第四十三話  「白(5) 鉄壁の守護神」


 『白』の国と『玄』の国、二国の国境を為している山脈がハーデン山脈である。大小合わせて十余の山々からなるこの山脈に積もった雪は、一年中溶けることが無い。白く、鋭く、そして美しい姿を、ハーデン山脈は遥か昔から保ち続けている。
 最高峰は、山脈の名前そのものとなっているハーデン山である。ハーデン山脈の中でも最も神聖とされ、人々は古来この山を霊峰ハーデンと呼んできた。神聖とされているだけあって、ハーデン山には数多の伝承が存在している。黄泉の国へと繋がっているだとか、精霊が生まれる地だとか、不凍の泉があるだとか、その多くは未確認である。
 しかし、そんな中で、真実と認められた伝承も存在する。その内のひとつが、霊峰ハーデンは竜の住まう山である、というものだった。それを明らかにした者の名は、マトア・テーゼンワイト。ハーデン山の竜、クーレイと主従の契約を結ぶという偉業を彼が成し遂げたことで、半ば伝説化していた噂が確かに事実であると証明されたのだった。
 竜の主となった彼は、軍への入隊から二百年という異例の速さで魔将の地位まで昇り詰めた。これはゼクラルゼーレ王家正規軍歴代二位の記録である。無論、彼自身の実力も大きく貢献していたことは言うまでも無い。
 マトアと契約を結んだクーレイは、彼に付き従い、長らくハーデン山から離れていた。しかし、数十年前にマトアは契約を破棄。再び何者にも従わない存在となったクーレイは、自分の住み処に戻ったと言われている。
 いや、事実として確かに戻っていた。澪とマァルの目の前には今、その竜の巨体が映し出されていたのだから。

*  *  *

 マァルの指示に従って辿り着いた先にあったのは、巨大な氷の洞であった。蒼く澄んだ色をしたその洞を見て、普段ならば澪はその神秘さに息を呑んでいたかもしれない。しかしこの時は普段とはあまりにかけ離れた状況だった。
 まず、雪面を染め上げたおびただしい量のどす黒い血液。それを放出したのであろう、漆黒の毛並みをした獣の死骸。先日、廃墟となった街で澪たちを襲ったのと同じ種のようだが、はっきりとは判別できない。原型を留めているものは殆ど無かった。
 惨たらしく飛び散ったその体の破片は、とても見るに耐えなかった。それが一匹や二匹なら、まだ正視できただろう。息絶えた骸は、優に数十匹分はあった。
 洞の内部は、更にこの惨状を越えていた。壁面に叩き付けられているもの、首だけのもの、腹が裂けているもの、氷の鋭鋒に串刺しにされているもの――表の二分の一の空間に、二倍の屍が積み重なっていた。立ち込める血の臭いに酔ってしまいそうになりながら、澪とマァルの二人は奥へと進み、そして目にした。どちらにとっても、初めて見る竜の姿だった。
 長く伸びた首に、鋭い顔立ち。背中から生えた大きな翼だけで、澪の身長の三倍くらいはある。緩やかな曲線を描く尾。鋭利な三本の爪。金の鬣に、銀の鱗に覆われた皮膚。
 それら全てが完全に整った状態の姿を見たならば、どれほど見惚れたことだろう。しかし今、眼前に横たわっている竜の四肢は、獣の返り血で醜く染まっていた。その周りには、これまで見てきたどれよりも高い骸の山があった。その巨躯が滅ぼしたのであろう数え切れないほどの死骸の真ん中で、竜は静かに伏していた。
 力無い肢体と、固く閉じられた瞳と、牙を覗かせる開いたままの口と。全てが、その生物の生命の終わりを示していた。
 澪はその光景に立ち竦んでいた。脳が麻痺してしまったかのようで、何も考えることができなかった。それは、その凄惨な画像に頭が耐えられなくなったためか、或いは王都へ行く手段が失われてしまったという絶望のためか。今の澪にはどちらとも解らなかった。
「当たったよ、俺の予感……」
 ぽつりと、マァルの口が漏らした。彼も澪と同様しばらく指一本動かせずにいた。隣で呆けたように佇む少女にかける言葉が見つからず、マァルは唇を噛んだ。ため息すら、付くことが憚られた。
 が、半秒も経たぬ内に、彼のやる方無い思いは消滅した。突然雷に撃たれたかのように、マァルは目を見開いた。彼の全身が、視覚から導いたのとは全く逆の結論を伝えたからである。
 竜の元へと駆け寄った彼は、嘴のように長く裂けたその口元に耳を当てた後で、澪に向かって叫んだ。
「まだ息がある。魔力が感じられたから、もしかしたらと思ったんだ。ミオ、クーレイはまだ死んでいないよ」
 何ですって、と今度は澪が雷に撃たれた。足早に竜の傍まで来ると、澪はマァルの横で身を屈めた。近くで見ると、竜の体は一層美しかった。銀の鱗はさざ波の如く細やかに煌き、金の鬣は光そのものと見紛うほどの鮮やかさだった。黒い返り血にまみれてなお、竜は至高の存在であり続けていた。
「マァル、どうなの、助かりそう?」
 忙しなく竜の全身に眼を配りながら、マァルは張り詰めた声で答えた。
「どうも、外傷は殆ど無いみたいだ。当然だよな、竜の体は鋼鉄みたいに固いんだから……」
「じゃあどうして、こんなに弱ってるのよ」
「待ってくれよ、俺も考えてるところなんだから」
 マァルは頭に手を当てて口を強く結んだ。
 目立った傷は見当たらない。あったとしても、致命傷にはなり得ない。そもそも、並の獣では百匹集まったところで竜には到底敵わないのだ。そんなことは獣の方とて認識していたはずである。多くの犠牲を払うことが確実な、その先の何処に勝算があったのか。獣側にしてみれば、複数で同時に攻撃して初めて、一撃が届くかどうかという戦いだったに違いない。初めからそのつもりで、一撃当てれば勝てるという算段があったとするならば、その方法は。原因が外部からのものでないとすれば、考えられる可能性は――。
 数十秒の思考の後に、マァルの狭まっていた眉間が開いた。
「そうか、毒だ」
 獣がその爪牙に猛毒を持っていたとすれば、かすり傷ひとつでも決定的な効力を有する。しかし例え目的が微傷であろうと、竜に接近し、攻撃を加えることはそう容易な所業ではない。百に及ぶ犠牲は、その極小な傷に到達するための代価だったのだろう。絶対多数で同時に攻めることで、獣たちは竜に届いたのだ。
 気付くが早いか、マァルは竜の胸元に手を当てた。微弱な鼓動が伝わってくる。
「俺、魔術苦手だってのに……どうか効いてくれよ」
 重ねた彼の両手が、ほのかに白く光り始めた。『白』に特有な治癒能力を用いた、解毒の魔術である。
「ミオも何とか使えないかい、解毒術。俺ひとりじゃあとてもじゃないけど厳しすぎるよ」
「そんなこと言われても。おばあちゃんには、回復魔術の才能はこれっぽっちもないって思いっきり言われちゃったし。それに、この前アンタを治療しようとした時みたいになったらどうするのよ」
 自身の腕を折られそうになった事を思い出し、マァルは返す言葉を失った。瀕死の竜にあんな衝撃を与えては、止めを刺すようなものだ。今の局面では、とても笑える失敗ではない。
「ああ、ばっちゃんの言う通り、真面目に魔術の練習しておけばよかったなァ」
 しかし今更悔やんだところでどうしようもない、後悔先に立たずである。くそう、とマァルは目の前の患者に集中した。いや、正確には集中しようとした、が正しい。何故なら、その時感じた禍々しい気配に、彼の集中は為される前に途絶えさせられてしまったからだ。
「……ミオ、落ち着いてよく聞けよ」
 舌を噛む事を恐れているかのようにゆっくりと、マァルは喋った。
「何よ」
「まだ外にいるみたいだ、生き残りが」
 澪の表情が凍り付いた。
「生き残りって、まさか」
「そのまさかだよ」
 やっぱり当たったよ、俺の予感。マァルは絞り出すようにそう言って、眉を歪めた。
「気配は四つ、いや、五つ。ミオ、俺は手を離せない。だから……頼んだよ」
 手が離せる状況であったとして、彼が勇敢に戦ったかどうかは疑問ではあるが、とにかく今はそんなことを論じている場合ではない。澪は通ってきた洞の入り口の方に向かい身構えた。
 背中越しに、マァルの声がかかる。
「いいかい、ミオ。やつらは牙か爪、あるいはその両方に毒を持ってる。かすり傷ひとつ受けちゃいけない、無傷で撃退するんだ。もちろん、クーレイも俺も無傷で、だよ」
「かよわいオンナのコに向かって、随分と簡単に言ってくれるじゃないの」
「戦う女性は強い! 信じてるよ、ミオ」
 半分泣きそうな声でマァルが言ったその時、一匹目が飛び込んできた。




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