第四十二話  「白(4) 霊峰ハーデンの変事」


 凍った風に乗って、雪の群れが襲い掛かってくる。それとも、雪が群れているから風が凍っているのか。どちらとも区別は付かないが、ただひとつはっきりとしていることは。
「寒いよォ」
 今からでもやっぱり引き返そう、とマァルが言った。腰まで雪に埋まってしまって、どうにも進める状態では無くなってしまっていた。
「ミオ、霊峰ハーデンは相当におかんむりだよ。今日は進むのを諦めて、吹雪が収まるのを待った方がいいよ」
「いやよ」
 マァルの一歩先を行く澪は、風音に負けないように声を張り上げた。彼女の体もまた、半分近く雪の中であった。残った半分も、この激しく吹き付ける風の中、白い塗装を施されてしまっていた。じっとしていれば、たちまち雪だるまの完成である。
「だって、もうすぐなんでしょう、クーレイの住み処まで。それなのにむざむざ来た道を戻るだなんて、ごめんだわ」
「そうは言っても、このままじゃ遭難しちゃうよ。この辺には吹雪を凌げるような場所なんて無いし、一回、昨日泊まったほら穴まで戻るのが得策だって。無理に進んで行き倒れになっちゃったら、それこそ本末転倒じゃないか」
「ダメったらダメ。少しでも時間を稼いでおきたいの。その方が皆とも合流しやすくなるはずだし、お姉ちゃんたちを助けるのに余裕ができるわ」
 戻りたければ、マァルひとりで戻ればいいじゃない――とは、言えなかった。彼は大事な、そして唯一の案内役だったのだから。この険しいハーデン山を、迷わずに登り行くための。そして、竜の住まう場所まで辿り着くための。
 それが、いつの間にか案内役の方が後ろに位置しているとはどういうことか。気付いた澪は眉根を寄せた。
「ちょっとマァル、アンタどうしてあたしの後ろにいるわけ?」
 ミオが速いんだよ、と何処か後ろめたそうに言うマァルに、白い眼が飛んだ。
「……アンタ、あたしを雪避けにしてるでしょ」
「ご、誤解だって」
「誤解? どう見たって、アンタの被ってる雪の方が少ないじゃないの、この卑怯者ー!」
 澪の叫び声が、雪と一緒に風の中を飛んで行った。
 オフィールたちの住んでいた洞窟を後にして、はや二日。マァルの案内の元、ハーデン山を登る二人は、目的地まであと少しというところまでやって来ていた。しかし、ここに来て急な天候の悪化。山の天気は変わりやすいとはよく言ったもので、今朝は晴れていたというのに今は視界が塞がれるほどの雪嵐である。
 引き返そうと言うマァルの弱気を一蹴した澪だったが、流石にこの自然の猛威には閉口していた。何しろ、まず前が見えない。周りも見えない。自分の位置が解らず、進むべき方向も解らないと来ては、実際お手上げだった。何より、自身の血液すら凍らせそうなこの吹雪が、どんどん体力と体温を奪っていくのである。これは最早、寒いなどと感じていられるレベルではなかった。命に関わる。
「寒いよォ」
 再三、マァルの悲痛な声が後ろから聞こえてきて、澪はその度に苛立ちを募らせた。不思議なもので、寒いなどと感じていられるレベルではなくとも、人は寒いと感じるものらしい。事実、澪もこの寒さに対する不平不満は山のように積もっていた。しかし、それを漏らせば引き返す理由をみすみすマァルに与えてしまうようなもの――故に自分の弱音を口には出せず、故にマァルの弱音が耳に入る度に苛立ちが募るのだった。
 引き返すわけにはいかない。朝から半日かけて登って来た道のりを、そして費やした時間を無に返すなど。辿り着いた先ですぐ竜に会えるとも限らないし、協力を拒まれることだって在り得る。第一、この状況では引き返すことすら容易ではなかった。だとすればどの道、前に進むしかない。
 けれど、このままでは限界が近いのも確かだった。この視界不良の中を闇雲に動くのは、眼を閉じて迷路を進むことに近かった。もっとも、今は動くことすらままならない。取り得る最善の策はおそらく、この風雪の届かない場所に避難して、ハーデン山の機嫌が直るのをじっと待つこと。ただ、その避難場所が手近に存在しないから困っているのだった。
 仕方ない、と澪は腹を決めた。
「無駄に消費したくなかったけど……」
 やあっ、と彼女が両手を前に突き出すと、吹き付けていた雪が途絶えた。魔術によって生み出した、白色の光の盾である。澪の全身を覆い隠すほどに巨大な、亀の甲羅のような形状の光が、荒れ狂う雪の流れを堰き止めていた。
「わお、さすがだねえ、ミオ」
 マァルがいそいそと、その恩恵を被るべく澪との距離を詰めた。
「アンタねえ……男の誇りとか、見栄とかってないの」
「誇りや見栄より命が大事だよ」
 ご立派、と澪はこの雪よりも冷たい声で言った。
 白光の盾は、オフィールに教授してもらった唯一の術である。唯一というのは、別にオフィールが教え惜しみをした訳ではない。単純に時間が足りなかったのだ。
 澪がマァルに連れられて、街の避難民たちが暮らす洞窟を訪れたあの日は、竜の住み処に向けて出発するには陽が傾きすぎていた。結局、洞窟で一夜を明かしてから翌朝早くに発ったのだが、澪はその一晩限り、オフィールの弟子となったのだった。学ぶことが出来たのは数時間という僅かな間だけだったが、澪はその短時間で術を見事にマスターしてオフィールの舌を巻かせた。老婆が言うには、かなり筋が良いらしい。血は争えないねえ、とオフィールは漏らし、澪の天賦の才を褒め讃えた。ただし、その後で一言付け加えた。回復魔術の方はこれっぽっちの才能も無いようだがね、と。
 『白』の魔力の特質は、治癒と守護の二系統の術に秀でている点にある。澪はもともと、役立つ機会と度合いの多いであろう治癒系の魔術を習うつもりだったのであるが、あまりの見込みの無さに、急遽防御魔術に講義科目が変更されたのであった。姉である栞が初めて魔力を覚醒させた時に発動した術が見事な回復魔術であったことを考えると、どうやらテーゼンワイトの才能は姉妹でまっぷたつに二分されてしまったらしい。
 自分の魔力が治療には使えないと知って澪はいささか落胆したが、しかし今はこの白い盾が頼もしかった。出来れば、自分の後ろで小さくなっている白い入道雲頭の青年にも、少しは頼もしくなって欲しかった。
「アンタさあ、ちょっとは手伝いなさいよ。あたしにばっかり魔力を使わせないで」
「言っただろ? 俺、魔術めちゃくちゃ下手なんだよ。ちょっと使うとすぐにヒロウコンパイ」
 相変わらず澪の影で丸くなったまま、マァルは何とも貧弱な笑顔を見せた。澪は半ば返す言葉も失って、雪で白く染まった天を仰いだ。
「危険は嫌い、実力も無い、なのにどうして廃墟になった街なんかに何度も行ってたのよ。魔物がいるのは解り切ってたし、おばあちゃんにも止められてたんでしょ? それこそ危険極まりないじゃないの」
「それは、ホラ、色々と事情が」
「事情って?」
 言葉を濁したマァルを怪しく思って、澪はあえて追求した。あまり良い答えは予測出来なかったものの。
 返答するマァルの声は、少々小さくなった。
「だから、リサやマリーが……悲しそうだったし。それに、エリザベートも」
 彼の舌が奏でた女性の名前の三重奏に、澪は自分の予測が正しかったことを確信した。根掘り葉掘り問い質し、歯切れの悪いマァルの口を割らせた結果に出てきた答えは実に明快だった。数分の質疑応答の後、澪は重々しくその最終結論を口にした。
「つまり、女の子の好感度稼ぎだったと」
「違う違う、失礼な! 俺はただ、可哀想な女性たちが避難の際に持って来られなかった大切な品々を回収することで、彼女たちを元気付けようと」
「そして、よりお近づきになろうと」
「違う違う、断じてそんな、やましい考えは持ってない! 純粋な善意、厚意だよ」
 ほほう、と澪は冷めた声音で笑った。
「その善意、あたしには向かないのかなあ。あたしも可哀想な女性なんですけどねえ」
「いや、それは……割に合わないっていうか」
「割に合わないっていうのは、冒す危険が大きすぎるってこと? それとも、あたしに女としての魅力が無いってこと?」
 作ったような完璧な笑顔でにっこりと笑った澪に、マァルは硬くなった表情で答えた。もちろん前者です、と。全身が凍り付いたのは、何もこの山の気温のせいではなかった。




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