第四十話  「白(2) おにばばあ」


「ばっちゃん、聞いてくれよ、すごいんだって!」
 部屋に飛び込んでくるなりそう叫んだ孫の頭を、オフィール・マレクシファーミアンは杖で叩き付けた。この国にのみ生えるという、神聖な白銀の樹から作られた太い杖は、その硬さも折り紙つきである。
「マァル、また街に行ってたんだろう。危険だと何度言ったら解るんだい。あれだけ禁じているというのに、この馬鹿たれが」
 しわがれた声で言いながら、老婆はもう一度杖を振り下ろした。ごん、という重々しい音が、マァルの頭の中でこだました。
 声にならない悲鳴を必死で押し殺しながら、マァルは頭を抱えてその場にうずくまった。綿飴のように膨らんだ髪も、さほどクッションにはならなかった模様である。
「毎度毎度、その杖で殴るのだけは勘弁してくれよ、ばっちゃん……」
「毎度毎度、私の言葉を無視するような阿呆には、同情の余地なんてないさね」
 涙声の孫に対して、オフィールは鼻で笑った。ツンと尖ったその鼻と、そして同じくらいに鋭い顎。ぴりりとした緊張感を見る者に与える顔立ちである。直線的な顔の造りに負けず劣らず、背筋も見事に真っ直ぐで、その姿勢は年齢を感じさせない。
「それで、何が凄いんだい」
「殴ったくせにそこはちゃんと訊くんだな、ばっちゃん」
「うるさいよ。文句があるのかい」
 オフィールが杖を振り上げると、マァルはぶるぶると首を振りながら後退りをした。三連撃は命に関わる。
「それがさぁ、街でひとりの女の子に会ったんだよ。この子がなんと、」
 言いかけたマァルの頭に、激痛。彼は先程と同じ姿勢でうずくまった。三発目、生命の危機。
「またそうやって可愛い娘と見れば声をかけてるのかい、この女たらしが。いい加減に、その軽薄さを何とかしないかい」
「違うって、ばっちゃん……いってえぇ」
 彼の言葉に、オフィールは尚も叩き付けようとしていた杖を止めた。
「違う? それじゃあその子が一体どうしたっていうんだい」
 まだ痛む頭をさすりながら祖母を見上げて、マァルは得意気に笑った。
「聞いて驚くなよ、ばっちゃん。その子の額に何と、テーゼンワイトの紋!」
「嘘をお言いでない!」
 四発目。マァルの意識が一瞬遠退き、目の前に鮮やかな星が舞った。
「テーゼンワイトの紋を持つ者は、既に途絶えてしまった筈だよ。マトア・テーゼンワイトを最後にね。全く、口を開けば出鱈目ばかり。誰に似たんだか」
 うずくまると言うよりは最早伏せっている状態に近いマァルを見下ろしながら、オフィールは皺だらけの顔に更に皺を増やした。
 と、その時。
「ねえ、マァル。まだ入っちゃ駄目なの?」
 ひょこりと、扉から室内を覗き込んだ顔がひとつ。老婆は何十年かぶりに、その切れ長の目を見開いた。孫の言った事は、嘘ではなかった。

*  *  *

 澪が辿り着いた廃墟から、山並みへ向かって更に雪の中を歩くこと数時間。そこに、街を追われた者たちが隠れ住んでいる洞窟がある。この地方の先住民族が太古に作り、暮らしていたと言うその場所は、澪の想像を遥かに上回る大きさだった。
 雪に埋れそうな小さな出入り穴から中に入ると、鯨が丸々一頭収まりそうな広い空間が開けていた。壁に穿たれた無数の小さな穴には灯がともされていて、灰色の岩肌をぼんやりと橙色に染めていた。無機質でごつごつとした岩の表面も、揺らめく灯火に照らし出されると何処か穏やかな空気を放つから不思議だ。風雪が遮られ、暖色に彩られた洞窟内は、外界とは別世界のように暖かかった。
 入ってすぐの大広間は、言わばエントランスホールである。入り口を中心として扇形に広がった岩壁は、段々畑のように何段にもなっている。まるで、逆さにした巻貝の中にいる気分だ。そして、それぞれの階層には新たな洞穴が幾つも並んで分岐しており、外界から入った途端に、数多の黒い眼に見つめられているかのような錯覚に襲われる。
 ひとつの眼は一家庭の住まい。例えるならばここは洞窟内に形成された集合住宅である。
 そんな数多くの洞穴の中のひとつ、最上層の真ん中に、今や廃墟となった街の長は暮らしていた。そして今、自らの眼を疑っていると、そういう訳だった。彼女は年老いてもなお視力の衰えない両の眼を密かに自慢にしていたのだが、この時ばかりは老眼を危惧せずにはいられなかった。白き三叉の槍を見ることは、もう二度とないと思っていたからである。
「ほら、嘘じゃないだろ?」
 彼女の孫、マァルが恨めしそうな声で言った。先程殴られたショックで床に倒れ込んでしまって、未だ四つん這いの体勢である。
 マァルはよろめきながら立ち上がると、祖母の視線を釘付けにしたおでこの持ち主の傍へ歩み寄った。馴れ馴れしく肩に手を回す。
「この子はミオっていうんだ。詳しい事情は話してくれないんだけどさ、何でも旅をしてるんだってさ」
「ちょっと、あんまりくっつかないでよ」
 澪はぺしりと彼の手を払いのけた。マァルは大袈裟に、叩かれた手をビブラートさせた。
「ガードが固いなァ、もう」
「アンタの手つきはいやらしいのよ。それより、この人がマァルのおばあちゃん?」
「そう、オフィールばっちゃんだ」
 マァルは小声で、怒るとすげえ怖いんだ、と付け足した。
 澪の額の紋を凝視したまま固まっているオフィールに向かって、澪は深々と頭を下げた。
「初めまして、澪と言います。おばあちゃんが占いの達人だって聞いて、マァルにここまで案内してもらいました。あたし、占ってもらいたいことがあるの」
 オフィールはぱちぱちと瞼を上下させると、たった今夢から覚めたかのような面持ちで答えた。
「ちょ、ちょっと待ちな」
「ハイ、何でしょう」
「お前、その家紋は本物かい。本当にテーゼンワイトの者かい」
 多分、と澪は答えた。彼女の額に細い眼を近付けて、オフィールは食い入るようにその紋を見詰めた。皺だらけの老婆の顔を間近で見て、澪はその迫力に思わず後退りをしそうになった。
「確かに、テーゼンワイトの紋のようだね。それに、その目……マトア坊に良く似ておる」
「お父さんを知っているの?」
「ああ、かつてはこの辺りに住んでいたからね。少しも群れないくせに、妙に目立つ奴だったよ」
 おや、とオフィールは片眉を上げた。くんくんと、澪の匂いを嗅ぐように鼻を近付ける。
「お前、変わった匂いがするね。そう、ただの魔族じゃない……何かが混じっている」
 皺の中に隠れてしまいそうなオフィールの白い瞳が、鋭く澪を射抜いた。
「そう言えば、奴の死が報じられたのは、反逆罪で追われる身となってからしばらく経ってのことだったね。その間、何処に潜んでいたのかは公表されなかったけれど……“聖禍石”を使って“門”を開き、人間界に逃れていたんじゃないかとも噂されていたねえ」
 母親は誰だい、とオフィールは低い声で訊いた。小さな石机の上の、大きな燭台に灯された火が、老婆の影を緩やかに波打たせていた。
 澪は返答に窮した。動悸が速まっていくのが自分でも解った。荒々しく角張った剥き出しの岩に包まれた空間が、急に崩れ落ちてしまうかのように感じられた。
「歳を取るとね、鼻が利くようになるのさ。私の鼻が詰まっていなけりゃ、お前の母親は人間だ。違うかい」
 澪は黙ったままだった。オフィールの問い掛けに反応したのは、彼女の孫の方だった。うるさいくらいに驚きを表したマァルの声が、洞窟の中で大きく反響した。
「ばっちゃん、それって本気の話かい。ミオ、あんたは本当に」
「少し静かにおし、馬鹿孫。避難してる住民全員に聞かせるつもりかい」
 オフィールの五発目が炸裂して、マァルの言葉は半強制的に終了した。危うく舌を噛み切るところだったのだが、そんな危険を振り返る余裕すら、完全に痺れてしまった脳には存在しない。
 頭の形が変わっちまうよォ、とマァルは絞り出すような声で訴えた。
「ばっちゃん、マジでやばいって……。記憶とか、ひとつふたつ飛んだかもしれねえよ」
「お前の場合、無くした方がいい記憶の方が多いんじゃないのかい。大体、『白』の一族なんだから、怪我くらい自分で治しな」
「俺、魔術苦手なんだってば……治る頃には、体力の方が尽きてるよォ」
「努力しな。女の口説き方ばかり考えてるのがいけないんだよ」
 オフィールはツンと尖った鼻を上に向けて悠然と言い放った。恨み言をまだつぶやいている孫を捨て置いて、老婆は澪へと向き直った。その表情が、僅かに緩められる。
「怖がることは無いよ。何も、人間だったら取って食おうって訳じゃない。ただ、私は真実が知りたくてね。マトア坊の死には、前々から疑問を持っていたんだよ」
 立ち話もなんだね、とオフィールは続けた。椅子とは呼び難い岩の塊に腰を下ろすと、澪にも座るよう促す。石机を挟み、オフィールに向き合う形で、言われるがまま澪は腰掛けた。ひんやりとした岩の冷たさが、衣服を通して伝わってくる。
「マァル、お茶の一杯でも用意しな。気が利かないね、お前は」
「さんざん殴っといてそれかよ。俺はばっちゃんの奴隷じゃねえぞ」
「節操無しの穀潰しなぞ、奴隷で充分さ。さあ、早くしないかい」
 おにばばあ、と捨て台詞を吐いて、マァルは部屋から出て行った。孫に向けて突きつけていた杖を、オフィールはやれやれと下ろした。
 二人の遣り取りを眺めていた澪と目が合うと、老婆はぎこちなく笑った。
「見苦しいものを見せてしまったね。マァルはいつまで経っても落ち着きが無くてね、私も頭が痛いんだよ。あいつ、お前に何か無礼を働かなかったかい」
 ええと、と澪は口ごもった。彼が喰らっていた老婆の一撃を見た後では、「魔物に襲われた時、盾にされました」などとはとても言えるものではない。それこそマァルの頭蓋骨は、臼で引いたようなさらさらの粉になってしまうだろう。
 言葉を濁した澪の様子から、何も無かった訳ではないということを察したのか、オフィールは苦々しい顔をした。
「まあ、あいつへの仕置きは後で考えるとして……どうだい、さっきの質問に答えてくれないかい。そうすれば、お前の頼みも聞いてあげるよ。私に占ってもらいたいことがあるんだろう?」
 澪は目を伏せた。躊躇っているのが、オフィールにも解った。そしてそれ故に、この娘の母親は人間なのだという推測はオフィールの中で確信に変わっていた。
 老婆は訊き方を変えた。
「マトア坊は、どんな父親だったね」
 しばらくじっと身を固めていた澪だったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「あんまり、覚えてないの。お父さんが死んだのは、あたしが五つの時だったから」
「五つ……?」
 老婆は怪訝そうに眉間を寄せた。魔族の成長速度で考えてしまって、時間の計算が合わなかったのだ。五百歳を越えてようやく一人前、というような成長をする魔族である。マトアが死んだ時に五つだった娘が、今ここまで大きくなっている筈が無かった。
 目の前の少女が人間の血を引いているかもしれないということ、また、人間が魔族よりも極めて短命であるということを思い出し、老婆はようやく得心した。
「確か奴が死んだのは十年前だったかね。そうすると、お前は十五かい」
 頷いた澪に、老婆は改めて驚いていた。にわかには信じられなかった。十五と言えば、魔界ではまだほんの幼子ではないか。
「人間というのは、随分と性急な育ち方をする種族のようだね。だけどこれではっきりしたよ。お前は間違いなく魔族ではないよ」
 老婆に指摘されて、澪は狼狽を露わにした。魔族の生態など知らなかった彼女は、思わぬところから自分の素性を露呈してしまったことに明らかにうろたえていた。
 青ざめた顔の澪に、老婆はふっと笑いかけた。そんなに怯えるものじゃないよ、と。
「ミオと言ったね。お前の父親は裏切り者の烙印を押されて、今ではその名を口に出すものも少ない。だけど、私は奴がそんな男だとは思えないんだよ。何か理由があった筈なのさ、必ずね。お前の話は、それを知る手掛かりになるかもしれない。お前が何処から来て、何処に行こうとしているのか……全て教えてくれないかい」
 澪は険しい顔をして押し黙っていたが、ややあって伏せていた目を上げた。どの道、もう隠し切ることは出来なかった。
「あたしも知りたい、お父さんのことを。お父さんは、絶対に人から罵られるようなことはしていない」
 だから話すよ、と澪は続けた。
「お母さんから聞いたこと、今まであったこと、これからしなきゃいけないこと。全部話すから、おばあちゃんもあたしに教えて。それに助けて。お姉ちゃんとアイツを助けるために、どうしたらいいのかわからないの」
 澪の必死な声に、オフィールは一瞬言葉を失った。今にも裂けてしまいそうな張り詰めた痛みが、その表情から伝わって来るようだった。今までずっとそれを押し殺し、ひた隠しにしていたのだと、オフィールは初めて理解した。
 オフィールが澪に言葉をかけようとしたその時、間の抜けた声が部屋の中に入ってきた。
「おいしいお茶ができましたよー……っと、何、この辛気臭い空気は」
 カップの並んだ盆を手にしたマァルが、能天気な笑顔で言った。




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