話し終えて、澪は初めてマァルの運んできた銀のカップに口を付けた。落ち葉の色をした液体はすっかり冷めてしまっていたが、程よい苦味がおいしいと思えた。舌に覚えの無い味だった。
「ねえ、マァル。このお茶ってどうやって……」
 訊きかけて、澪の口は開いたままで固まった。マァルと言えば、溢れる涙を白いハンカチで拭っていた。ずびずびと汚らしい音が、鼻の方から聞こえてくる。
「アンタ、何で泣いてんのよ」
「俺、こういう話に弱いんだよ。ミオって、偉いんだなァ。さらわれた二人を追って、魔界まで……。つらい目に遭ってもへこたれないで、頑張ってるんだなァ」
「およし、みっともない」
 オフィールがぴしゃりと言った。
「ありがとう、よく話してくれたね、ミオ。そうかい、マトア坊は人間界に逃れていたのかい。自分を犠牲にして家族を守るだなんて不器用なやり方、奴らしいね」
 何処か嬉しそうに、そして懐かしむように老婆は笑っていた。
 おばあちゃん、と不安そうに澪が尋ねた。
「お父さんのこと、何かわかった? どうして魔界から逃げ出したのか……」
「いいや、確かな事は何も解らないね。奴は、お前たちにも詳しい事情を説明していなかったようだしね。恐らくは、自分以外の者を巻き込みたく無かったのだろうが……今となっては逆に迷惑だねえ。やっぱり不器用な奴だよ」
 何処となく面映く、澪は思わず笑った。けなされているような印象は受けなかった。
「おばあちゃん、あたしに話せることは全部話したわ。お父さんの話を聞かせてちょうだい」
「奴は子どもの頃から誰ともつるまなかったし、軍に入ってからは少しも帰って来なかったからねえ。私もそんなに話せることはないのだけれどね」
 遥か過去の日を実際に見ようとするかのように、老婆は眼を細めた。
「確か、奴がお前と同じくらいの歳の頃だったかね。ああ、勿論外見上での話だよ。そう、人間界との大戦が終結していなかったから、一千年以上昔になるね。たった独り、私らの街にやって来たのさ」
「マァルもあたしの家紋を見て驚いてたけど、“テーゼンワイト”ってそんなに珍しいの? お父さん以外にはいないの?」
「昔はそんなことはなかったよ。ただ、そのあまりに才に溢れた血のために、大戦の際に皆が兵士として駆り出されてね。多くはその犠牲となってしまったのさ。最も防御と回復の術に長けていた者が、それ故に他者の盾となり、最も多く死んでしまった。皮肉なものだね。マトア坊の両親も、その例に漏れなかった。奴は戦災孤児として、独りで生きていくしかなかったんだ」
「すげえなあ……」
 と、これはマァル。
「お前も少しは見習いな。こんな老いぼれにいつまで面倒をかけるつもりだい」
「いやあ、出来ればもうしばらくは」
 老婆は苦虫でも噛み潰したような顔でため息を付いた。
「まあ、そんな風に独りで各地を転々としていたせいだろうね、随分とすれた奴だったよ。それでも、人の良い奴らの暮らす街だったせいかねえ、軍の誘いを受けて王都に行くまでは腰を落ち着けていたよ。軍に入ってからは、こんな田舎にまで名声が届くような昇進ぶりでね。異例の速さで魔将にまで昇り詰めてしまったよ。だからこそ、反逆の報が流れた時には誰もが耳を疑ったのさ。一体何故、とねえ」
「どうしてだと、おばあちゃんは思う?」
「さあてねえ。しかし、何か理由があったのは確かなのだろう。奴の手に負えない何かがあった……魔将という地位にあったことを鑑みれば、相当に大きな問題だったのかもしれないね」
「魔将の上にいるのは、王だけなんでしょ? だったら、その王様が悪いんじゃないの」
 まさか、とマァルが噴き出した。
「ありえない、ありえない。クロスフォード陛下は今までで一番優れた王だって讃えられるくらいなんだからさ。陛下の悪い噂なんて聞いたことがないね。民の心を理解して下さる、優しい御方さぁ」
「それじゃあ、何でそんな優しい王様が、人間界に攻め入ろうとしてるのよ」
「そこなんだよな。俺らはそんな話、聞いたこともねえんだよ。陛下が“獄門”を開こうとしてるってのは、本当なのかい。実の父親であるV世陛下を自ら討ってまで一千年前の大戦を終わらせた陛下が、今更そんなことをなさるとは思えねえんだけどなあ。そうだよな、ばっちゃん」
「マァルの言う通りなんだよ、ミオ。私らにはそんな話は一切伝えられていない。尤も、こんな田舎だからなのかもしれないけどねえ。近頃は辺りをうろつく魔物の数が増えて、都市部との交流は完全に途絶えてしまっていたから。多くの小さな集落には、もう住民は存在しないのさ」
「ここ十数年はどんどん気候もおかしくなってるしな。晴れが何ヶ月も続いたり、かと思えば吹雪が続いたりさ。平均気温も、どう考えても急上昇してる。雪崩の被害も頻発してるんだ」
 マァルの言葉に、オフィールは微かに口を開いた。が、何かを言おうとしたかのようなその口はすぐに閉じられた。
 目敏くも、澪は彼女の異変を見落とさなかった。
「おばあちゃん、何か知ってるの? 気候が変になっちゃったのには、何か理由があるの?」
 オフィールは静かに首を横に振った。
「教えられないね。これを知って良いのは、長き時を生きた『白』の者だけだよ。多くの者が知って良いことでは無いんだ」
「ばっちゃん、何だよそれ。今までそんなこと一言も――」
「お前も、あと千五百年も生きれば託されることになろうよ。だが、今は駄目だ。その重さを理解出来ないような、また背負えないような未熟者たちには、知ることは許されない。世界を混乱に導くだけなのさ」
「でもよ、原因が解ってれば対応の仕様があるだろ。こんな風に異常気象が続いちゃあ、千五百年経つ前に死に絶えちまうよ」
「それならば、それもまた運命(さだめ)/rp>なのだろうよ。この世界が、終末を望んでいるのかもしれないね。仮に、混乱を招く事を承知で告げたとしても、その後にやって来る世界は碌なものでは無いだろうよ。そして、だからこそ教える訳にはいかないんだよ。“調和を乱すことが、最大の禁忌と知れ”――アグニスの格言を知らない訳じゃないだろう?」
 マァルが懸命に口を割らせようとしても、オフィールは頑として語ろうとはしなかった。石になってしまったかのように、彼女はただ厳然たる空気を湛えて座っていた。
 マァルは憮然としてため息をついた。どう考えても、祖母は力に余る相手だった。
「ミオ、あんたからもばっちゃんに何とか言ってやってくれよ。あんただって、こんな風に隠されちゃあ気になるだろう」
 ううん、と澪は唸った。
「そりゃあ、気にならないと言えば嘘になるけどさ。おばあちゃんが話せないって言ってるんだから、どうしようもないじゃない。それに、あたしにとってもっと気になる、重要な点は他にある訳だし。こうやって押し問答をしてる時間はないのよ。あたしがまず知りたいのは、みんなの居場所。おばあちゃん、心当たりはないの?」
 マァルはあっさりと孤立してしまい、祖母への追及を諦めて肩を落とした。女の子ってのはいつもこうだ、とマァルはひとりため息を付いた。仲良くなったと思っても、ふとした瞬間にするりと逃げていく。尤も、それを追いかけるのが彼の楽しみでもあるのだけれど。
 そんなマァルの煩悩には気付くことなく、オフィールは元の調子に戻って口を開いた。
「お前の姉と人魔術師の坊やは、まず間違いなく王都だろうね。特に姉の方は、城内の何処かに軟禁されていると見て良いだろう。“獄門”を開くために連れて行かれた、というお前の話が真実なのだとしたらだけどね」
「あたし、嘘なんか」
「嘘だとは言っていないよ。単純に、私がまだ信じ切れないというだけの話さ。それで、人魔術師の坊やの方だけど……こっちはどうだろうね、生きているとすれば牢にでも入れられているんじゃないのかい。お前と一緒に魔界に来たっていう二人については、何とも言えないねえ」
「そんな。何とかわからないの」
「慌てるのはおよし。お前、そのために私を訪ねたんだったろう? さて、ひとつ占ってみようかね」
 オフィールは徐に立ち上がった。白い杖を振りかざすと、その先端に淡い光が灯った。燭台の灯りと杖の灯り、二つの光によって二つの影が伸びる。
 空中に何かを描くように、オフィールはゆっくりと杖を振った。動かされた光はすぐには消えず、帯となって宙を漂った。飛行機雲みたいだ、と澪はその様子に見入っていた。
 しばらくの間そうやって光を揺らせていたオフィールが、最後に一喝して杖を振り下ろした。一瞬、部屋の中が白い光に包まれ、何も見えなくなった。
「さて、終わったよ」
 どっこいしょ、と老婆は座り直した。澪はまだ目がチカチカしていて、何度も瞬きを繰り返した。オフィールの顔も良く見えなかったが、矢も盾もたまらず問い掛けた。
「どうだった? 何かわかった?」
「占いってのは、何かを知ったり理解したりするものじゃないよ。占いはあくまで占い、それが真実かどうかは誰にも解らないものさ。それでも、まあ結果を言おうか。お前のお友達は皆が皆、違う国にいるようだね。この国にいるのはお前だけのようだよ。これまた、見事に離れたものだ」
「でも、無事なのよね?」
「ああ、私の視た限りでは、全員生きていると出たよ」
 よかったぁ、と澪は机の上に伸びてしまった。ナメクジになってしまった気がした。
「お友達とは、目指す場所で逢えるだろう。今は目的を見失わずに進むことが吉、ということらしいね」
「それから?」
 お終いだよ、とオフィールは素っ気無く言った。
「もう? もっとこう、大成功するでしょう、とか……」
「馬鹿言うんじゃないよ。初めに断っただろう、占いで全てが解るくらいなら、誰も苦労はしないよ。占いはただ、標を与えるだけさ。どう動くかは本人次第だよ」
 ああ、そうそう。老婆は思い出したかのように付け足した。
「“飛行注意”、と出たね」
「どういう意味?」
「だから、それは私にも解らないよ。当たっているかどうかすらね。まあ、胸の片隅にでも留めておきな」
 ふうむ、と澪は口をへの字に曲げた。




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