第三十九話  「雪に包まれた廃墟で」


「誰かいませんかーあ」
 返事は無かった。
(やっぱり、この街にはもう誰も暮らしてないのかなあ)
 澪は身を縮めると、寒い寒い寒い、と何度もつぶやいた。つぶやいたところで寒さが和らぐはずも無かったが、それでもつぶやかずにはいられないような寒さなのだ。もう何百回、いや何千回“寒い”と言ったか解らない。
 魔界に来てから二日が経っていた。しかし未だ、自分以外の生物には一度もお目にかかれていない。野犬のような遠吠えは何度か耳にしたけれども。

*  *  *

 二日前、“門”に飛び込んで、一瞬で風景が変わった。白銀の世界。気が付いたら、雪山のど真ん中にいたのである。初めこそ、その景色の美しさに見とれていたが、すぐにそんな余裕は無くなった。人間界は五月だったのだ、少なく見積もっても気温差は二〇℃。慌てて荷物からマントを引っ張り出して羽織ったものの、明らかに装備不足だった。
 とにかく避難出来る場所を探そうと、辺りを見渡したが何も無かった。そもそも、目印になるようなものが一切無いのである。自分を取り巻くのはただ白一色、降り積もった雪だけ。他に目に映るものといえば、これまた真っ白に化粧をした森林や、剣山のように天を突く山脈くらいのものだった。どちらも相当に離れて見えたので、細かいことは何も解らない。
 身を切るような寒さに震えながら、小一時間程近辺をうろうろとしたが、自分の後に続いて衙とすすきがやって来るような気配は少しも無かった。澪はだんだんと不安になった。こんな場所にひとりで放り出されて、一体どうすれば良いのかさっぱり見当が付かなかった。
 もう一時間程その辺りをぐるりと調べた澪だったが、やはり雪以外には何も見つからなかった。いよいよもって、孤立の色が濃厚になってきた。二人がくぐる前に“門”が消えてしまったのか、それとも出口がそれぞれ異なった地点に繋がってしまったのか。一番初めに“門”に飛び込んだだけに、何ひとつ解らなかった。
 とにかく、こんな場所で夜を迎えてしまえば、翌朝には凍った死体がひとつ出来上がる事だけは確かだった。已む無く澪は、その場を後にした。民家でも洞窟でも何でも良いから、凍え死ぬ心配のない安全な所を探さなければならなかった。
 魔族と遭遇するのは危険かもしれないが、そこはまあ何とかなるだろうという楽観的な思考の隅に追いやっておいた。第一、死んでしまえば危険も何もあったものではない。それに、今の自分はどう見ても人間とは疑われまい。ひょいと摘んで目の前に運んでみたところ、髪の毛は周りの雪と見紛うような色に変化したままだった。この分なら、瞳も変色し、額には父親の家紋が浮かび上がっているのだろう。つい最近目にしたばかりの、姉のような変化が自分にも起こっているのだ。元に戻らなければそれはそれで困るが、とりあえず魔力の解放に成功したお陰で魔界に来ることが出来たので、良しとする事にした。
 深い雪に足を取られながら、澪は雪原を彷徨った。当てなど無いので、とりあえずは遠くに見える山脈を目指した。何かを目標にしなければ、自分の向かっている方角が解らなくなるような場所である。山を見据えて真っ直ぐに進むことで、ぐるぐる歩き回った末にスタート地点に逆戻り、などという事態だけは避けることが出来た。
 しかしながら、行けども行けども風景に変化は見られなかった。ただ同じような白い世界が、延々と続いているだけである。獣の牙に似た白い雪山は、どれだけ歩いても少しも近付く気配が無かった。何時間も歩き通してようやく感じられる変化の精一杯と言えば、裾野に広がる森林帯が僅かに大きく見えるようになったかどうかという程度だった。
 唯一の救いと呼べるものは、天候だった。これで吹雪でも吹いていようものなら、たちまち遭難してしまっていたことだろう。弱々しいものの、太陽の光は有り難かった。何より、気分に与える影響が違う。透き通るような青空は、それだけで澪の心を勇気付けた。
 現在留まっているこの街に辿り着いたのは、一日目の夕暮れだった。雪に包まれた家々は危うく見落とすところだったが、辛うじて赤レンガが目に留まったのだった。助かったと喜んだのは、しかし間違いだった。街に近付いて澪は愕然とした。荒れ果てた街並みは廃墟も同然だった。
 辺りに散乱したレンガが、雪の下からあちこちで覗いていた。そして、それらが元は収まっていたのであろう崩れた建物の壁。粉々になっている、分厚い木製の扉にガラス窓。倒された街路樹。
 人が住まなくなって寂れたと言うよりは、何かに襲われたと言った有様だった。壊れた住宅の破片などがまだ完全に雪に覆われていない点からも、このような状態になったのはつい最近であることが窺える。
 澪は片っ端から家々の扉を叩いて回った。だが、どの家からも返事は無かった。叩く扉の無くなってしまっていた家もあった。中を見ると、滅茶苦茶に荒されてしまっていた。足の折れた椅子、割れた皿、破れたカーテン。死体でも転がっているのではないかと、びくびくしながら街の中を回った澪だったが、幸か不幸か死者生者どちらの住民にも一切出遭えなかった。
 数軒回ったところで陽が暮れた。損壊の少ない家を選んで、泊まらせて頂いた。無断であるが、断る相手がいないので仕方が無い。暖炉に薪をくべて、暖を取った。窓と扉の穴を、そこらに散らばっていた廃材で埋めれば、とりあえずは寒さが凌げた。
 服も靴も雪に濡れてびしょびしょで、暖炉で乾かす間、毛布も拝借。尤も、毛布は眠るときにもお借りしたけれど。
 それにしても、人間の住宅と何ら変わりが無い点には、逆に戸惑った。電気やガスは通っていないし、機械類も見当たらなかったものの、家の造りや家具調度の類は少しも異世界という雰囲気ではなかった。ここは北欧ですと言われれば、信じてしまうかもしれなかった。
 あまりに人間界臭い環境に、澪は驚くと同時に不安だった。自分が来た場所は本当に魔界なのかどうか。もしかしたら、“門”の出口が人間界の何処かに通じてしまったのかもしれないではないか。
 また、不安といえばこの場所で眠ることも不安だった。扉や壁に残っていた、獣の爪によって切り裂かれたような長い傷痕。今となっては、この街が何かによって襲われ、このような惨状に至ったのだという事は明らかだった。ならば、その犯人は今もこの近くにいるかもしれない。
 しかし、かと言って極寒の夜を旅する事は更に無謀であるに違いなかった。何より、今日一日の行路だけで、体力は使い果たしてしまっていた。暖炉の火を眺めながら毛布に包まっていると、緊張した心は次第にとろとろと緩み、澪はいつしか眠りに就いた。
 一晩目は何事も無く明けた。翌日も街の中を探索した澪だったが、結局は何も発見できなかった。好転したことと言えば、防寒具の充実くらいのものだった。雪道用の黒いブーツが手に入ったのは一番の幸いだった。泥棒をしているようで少々罪悪感が残ったけれど、自分が生きるためなので仕様が無い。ブーツも使われずに雪に埋れるよりは、誰かの役に立った方が本望だろう、ということである。同じ理論で、コートやら手袋やらも有り難く使わせてもらっている。
 そして、二晩目も無事に過ぎ、現在に至っているという訳だった。澪が魔界に来て三日目――前進らしい前進は何も無く、足踏みの状態が続いていた。

*  *  *

「誰かいませんかーあ」
 声を張り上げて街中を闊歩するも、ネズミ一匹出て来ない。澪は白い息を吐きながら、鼻をすすった。鼻水も凍りそうだ。
 そろそろ諦めた方がいいのかなあ、と思った。昨日一日探してみて、人の気配は少しも感じられなかったのだ。これ以上ここに留まっても得られるものは何も無いかもしれない。
 ただ、この次に何処へ行くかとなると、当てが少しも無い。また街が発見出来るとも限らないし、凍えずに眠ることが出来る場所だって見つかる保証はまるで無い。雪の中で客死、という可能性も充分に有り得る訳である。
 しかし、あくまで目的は連れ去られた二人の救出なのだ。“獄門”が開くまでの期限は確か、出発当日から十日間だった筈だ。となると、残されているのは一週間程度、ぐずぐずしてはいられなかった。
(お姉ちゃんとあいつがどこにいるのかだって、まだわかってないのに。このままじゃ、とても間に合わないよ。参ったなあ、すき姐やつかさがいてくれれば、まだ何とかなったかもしれないのに)
 寒い寒い、と澪は弱気を吹き飛ばそうとするかのように体を擦り合わせた。丈夫な生地で出来た白いトレンチコートに、茶色い革手袋、底の厚い黒ブーツ、耳まですっぽりと入るグレーの毛皮帽。この街で拾い集めた防寒具による重装備でも、まだ寒かった。三センチ以上の積雪自体、生まれてこの方経験したことがなかったのだ。
(まだ調べてない家もあるけど、もうここは引き上げて、違う街を探した方がいいのかなあ)
 次の一軒で最後にしようかな、と澪が決めかけていたその時だった。犬か狼のそれに似た鳴き声が、寒空に響き渡った。この二日間、陽が暮れてからは何度か耳にしたことがあったが、日中に聞いたのは初めてであった。それに、今まで聞いたどの鳴き声よりも近い。
 慌てて周囲を見回す。澪の耳に続け様に飛び込んできた次なる音は、悲鳴だった。
「うわ、あああ、待てって、こっち来るなよぉ!」
 魔界に来て最初に聞く、自分以外の者が発する言葉が、それだった。情けないというか、貧相というか、そんな感じの声だった。
 声のした方に注意を傾けると、僅かにだが足音が聞こえた。雪を蹴って進む、ざくざくとした響きだ。
(ちょっと待ってよ……もしかして、こっちに向かって)
 吠えるような鳴き声と悲鳴は、断続的に続いている。そして、走る足音と共に確かに近付いて来ている。澪は焦った。これはひょっとすると、非常にまずい状況ではなかろうか。
 とりあえずこの場から早々に退散しなければ――そう思った時には、もう遅かった。すぐ目の前の街角から飛び出して来たひとりの青年は、あろうことか澪の方へと進路を取って突っ込んできたのである。
「ちょっと、危な……!」
 澪は思わず頓狂な声を上げた。青年は己の背後を気にしていて、進行方向に立っている彼女に気付かない様子だったのだ。
 澪の声にようやく前方確認をした青年だったが、急ブレーキは間に合わなかった。雪煙と二人分の悲鳴が上がったその直後、澪は白い地面の中に倒れ込んだ。




Copyright (c) Takamura Machi. All Right Reserved.