「ふた、つき?」
 ゆっくりと、一音一音を確かめるかのように澪の唇がぎこちなく動いた。
「馬や家畜の類はすっかりやられてしまったからね、今は移動手段が徒歩以外には無いのさ。でもまあ、地形は平坦だから、そんなに大変な訳じゃあないよ。やはり問題は獣たちだね」
 オフィールはまだ話を続けようとしていたが、それを遮って澪は叫んだ。
「ダメなの!」
 突然上げられた大声に、オフィールが出そうとしていた言葉は引っ込んだ。黙って話を聞いていたマァルも、驚いて両眉を大きく上げた。
「駄目って、何が駄目なんだい」
「ダメなの、ふた月もかかってたら。一週間……一週間以内に、王都に行かなくちゃ間に合わないの」
 いっしゅうかん、とマァルが裏返りそうな声で復唱した。
「そりゃあ無茶ってものだよ、ミオ。ここからエッジナートまで、どれだけあると思っているんだい。どんな速馬で駆けても、十日はかかる距離だ。間に合うとすれば、『朱』の国の鳳馬くらいなものだよ」
「そのホウバ、っていうのはどこで手に入るの、教えて」
 痛々しいまでに眉を歪めて、澪はマァルに詰め寄った。聞く側が辛くなるほどに切実な声に、マァルの耳も刈り取られてしまいそうになる。
「この国には一頭もいないよ。だから、無茶だって言ってるんだ」
 答えずに済むならば、マァルとてこのような回答は口にしたくなかった。希望を求める眼差しを、彼は直視することが出来ずに顔を背けた。
「他に、他に何か方法は無いの」
「だから、無いって。この遠さに、年々増える獰猛な獣たち……ばっちゃんも言ってただろう、最近は都市部との交流が途絶えてるって。現状じゃあ、無事にエッジナートに辿り着くだけでも奇跡に近いんだ。許可証を持ってるのに、俺がまだ王都に行かないのも同じ理由さ、行けないんだ。ミオのやろうとしてることは、端から無茶が過ぎるんだ。それを一週間以内にやろうだなんて、不可能を遥かに通り越してるよ」
「でも、だったら、今すぐに走っていく。もう一秒だって無駄にできない、首都はどっちなの、教えて。さあ、早く!」
「落ち着きなって!」
 食ってかかる澪の両肩を、マァルは強く押さえた。
「走ってどうにかなるわけないだろう。絶対に間に合わないって、何度言わせるつもりだよ?」
「何度でも言えばいいわ!」
 マァルが慄然とするほどの形相で、澪は彼を睨み付けた。
「何度でも言いなさいよ、あたしはそれでも、走っていくから。早く教えてよ、間に合わなくなるじゃないの!」
「この、」
 わからずや、とマァルは続けたのだが、その声は更に大きな音に掻き消された。澪の頭蓋骨を激震させたのは、白銀の煌き。マァルが今日、五発も頂戴した有り難い教育的指導である。
「おや、いけない。手が滑ったよ。歳かねえ、近頃は体が言うことを聞かなくて困るよ」
 白々しく言ってのける祖母に、マァルは背筋を冷たくした。自分の頭にまた激痛が走ったかのような錯覚まで覚え、鳥肌が立った。
 頭を抱え、地面で団子虫のように丸まっている澪を見下ろしながら、オフィールは静かな声を発した。
「間に合う方法が、ひとつだけあるよ」
 瞬間、澪は痛みも忘れて老婆を仰ぎ見た。涙を滲ませた瞳に見つめられて、老婆は口もとを緩めた。
 ばっちゃん、とマァルが半信半疑で尋ねた。
「本当かよ、どう考えたって無理だろう?」
「マァル、何も鳳馬が最速というわけじゃないだろう。クーレイがいる」
 マァルは絶句した。
「……そんな、それこそ無茶だよ、無謀すぎる」
「そうかい? 徒歩で一週間以内に辿り着こうとするよりは、奴に力を貸して貰う方が余程可能性があると思うけどね」
「そんな簡単な話じゃないだろう。可能性があるって言っても塵が砂粒に変わったくらいで、それよりも増える危険の方がずっと多いじゃないか」
「ああそうだね。だが、それはこの子が選ぶことさ」
 老婆は孫から視線を外すと、こちらを見上げている澪に向けた。
「そして答えは、もう決まっているのだろう?」
 澪は老婆の顔を見詰めたまま立ち上がると、話の内容を完全には飲み込めていない頭を縦に振った。
「どんなに危険だろうが、可能性がある道を行く。そのために来たんだもの。それに、その手の迷いはもう通り過ぎてここにいるのよ」
 危険を恐れるくらいなら、初めから魔界になど来なかった。他者の力による成功を、人間界でただ祈っているだけで良かった。そうしなかったのは、自分が行くと決めたから。
「さっきは取り乱してごめん。おばあちゃん、そのクーレイって人はどこにいるの。その人に頼めば、一週間以内に転移装置のある首都まで行けるのね?」
 だから無茶だって、とマァルが口を挟んだ。
「本当に命を落とすよ、ミオ。ほんの僅かな可能性のために、どれだけ危険が膨れ上がるか解ってるのかい。協力なんてして貰えるわけがない、だってクーレイは――」
「そんなこと、やってみなけりゃ解らないだろう、馬鹿孫。お前はさっきから無茶・無茶とうるさいね。確かに並の者なら無茶だろう。だが、ミオならば少しは希望がある。あのマトア坊の娘なんだからね」
 オフィールが、孫の消極的意見を言下に切り捨てた。彼はまだ何か言いたげだったが、祖母に睨まれては口を閉じざるを得なかった。釈然としない表情でマァルは黙ったものの、途中で塞がれた彼の言葉は澪の頭に引っかかって、彼女の首を傾げさせた。
「協力して貰えるわけがない、って言ったわよね。そのクーレイって、そんなに気難しいの? それに、お父さんが何か関係あるの?」
「気難しいも何も、魔族にそう易々と従うわけがないって。前例自体、これまでに数えられる程度しかないっていうのに。いくら娘だからって、それだけで頼みを聞いてくれるもんか」
 まだ祖母の立案に賛成できないのか、唇を尖らせてマァルが答えた。何処かひょうきんな顔になってしまって敵意を感じさせないのは、もともとのさっぱりとした顔立ちのせいだろう。
「『魔族に従う』……? クーレイって、魔族じゃないの?」
 怪訝そうな顔をした澪に、オフィールが答えを明かした。
「クーレイは魔族じゃないよ。奴は、霊峰ハーデンに住まう、誇り高き天空の覇者――“竜”、と呼ばれる存在さ」
 己が主と認めた存在にしか決して服従しない、強く気高い生き物。それが竜である、とオフィールは言った。
「竜と主従関係を結んだ魔族は、ほとんどと言って良いほどいない。それは、そもそも竜がこの世界に数頭しか存在しない、というのがひとつの理由だがね。逢うこと自体が非常に困難、そして、逢った後も生きていられることが更に困難。認められなければ、その鋼鉄の爪で引き裂かれてしまうだろう」
「だから言っただろ、無茶だって」
 マァルが、祖母に付け足すように言った。じろりと鋭い視線で射抜かれて、マァルは慌てて口を噤んだ。
「確かに、竜を従えることは並ならぬ難業だよ。しかし、その翼を得ることが出来たならば、距離も時間も飛び越えることが出来る。それだけの力を持った存在なのさ、竜という生き物は。奴らの翼をもってすれば、一日の飛翔でエッジナートに到達できるだろうね。クーレイの住み処まで、ここからおよそ二日。上手くいけば、充分に間に合うだろう?」
 オフィールの描いた計画図を解して、澪は多少興奮した様子で首を何度も上下に動かした。それならば確かに、かなりの余裕を持って王都まで行けそうだった。
「でも、あたしがお父さんの娘っていうのは何か関係があるの?」
 未だ残る疑問を口にした澪に、オフィールは楽しそうに破願した。
「竜が誰かに従うことは、極めて稀だと言ったろう? けれどクーレイはその稀な竜の一頭でね。以前、ある魔族を主としていたのさ。その男の名は、マトア・テーゼンワイトといったんだよ」




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