山の天気は変わりやすいとは、よく言ったものである。三十分もすると、ハーデン山の癇癪は嘘のように静まった。澪が突き出しっぱなしだった腕を下ろすと、術が解け、同時に光の盾が空気に溶け込むように消えた。盾に積もっていた白い塊が、寄る辺を失って崩れ落ちた。 穏やかな陽光を浴びながら、ようやく一息付けるといった様相で、澪は服にへばり付いたままだった厚い雪の層を払い落とした。体の周りの雪を掻き分け、 魔術を使ったとはいえ、思ったほどの疲労は無かった。体を少し動かして、別段異常が無いことを確かめた澪は、後ろの青年を振り返った。 「いつまた吹雪になるとも限らないわ。今の内に行きましょ」 マァルはというと、いかにも元気そうに笑って頷いた。澪が頑張っていた間、充分に休息を取ったので当たり前である。彼がした事と言えば、澪の話し相手となって口を動かしていたくらいだった。その内容も、既に澪が聞き飽きた彼の異性交流話だったので、あまり役に立ったとは言えない。 「さあ、ちゃんとアンタが前に立って先導してよ。あとちょっとなんでしょ」 半ば澪に押しやられるように、マァルは案内役として相応しい位置に戻った。が、案内役として相応しい言葉は言わなかった。彼はいかにも頼りない声で長々と唸った。 「いや、俺もさ、詳しい場所は知らないんだよね。この辺にいるらしい、ってことしか。竜ってのは存在自体が謎みたいな生き物だからさぁ、ハッキリしたことは何も解らないんだよ。目撃証言だとか噂だとか伝説だとか、そういう類のものに頼らざるをえないってわけ。それでもクーレイはまだ所在が明らかな方だよ、マトアさんが従えていた分ね」 「それじゃあ、ここからは勘で探すってこと? そんなので本当に見つかるの」 澪が不安そうに眉をひそめた。適当に探して竜を見つけるなど、相当に運が良くなければ不可能のような気がする。 「手掛かりが無いわけじゃないんだ。竜は、その体の内にものすごい魔力を抱えてる。厚い鱗に閉ざされてるから外からは感じ辛いんだけど、魔力感知に長けた者なら、ある程度近付けば解るはずだよ。逆に言えば、竜を見つけることすら出来ない者には、竜を使役する資格はないってこと」 「魔力感知に長けた者って……どこにいるのよ、そんなヤツ。言っておくけど、あたしはそんなのやったこともないんだからね」 呆れ顔で、澪はマァルを見返した。その彼は不敵ににやりと笑うと胸を張り、自らの顔を指差した。澪は一層呆れ顔になると、マァルに倣うかのように彼の顔に人差し指を向けた。 「……アンタが?」 「そう、俺。魔術は苦手だけどさ、魔力感知だけは得意なんだよね。隠れん坊で鬼になった時、負けたこと無いよ」 「その割にはあたしと最初に会ったとき、獣に追いかけられてたじゃないの。アンタの話が本当なら、あんなことになる前に危険に気付いて逃げ出せたんじゃないの」 自信満々なマァルをすぐには信頼できず、澪は伸ばした指で彼のおでこを小突いた。 「アレは、ちょっと油断してたっていうか。それにあいつらの魔力はかなり低かったんだよ。身体能力だけを強みにした奇襲専門の獣だよ、あいつらは。もともとこの辺りに生息してるような獣じゃないんだけどなぁ」 だから不覚を取ったのだと、マァルは繰り返し主張した。まだ疑いの眼差しを消し切れない澪に、心外そうな面持ちでマァルは口を開いた。 「注意してればあいつらの気配だって察知できる、本当だよ。現にこの二日間、山を登っていて危険な魔物に遭ったことがあったかい。俺がそいつらを避けてたからこそ、ここまで無事に来られたんだよ」 言われてみればその通りで、吹雪に遭った以外は特に進行を妨げられた覚えは無い。思い返せば、時たま遠回りをしているのではないかと思わせるような先導があったが、それが危険を回避するための迂回だったのだろうか。 澪は幾らかマァルを信用する気持ちになって、彼に突き立てていた指を下ろした。 「わかったわ、アンタに任せる。で、どうなの。竜の居場所はわかる?」 「もちろん、と言いたいところだけど……」 マァルは肩を竦め、首を振った。 「獣の気配なら何匹もするんだけどな。魔力自体は小さいから、多分、今話してたのと同じ種族じゃないかな。どうも群れらしい、固まって動いてる。結構離れてるから、そんなに心配しなくてもいいと思うけど」 なあんだ、と澪は肩を落とした。彼がここで鮮やかに竜の位置を言い当てて見せたなら、そこそこ恰好よかったであろうに。マァル自身もそれを自覚していて、見せ場に恵まれなかった事を内心では残念がっていた。しかし、そんな心情をまさか表に出すわけにもいかず、気を取り直して歩き始める。 「まあ、もう少し進んでみれば見つかるかもしれないし。じっとしていても始まらないさ、出発しよう」 言われた澪は、雪を掻き分けながら進む彼に続いた。 「吹雪が止んだ途端に、えらく強気じゃないの。吹雪の間もそれくらいでいてくれたらよかったのに」 「無理とか無茶とかはしない主義なの、俺」 「軟弱ねえ。そんなだから、彼女ができないんじゃないの」 雪に足を取られそうになって、マァルの体ががくんと揺れた。 「彼女ができないって、いつ、俺が、そんな」 あからさまに動揺している彼を前に、澪はさらりと言った。そんなにショックか、と思いながら。 「アンタの話を聞いてりゃわかるわよ。今まで、何人の女の子の名前が出てきたと思ってるの? アンタは自慢げに話してたけど、裏を返せば真剣な相手がいないってことじゃないの。他の子と仲良くしてるアンタに、嫉妬してくれるような女の子の話なんて全然なかったし」 マァルは何か反論しようとして口を開閉させていたが、やがてそれも止め、重々しいため息を吐き出した。頭の重量が急に増加したのかと思わせるような項垂れぶりであった。 「やっぱりそのせいなのかなァ。俺、別にいいかげんな気持ちで声をかけてるわけじゃないんだけどなァ。ねえミオ、俺に彼女さんができないのってやっぱりそのせい?」 ねえ、ねえ、と涙目で詰め寄ってくるマァルを、澪は手を箒のようにして追い払った。 「あたしに訊かないでよ、そんなこと。もう、さっさと出発するんじゃなかったの」 「嗚呼、この世界の何処かに、この哀れな男の凍り付いた心を溶かしてくれる女性はいないものかなァ……いると思う?」 「だからあたしに訊くなって」 澪はマァルの背中を両手で押しやり、強引に前に進めさせる。自称哀れな男は、他称役立たずな男であった。 「そんな、こういう時は嘘でもいいから『いる』って言うものだよ」 「ハイハイ、いるかもね。アンタみたいな変人がいるくらいなんだから、アンタを好きになる変人もひとりくらいは」 「変人でもいいけど、できれば美人がいいなァ」 ダメだコイツは、と澪は心の中で呆れ帰らずにはいられなかった。とにかく自分で歩け、とその背中を力任せに押していると、まだぶつくさと何かをつぶやいていた彼の口が、はたと止まった。 「今度は何? また下らないことを言うんだったら」 澪の口がまだ開いている最中に、黙って、とでも言わんばかりの手の動きで、マァルは彼女の言葉を制した。先程まで軽快に弾んでいた唇は引き締まり、眉と眼との距離は狭まっていた。 「妙だ……何だ、この動き? おかしい、ひとところを目指して……何のために」 どうしたの、とすら訊くことができず、澪は黙って彼を見詰めていた。マァルはしばらく眼を閉じて難しい顔をしていたが、不意に澪の方を見やると言った。 「行こう、ミオ。何だか嫌な予感がする」 彼女の返事も聞かず、マァルは雪の中を急いだ様子で進みだした。流石に走ることは出来ないが、もしもここが平原だったならばそうしていたに違いない。そう思わせるような進み方だった。澪は慌ててその後を追った。何が起きているのだか、少しも解らなかった。 「急に何? 行こう、ってどこに行くの」 「さっき、魔物の群れがいるって言っただろう。そいつらの動きが普通じゃないんだ」 「普通じゃないって?」 「皆が同じ方向を目指してる。かなりのスピードで」 狩りなんじゃないの、と澪は返した。雪中を歩くことに不慣れな彼女は、今のマァルに付いて行くだけでも相当に大変だった。気を抜けば転びそうだ。 「狩りなんだとは思う。でも、獣の総数がとんでもないんだよ。百は下らない数の獣が固まって狩りを行うだなんて、聞いたこともない。いや、それ以前に、そんな大規模な群れが存在するわけがないのに」 「まさかとは思うけど、アンタ、そんな大群のところへ向かおうとしてるんじゃないでしょうね」 無言で頷いたマァルに、澪は思わず歩を止めた。 「ちょっと待ってよ。いくら異常現象だからって、そんな危険なところへ行ってどうするのよ。普通、逆でしょ。逃げるべきじゃないの」 「俺だって行きたくないよ。知ってるだろ、俺の性格」 勿論澪は知っていた。獣に襲われれば澪の後ろに隠れるような青年である、進んで危険に近付くような人物では断じてない。 「じゃあ、どうして」 「わからないのかい。仮に、この獣の群れの目的が本当に狩りだとして、こんな大群で襲わなきゃいけない相手は誰だと思う?」 百匹の獣に相当するほどの、それだけの強大な相手といえば――。 魔界の生物など殆ど知らない澪だったが、唯一思い浮かんだ答えがあった。 「……そいつらの標的が、クーレイだっていうの」 「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、もしもそうだったとしたら、急がないとまずい気がする。竜がそう簡単にやられるはずは無いけど、どうも嫌な予感がするんだよ。占いをするばっちゃん譲りなのかな、よく当たるんだよ、俺の予感」 澪は大きく足を踏み出した。どうやらしばらくは立ち止まれそうに無かった。 |