳が、すぐ傍にあるのだから。




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