ぎりぎりまで引き付けてから、前に突き出した手に精神を集中させる。焦れば失敗する、平常心だ、落ち着けと自分に言い聞かせる。傘を開くイメージ、集めた力を一気に展開させ、形を作り出す。
 鈍い音が響いた。突如現れた障害物に頭から突進した獣は、全身を弛緩させて地に落ちた。
「まずは一匹目、っと」
 冷や汗を流しながら、澪は次の敵を迎え撃つべく、魔術で生成した盾を構えた。重量は全く無いので、動く速さに支障は出ない。と言っても、もともとの速力で獣に敵う筈も無い。一匹目は相手の無考えに救われたようなものであるから、この後を防ぎきる自信ははっきり言って無かった。
 それでもやるしかないんだ、と澪は前を見詰める瞳に力をこめた。洞の中は、自ら発光しているかのような氷の壁にぼんやりと蒼く照らし出されている。静けさを強調しているかのような蒼い空間の先に、四対の赤い瞳が浮かび上がった。
 一匹目の失態を目にしていたのだろう、流石にいきなり飛びかかっては来ない。こちらの様子を窺っているような八つの赤い光が、気味悪く揺れている。
(慎重になられると困るんだけどな。あんまり頭使うんじゃないわよ)
 盾というものは防具である。こちらから攻撃するようにはできていない。自然、どうしても行動が受身になる。数で劣る状況で受身になっては、じわじわと追い詰められるのみ。勝ち目はかなり低いと言えた。
 何か無いか、と澪は思考を巡らせた。こちらから仕掛けられるような何か、武器になりそうなものは。
(護身用にってナイフくらいはおばあちゃんから貰ってきたけど、あたしに上手く扱えるとは思わないし。そもそも、四匹相手じゃナイフで戦うなんて無理だわ。一匹と戦ってる間に、残りの三匹がクーレイとマァルを襲っちゃうもの。もっとこう、銃とか弓みたいな遠距離からでも攻撃できるものがあれば)
 獣たちに注意を払いつつ、澪は周囲を見回した。目に付くものと言えば、獣の死骸や氷の破片くらいのものだ。
(氷つぶて、なんて効くわけないよねえ。爆弾じゃあるまいし)
 投げたところで、あっさりとかわされるのが落ちであろう。例え当たったところで、澪の肩力では殺傷能力は殆ど無いに等しい。
(……爆弾?)
 そこまで考えたところで、澪は数秒瞬きを忘れた。マントの下に隠れた服のポケットを大慌てで探ると、目当てのものに指先が触れた。
(あるじゃないの、氷つぶてを爆弾に変える方法が)
 思わず喉が鳴った。
 人間界から持ってきて、すっかり忘れてしまっていた。当の澪も、これは随分と酷い扱いだったと思うが、どうか機嫌を損ねないで下さいと心の中でとりあえず謝った。
 左手で盾を掲げたまま、右手で足元の氷を拾い上げると、魔法をかける。この冷たい石を爆発させるための魔法を。
「さあ、いくぞぉっ!」
 準備を整えた澪は、敵を威嚇するように大声で叫んだ。蒼い壁で跳ね返った声が、揺れ響いた。
 大きく振り被って、次から次へと魔法をかけたつぶてを投げる。獣たちは一瞬ひるんだのか、赤い光が尾を引いて薄闇を走った。弧を描いて氷の地面に当たった魔球は、澄んだ音色を奏でて転がった。からから、からん。
 四匹の獣の周りに散らばった数個の氷が完全に動きを止めた後に、辺りには再び寂々たる空気が訪れた。これで仕掛けは完成だった。後は、ただひとこと、仕上げの言葉を放つだけ。魔界に来る前に教わった、キーワード。魔法を解き放つ、魔法の合図。
 澪はこれ以上無いくらいに声を張り上げ、それを口にした。
「“炸破之呪”っ!」
 言霊に反応して、氷に巻き付けられた呪符が一斉に爆ぜた。砕け散った地面の氷屑と爆風とが、狂ったように勢い良く走り回った。澪は光の盾で自らとマァルの体を覆い隠すと、荒々しい唸りを上げて吹きすさぶ突風をやり過ごした。竜の巨体は完全には防護できなかったが、そこはご寛恕願おう、その鋼鉄の体を信じることにして。
 爆煙が立ち込める中で、澪は緊張し続けていた体の力をようやく抜いた。上手くいくかどうか不安だったが、何とか成功したようだ。胸をほうと撫で下ろす。
(すき姐に感謝だわ、ホント。もらった呪符、ポケットに入れたままでよかったあ)
 魔法の種を渡してくれた人物に、澪は胸中で深々と頭を下げた。
「な、何だい、今の爆発は」
 怯えきった声に振り返ると、マァルが腰を抜かしていた。治療のために竜に向かっていたため、一連の事態を把握できていないらしかった。
「ご心配なく、カタはついたから」
「カタはついたって……おっそろしいなあ。頼むから、俺は吹き飛ばさないでくれよ」
「さあ? それはアンタ次第ね」
 意地悪く澪は笑った。実際は、手持ちの呪符は今ので使い果たしてしまっているのだが、そんなことを知るはずもないマァルは震え上がった。
「さあマァル、あとはアンタがクーレイを治すだけよ。ホラ、休んでないで術を続けなさいよ」
 今のマァルにとっては、澪の笑顔は危なさ満点だった。逆らえばドカン、という恐ろしい想像で彼の頭は満たされていた。まだ死ぬのは嫌だ。おののきながら頷いて、マァルは竜に再び向き合おうとした。
 その時、背筋に悪寒が走った。マァルは反射的に振り向いた。
「危ない、ミオ! 後ろだ!」
 彼の声に衝き動かされるかのように背後を見やった澪の目に、黒い影が映った。未だ空気を濁らせている氷煙の中から、鋭い牙を剥き出しにした獣が現れた。
 あと一瞬、反応が遅れていれば、喉笛に噛み付かれていただろう。辛うじて生成の間に合った盾が、澪の命を奪わせなかった。
 しかし獣も馬鹿ではない、生じた盾に突っ込むことなく、その面を四本の脚で蹴り返した。飛ぶように宙を舞って、軽やかに着地をしてみせる。
「さっきの爆発を逃れたヤツがいたってことね。ああ、もう、嫌になるわ」
 澪は忌々しそうに歯噛みをした。呪符はもう残っていない。バンジキュウス、ハッポウフサガリ、ゼッタイゼツメイ。不吉な言葉が頭を過った。
 獣が再び、襲歩してこちらへ向かってくる。跳び上がった相手に対して、盾を振り上げる、その爪を弾く。二度目の攻撃も、どうにか回避に成功した。
 だが、奇跡としか言いようのないまぐれである。誰よりもそう思っているのは澪自身だった。三度目は無理だ。セトギワ、ドタンバ、ガケップチ。
 血のような赤い瞳でこちらを睨んでくる獣が、低く唸り声を上げている。
(こんなところで、こんなところで死んでたまるもんですか)
 せめて気迫だけでは負けまいと、澪は必死で睨み返した。半透明の盾を通して見える敵の姿は、しかし、自分の懸命な思いを見透かし、せせら笑っているかのようにすら見えてくる。そんな防具では勝てはしないよ、と。
(盾を、盾を馬鹿にするんじゃないわよ。盾だって、盾だって)
 いつの間にやら、澪は熱烈な盾愛好家へと変貌していた。今までそんなつもりは毛頭なかったのだが、嘲笑されたと感じるや否や、盾を擁護する気持ちで一杯になっていた。
 頭を全速力で回転させ、盾の可能性を考える。しかし、どうにも良い反論が思い浮かばない。叩くには大振りになりすぎる。斬るには鋭さが足りない。投げればそれっきり、というか手から離せば消えてしまうだろう、この盾は。まだそこまで魔力のコントロールはできなかった。
 澪の考えがまとまるのを待ってくれるはずもなく、獣の脚が地を蹴った。闇色の毛皮に包まれた体躯の中で、瞳だけが凶暴な赤を光らせている。
(盾だって……そうよ、要は形を変えられればいいのよ)
 複雑な変形は無理でも、せめて大きさだけでも変えられれば。
 澪は盾を構えていた両腕をだらりと下ろした。白色の防具が、にわかに消滅する。これを機と見たのか、獣は一気に加速して澪に飛びかかった。彼女の体に牙を立てようと、顎が大きく開かれる。
 自分の頭を丸ごと食べてしまえそうなその大口に向かって、澪は左拳を突っ込んだ。獣は己の顎をここぞとばかりに噛み合わせようとした――が、出来なかった。
 手甲のように澪の拳を包み込んだ白い光が、鋭く尖った獣の刃を受け止めていた。堅固な光を突破せんと、獣は両顎に力をこめたが、喉奥から醜い唸り声を生じさせただけで成果はなかった。口の中には獲物が完全に収まっているのに噛み付くことができないという、こんな事態は初めてだった。
 自分の左手にぶら下がる恰好になった漆黒の猛獣に向けて、澪は右の拳を振り上げた。そこにもまた、白光の手甲が輝いていた。
「盾だって、立派な武器になるんだあっ!」
 イッパツギャクテン、キュウソネコヲカム――!
 極限まで縮めた盾を、澪はありったけの力で叩き付けた。腹部を猛打された獣はその衝撃に耐え切れず、体をくの字に折り曲げて空を飛んだ。氷壁にぶつかり、ようやく地に戻ったその肢体は、最早ぴくりとも動かなかった。
 勝った、と澪は両手を高々と掲げた。今度は一連の事態をしかと見ていたマァルは、呆然と彼女のガッツポーズを眺めるばかりだった。
「……おっそろしいなあ」
 そんな言葉が口を衝いて出たことすら、自覚できないほどだった。戦う女性は、本当に強かった。




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