「お兄ちゃん、タユタユは? タユタユは?」
 泣き出したかと思うと、少女はすぐに顔を上げて少年に訊いた。
 キャメルはやさしいね、と少年は笑った。
「自分がこんなに大変な目に合ってるのに、誰かのことを思ってあげられるなんて。でも安心して。タユタユは今、病院で怪我を治してもらっているところだからね」
 倉庫の入り口の側で、ガラガラと音がした。少年が振り返ると、廃材の山に突っ込んだ長髪が、巨体に引き起こされているところだった。
「さ、キャメルは俺の後ろに隠れてて。すぐに終わるから」
 少年はそう言うと、立ち上がって長髪たちに向き直った。
「八〇トゥークじゃ、不服だったかい?」
「ふざけんな。たったの八〇トゥークが、“それなりの額”だと?」
「そう言うなよ、俺の全財産だったんだからさ」
 少年は少し寂しそうに笑ってみせた。
 長髪はその両手に赤い光をまとわせた。倉庫の床や壁が、紅に彩られる。
「てめえ、生きて帰れると思うなよ。そのガキと一緒に、灰にしてやるからな」
 黒髪の少年は、やれやれと肩を竦めた。
「元軍人とかタユタユが言ってたね。確かに彼の倍近い魔力だ、敵わなくても仕方ない。で、お前たちはそうやって、タユタユを傷つけた訳だ?」
 少年の顔は、言葉の途中から笑ってはいなかった。その声もまた、刃物が蒼白く光るように鋭かった。
「それがどうした。お前にもすぐ、同じ痛みを味わわせてやるよ」
 長髪は両の掌を少年へと向けた。と、突き出したその手から、燃え盛る火炎が渦を為して迸った。
 荒ぶる炎を瞳に映しながら、少年はぽつりとつぶやく。
「……焚き火だな」
 少年は右手を、向かい来る炎へと差し出した。風切り音をたてて、ひと払い。炎は瞬きも出来ぬ程の僅かな時間で、完全に消え失せた。
「焚き火だよ。ブラントやシーインを火山とするなら、ね」
 建物の中は、先程までとは全く違った色によって照らし出されていた。秋の畑に輝く小麦の色。それを照らし出す、太陽の色。
 黄金色の、光。
「その光、“降魔の能力”……退魔師、人間か、てめえ!?」
 長髪の体は、目の前の光景にわなないていた。巨体と鷲鼻の二人は、言葉も出せずに固まっていた。
 そういうこと、と言うが早いか、少年の脚は地を蹴った。数瞬の後に、三人の男たちは呻きながら地に伏していた。何が起こったのかすら理解出来ない内に、鳩尾に激痛が走っていた。
 地面で悶え苦しんでいる三人の頭上に、少年の声が降って来た。
「さて、どうしようか。タユタユと同じ痛み、味わわせてあげようか」
 咳込みながら、長髪はやっとのことで言った。勘弁してくれ。
「も、もう二度とガキどもには手を出さねえよ。だから、許してくれよ。本当だ、誓って二度とこんなことはしねえ」
 少年はしばらく無言で男たちを見下ろしていたが、やがて踵を返した。そのまま入り口とは正反対の壁の前まで進み行くと、少年は足を止めた。
「本当に、信じていいんだね」
 壁の前に向かったまま、首だけを少し回して、少年は男たちを振り返った。男たちは必死に首を縦に振った。
「なら、今回はこのまま帰るけど……今度、こんなことがあったら――」
 振り上げた少年の拳が、爆発のような閃光を放った。
「……こうなるから、覚えておいた方がいいよ」
 少年の目の前にあった壁は、最早この世には無かった。たった一撃の拳が、分厚い土壁を鉄の骨組みごと消し去ってしまっていた。
風通しの良くなった倉庫を、爽やかな夜風が通り抜けた。いつの間にか、陽は落ちてしまっていた。
「帰ろうか、キャメル。皆が心配しているよ」
 少年はぽかんとしている少女を抱きかかえると、今開けた大穴から夜闇へと融けるように姿を消した。

*  *  *

 少年の姿が完全に見えなくなってしまってからしばらくして、男たちはようやく起き上がった。少しの間呆然としていた彼らだったが、悪夢から覚めたかのように、長髪が突然怒鳴り声を上げた。
「な、何だあのガキは! 人間だと!? ふざけやがって、このままじゃ済まさねえぞ!」
 腹立たしく、地面に拳を叩きつける。乱れた長い髪をかき上げると、立ち上がって他の二人を見下ろした。
「そうだ、軍だ。ただの人間ならともかく、退魔師だってことを通報すりゃあ、軍も腰を動かす。あの野郎、賞金首にしてやるよ。俺たちに逆らったこと、後悔させてやる」
 憎しみに血走った目で、長髪は醜く笑った。巨体と鷲鼻の二人も顔を見合わせると、下卑た笑みを浮かべた。そりゃあ名案だ。
「軍の手で奴を始末させたら、今度こそ金だ。またスラムのガキを人質にして、あの糞ガキ商人から金を脅し取ってやるぜ」
 長髪が昂ぶった声で叫んでいるところへ、その背後から手を叩く音が飛び込んできた。注目せよ、とでも言わんかのようなその音に続いて、悠然とした声が響く。
「ハイ、そこまで。誰が糞ガキ商人だって?」
 男たちが倉庫の入り口を振り返ると、そこには彼らが最初に呼び付けた相手が立っていた。背の小さな、赤茶の髪をした少年――レット・クダタ当人である。
 レットは目深に被った帽子を片手で押さえながら、静かな足取りで倉庫の中へと進み入った。
「いやいや、僕のいない時に随分と好き勝手してくれたみたいじゃないか。しかも、舌の根も乾かない内に権謀術数ときてる。『もう二度としない』ってツカサに誓ったのは、全くの出任せか」
 男たちは少年の出現に始めは驚いている様子を見せたが、彼が独りであるのを見て取ると、やおら笑い出した。
「丁度良いところにお出ましだな、商人サマよ。聞いてたんなら話は早い、ガキどもを危険な目に遭わせたくなかったら、大人しく金を出しな」
 長髪の言葉を合図にするかのように、男たちはレットを取り囲むと、小さなその体を見下ろした。
「とりあえず、今持ってる金、全部渡してもらおうか」
 男たちを見回すと、レットは可笑しそうに笑った。
「要求してきたのは一千万だっけ? ふざけるにも程があるよ」
「隠そうとしても無駄だぜ、お前がしこたま金を溜め込んでるってのは解ってるんだからな。出し惜しみするってんなら、さっきも言ったように……」
「逆だよ」
 レットの声が、巨体の言葉を途中で遮った。
「安すぎるって言ってるんだ。あの子たちの値段がたったの一千万トゥーク? 馬鹿にするなよ。一億だって安すぎるくらいだ」
 レットの言葉に、男たちはぽかんとした顔になったが、すぐに声を上げて笑い出した。乱れた呼吸に腹を抱えながら、鷲鼻が言った。
「そ、それじゃあお前は、一億払ってくれるってのかい。ふ、ははっ! あんな薄汚いガキどものために? そいつはありがてえな、おい」
 言い終わるか否かの内に、爆音が響き渡った。鷲鼻はもう、喋ることができなかった。焼け焦げた彼の体は、今の衝撃で深く抉り取られた地面に崩れ落ちた。
「何が、薄汚いって……?」
 レットの瞳が、鋭い光を湛えていた。その口が、怖いほどに完全な弧を描いた。
「一億だろうが十億だろうが払ってやるさ。ただね、あの子たちを傷付けることも、罵ることも、泣かせることも、許さない」
 レットの全身が、直視出来ない程の光に包まれる。その大きすぎる力に、周囲の空間全体が激しく震動する。
「次は、君だ」
 再度の爆音の後に、巨体も鷲鼻と同じ様相に変わった。肉の焦げる臭いが、辺りに広がる。
「て、てめえ、何者だ……」
 少年から放たれる圧に耐え切れず、長髪はよろめきながら座り込んだ。歯の奥がまるで噛み合わず、カチカチとか細い音が鳴った。
 おや、と少年は不思議そうに笑った。
「僕のことを知ってての行動だったんじゃないの? 既にご存知の通りさ。僕はレット・クダタ……商人だよ」
 長髪の精神は、たったひとつの感情に支配されていた。
 恐怖。
 紛れも無い恐怖だった。他の思いを一切寄せ付けない、絶対的で純粋な恐怖。
「た、たすけて、くれ……」
 最早聞き取ることも困難な程に、長髪の声は悲鳴と混じり合っていた。その目が、少年のある部分の異変に気が付いた時、飛び出しそうな程に大きく見開かれた。
 長髪はこれ以上無いというくらいに震える指で、少年の右頬を指した。
「あ、ああ……あ……」
「おっと、いけない」
 長髪の言わんとする意味に気が付いて、レットは平然と右頬を押さえた。
「少し、熱を帯びてしまったみたいだね。後で描き直さないと。今度はもう少し耐熱性の高い塗料を使おうかな」
 レットの右頬、クダタ家の家紋の一部が、光の熱によって剥れ落ちていた。
「――それじゃ、サヨナラ」
 三度目の爆音の後に、レットはやれやれとため息を付いた。その体を包んでいた光も穏やかに引き、暗闇が倉庫の中に訪れた。
 巻き上げられた砂埃が服の上に静かに降ってくる。レットはそれを手で払いながら、倒れている男たちに向かって言った。無論、今となっては、その声は彼らの耳には届かない。
「殺しはしないよ。同類にはなりたくないからね。それに、一点に関してだけは、礼を言わなくちゃいけないしね」
 レットは満足気に笑っていた。
「王都に行く前に、ツカサの実力を見ておきたかったんだ。結果として、良い試験になったよ。そして、ツカサは期待以上の成績を出した」
 ――合格だよ、ツカサ。
 レットは目を細めて微笑した。
「こいつらをあっさりと見逃してやる辺り、まだまだ甘いけどね。実力は充分だ。喜んで、王都にご同行願おうか」
 嬉しそうにそう言うと、レットは倉庫を後にした。港では、夜の海が空よりも深い闇を湛えて波打っていた。




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