「いったぁ……もう、何なのよ一体」
 雪まみれの体を起こすと、自分の後ろでは先程の青年が雪の中に顔を突っ込んで倒れていた。青年は顔を引き抜くと、口の中に入った雪をげほげほと吐き出した。
「おい、お嬢ちゃん。危ないじゃないか、危うく窒息死……」
 こちらに振り向きながら言った青年は、言葉を途中で切ると、澪の頭をむんずと掴んで雪面に叩き付けた。突然の事に、澪の鼻にまで雪が侵入した。
 何するのよ、と彼の手を振り払おうとした澪の頭の上を、勢い良く何かが掠めていった。
「あっぶねぇ……しつこい奴らだなあ、もう」
 ぼやきながら、青年は立ち上がった。彼の手から解放されて顔を上げた澪は、視界に映ったものに絶句した。鋭い爪と牙を持った黒い獣が三匹、紅い瞳でこちらを睨んで唸っていた。先程から耳にしていた鳴き声の主である。唸り声と共に白い呼気がその口から吐き出され、溶けるように宙に広がっていった。
(さっき、あたしの頭の上を飛んでいったのは……あいつら?)
 この氷のような空気の中、もう充分に冷たいと感じていた背筋に、更に冷たいものが走った。あんな爪で蹴られた日には、何針縫わねばならなくなることか。
 尖った耳の四足獣は、様子を窺いながらこちらへとにじり寄って来る。澪は後ずさりながら、腰を上げた。
「アンタが追われてるんでしょ。何とかしなさいよ」
 細長いピアスが幾つもぶら下がっている青年の耳に、小声で言う。こんな空から降ってきたような災難、とんでもない迷惑だった。
「何とかできりゃあ、俺だって逃げてないって……」
 青年は、澪が最初に耳にした悲鳴と同じように情けない声で言った。そして、澪が予想だにしなかった行動に転じた。
「という訳で、頼む! お嬢ちゃん、何とかしてくれ!」
 彼は澪の背後に回り込むと、その両肩をずいと前方へ押しやった。そして自身は小さくなってその影に隠れた。
「ちょっと、嘘でしょ? アンタ、何考えてるのよー!」
「俺さァ、魔術苦手なんだよね。あんなのと戦うなんて無理、無理」
「だからって、普通、オンナのコを盾にするかあー!?」
「いやあ、逃げるにももう体力の限界なんだよぉ。それに、そのコート……お嬢ちゃん、軍人さんでしょ? 強いんでしょ?」
 言われて、澪は自分の着ている白いコートに目をやった。昨日、近くの民家から拝借したブツである。随分上等なコートだとは思っていたが、よもや軍隊の支給品だったとは。
「あほー!」
 澪が叫んだ瞬間、獣たちは中空にその身を躍らせた。白い爪と牙が、こちら目掛けて迫って来る。澪は思わず目を瞑り、両腕で顔を庇った。死んだ、と思った。
 何やら物凄い音がした。噛まれたのか、裂かれたのか。澪はやって来るであろう痛みを堪えるために、ぐっと奥歯に力を入れた。だが、いつまで経っても体のどこにも異常は感じられず、不思議に思った澪は恐る恐る目を開けた。
 目の前で、三匹の獣が伸びていた。
「……?」
 澪が呆気に取られていると、青年に肩をばしばしと叩かれた。
「いやあ、驚いた! 本当に強いねえ、お嬢ちゃん。流石は軍の人だぁ」
 振り向くと、青年が晴れやかな顔で笑っていた。澪は訝しげに眉を寄せると、躊躇いがちに自身を指差した。
「……これ、あたしが?」
「何言ってるのお嬢ちゃん。見事な防御魔術だったじゃないか」
「……どんな?」
「そりゃあ、白く輝く光の壁がビカビカーって、突っ込んできたあいつらはドカドカーって」
 青年は両腕を大きく広げたり、回したりしてみせた。些か低級な説明である。
 澪はもう一度、雪の上の獣たちを見やった。ぴくりとも動く気配は無い。自覚は無いものの、どうやら咄嗟に何らかの魔術が発動したようである。
 運良く死なずに済んだと安堵すると、体から力が抜けてしまって、澪はその場にへたりこんだ。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「大丈夫か、じゃないわよ。よくもさっきはあたしを盾にしてくれたわね。危なく死ぬところだったじゃないの」
 澪は青年の顔を思い切り睨み付けた。青年は頭を掻きながら気まずそうに笑い、澪に手を差し伸べた。その手を借りて、澪は何とか立ち上がった。
「いやいや、すまなかったねぇ。助けてくれて本当にありがとう、お嬢ちゃんは命の恩人だよ。俺はマァシェンフレリオール・マレクシファーミアン」
「マァシェ……何?」
「マァルでいいよ、皆もそう呼ぶ。ってか、本名で呼んでくれる奴なんていやしねえんだよなぁ」
 少し癪そうな様子の青年の顔を、澪は改めて眺めた。長い髪は入道雲のようにもこもこと膨らんでいて、真っ白だった。鼻筋はすらりと通っていて、しかし何処か親しみやすい顔の造りをしている。常に緩んでいる口元が原因であろう。人間で言うならば、歳はすすきと同じくらいか、もう少し上のように見える。眉間から左頬にかけては、細長く白い紋様が走っていた。家紋である。
 耳に付けた大量のピアスだけでなく、彼の全身は様々な装飾品で飾られていた。二重三重の首飾りに腕輪、彼が動く度に必ず何らかの音が奏でられた。服装の色使いも相当に派手だった。体にまとった長いマントはオレンジ色、ゆったりとしたズボンはラベンダー色。これでは獣に見つけて下さいと言っているようなものだ。
「お嬢ちゃんは何ていうんだい? 何番隊所属?」
「あたしは澪。隊とか、そんなのとは関係ないの。このコートは寒いからちょっと借りただけ」
「え、じゃあ軍人さんじゃなかったのかい」
 こくりと澪は頷いた。
「それじゃあ、俺と同じでこの街の住民?」
 今度は首を横に振る。
 まさか、と青年はつぶやいた。
「……泥棒さん?」
 澪はさっきよりも盛大に、首を横に振った。
「ちがーう! そりゃあ、防寒具はちょっと貸してもらってるけど……仕方ないじゃない、寒くて凍えそうだったし、頼もうにも誰もいないし」
「なら、お嬢ちゃん――ミオは、何者?」
「あたしは、ええと……旅人、よ。そう、旅人。たまたまこの街に辿り着いたんだけどさ、見ての通りの有様じゃない? 誰かいないかと思って探していたところだったのよ。一体何が起こったの、この獣たちの仕業?」
 そうなんだよ、とマァルは憎々しげにため息を零した。
「こいつらのせいで、街はめちゃめちゃ。皆、隠れ里の方に避難してるのさ。どうも最近は物騒でいけねえや。魔物は年々増えてるしよ、他の地域ではもっと酷い被害が出てるって話だし」
「この街だけじゃないんだ?」
「ああ、この街は避難が間に合ったから良かったけど、住民の大半がやられた所もあるって噂だ。旅人なんだろう、ミオの方が各地の詳しい状況を知っているんじゃないのかい」
 旅人初心者なもんで、と澪は苦しい言い訳をした。ふぅん、と言いながらマァルは彼女の瞳を覗き込んだ。
「いい眼をしてるねえ。気の強そうなところが俺好みだよ」
「……ナンパ?」
「おっ、いいねえ、その顔。そういう顔ができる女の子、大好きだァ」
 胡散臭そうに眉根を寄せた澪に、マァルは手を打って喜んだ。やっぱりナンパだ、と澪は思った。
「アンタってば、随分と軽いのね」
「社交的、と言ってくれないかねえ。もしくは友好的。ミオみたいなかわいい子には特にね」
「ふわふわ飛んでいっちゃうくらいの軽さだと、交流なんて出来ないわよ。声だって届かない」
「手厳しいねえ。でも、さっきの見事な魔術といい、その性格といい、気に入っちゃったなあ。何しろ、命の恩人な訳だしさ」
 大袈裟な身振りで、マァルは澪の手をべたべたと握った。へらへらと笑っているその表情はいかにもお調子者だ。恐らく、毎日のようにこうやって女性に言い寄っているのだろう、と澪は推察した。
「そうだ、恩人ついでにさ、傷も治してくれないかなあ。さっき逃げてる途中で擦りむいちゃったんだよね。ミオくらいの魔術のウデがあれば、訳無いでしょ?」
 ほら、ここ。そう言って、マァルは右腕をついと突き出した。青い毛織の長袖が、肘の近くで破れていた。血は出ているが、大した傷ではない。
 魔術のウデって言われてもな、と澪は心の中でしかめ面をした。先程の防御魔術にしても、自分ではどうやったのだか覚えてはいないのだ。そもそも、本当に自分が術を使ったのかどうかだって疑わしいくらいだ。だが、ここで彼の頼みを断るのも不自然と言えば不自然、怪しまれるかもしれない。
 ままよ、と澪はマァルの傷口に手をかざした。魔力を集中させるように力をこめると、手袋を包み込むように白い光が輝き始めた。
(あ、意外と簡単かも……えいっ)
 べきっ。
 鈍い音がした。マァルが傷口を押さえ、小さくなって地面にうずくまっていた。丸まった背中がびくびくと震え、悶えていた。
「アレ? ちょっと、ゴメン、大丈夫? おっかしいな、出来ると思ったのに……」
 マァルは未だ右手を抱えたまま、壊れかけた機械の駆動音に似た呻き声を上げていた。どうやら、相当の激痛を受けたらしい。
「あのさぁ、もう一回、やらせてくれない? 今度はうまくいくと思うんだ」
 頭を垂れたままで、マァルは弱々しく首を振った。謹んでご遠慮させて頂きます。次は折れるかもしれないと、本気で思っていた。
 彼が普通に喋れるようになるまでには、数分の時を要した。やっとのことで立ち上がったマァルは、右腕をやんわりと動かし、手を握ったり閉じたりを繰り返した。両目には涙が、辛うじて零れ落ちずに(とど)まっていた。
 鼻をすすり上げながら、マァルは潤んだ瞳で澪の顔をまじまじと見つめた。
「防御魔術はあれだけ凄かったのに、回復の方はからきしとは……。随分と変わってるねえ。そう言えば、ミオってどこの家の人? 家紋はおでこかい」
「そうよ、ほら」
 マァルに訊かれて、澪は深く考えずに前髪をかき上げた。額に刻まれた白い紋が露わになる。その三叉の槍の紋を見た途端、マァルの顔色が変わった。
「ミオ……あんた、その紋は」
 強張った彼の声に、澪の心臓が小さく跳ねた。
(ええっ、何、何なの? 見せちゃ、マズかったの?)
 冷たい風が吹いた。鼻の頭がキンキンと痛かった。




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