第三十八話 「朱(6) 合格」 カザヤクの東側には、大きな港がある。魔界でも指折りの大規模な港だ。古くは軍事用拠点として発展してきたこの港は、今では一大貿易港として海運の要を為しており、『青』の国とを行き来する船や自国の南部へと航行する船が、数多く停泊している。 一見すると綺麗に整備された港の風景も、少し南の方へと足を伸ばせば一変する。港の拡張化の計画が頓挫してしまったその地区は、中途半端に施された護岸工事と中途半端に建てられた倉庫群とが醜状を呈している。 完成もせずに潮風に晒され続け、すっかり錆付いた鉄骨を露わに列立する倉庫。その地区を、いつからか住民たちは“廃倉庫街”と呼ぶようになっていた。そして、いつからかその地区には無法者が住み着き、人々は足を踏み入れようとはしなくなった。 (ここか、廃倉庫街っていうのは) 海沿いに港の中を走ってきた衙は、歩を緩めながら呼吸を整えた。 陽は大分傾いていた。海上に佇む船の帆が、少しずつ朱に染まり始めている。辺りにひと気はまるで無く、ただ波の音と鳥の鳴き声だけが耳に響く。 衙は周囲の様子を窺いながら、慎重に倉庫の群れへと近付いた。端から数えて十四番目の廃墟、それが犯人の指定した十四番倉庫。 崩れ落ちてしまったのか、それとも建造途中だったのかは解らないが、砂色の土壁からは鉄の柱が飛び出している。入り口は、大きなシャッターが一枚。人が通れるくらいの高さまで上げられていた。 十二番目の建物の辺りまで進んだところで、衙は精神を集中させた。相手の数と、キャメルの所在を確認しておきたかった。少々距離があるが、人の少ないこのエリアならば、魔力を感知するのも多少はやり易かった。 (ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……) 一番小さい魔力が、恐らくはキャメルのものであろう。だとすれば、敵は三人。他の倉庫からも幾つか感じ取れたが、隣接する位置ではないので恐らくは無関係の者たちだろう。 (入り口の近くに二人。入り口から離れたところに、キャメルともう一人か……どう攻める) 裏手から回り込んで、キャメルの安全を確保するのが良策だろう。だが、どうやって侵入したものか。屋根は半分ほど未完成で空と繋がっているが、あそこまで昇るのは骨が折れそうだ。それだけで陽が落ちてしまう。 (キャメルの傍にいる一人を、どうにかして引き離すことが出来れば) その隙を衝いて、一気に攻め入ることが出来る。しかし、今はとにかく時間的な猶予が無かった。良い策を考え出す時間も、それを決行するための準備をする時間も。日没が来れば、キャメルの身に危険が及ぶ可能性が極めて高い。傷だらけのタユタユの姿を思い出して、衙は意を決したかのように一息吐き出した。 (仕方ない、真正面から行ってみるか) 「おい、火ィ点けろや」 長い赤毛をした男が、仲間に命じた。太陽の角度が悪くなったため、倉庫の中は外界よりも早く薄闇が訪れ始めていた。 半分ほど上げられた金属板の鎧戸が、倉庫の入り口である。その近くに座っていた筋肉質の巨体の男が、長髪の命令通りにランプに火を灯した。指先から放たれた火種が油に着火して、闇をぼんやりと照らし出す。魔術である。 「しかし、ホントに来るのかねェ、あのガキは」 巨体の隣、倒れた大きな鉄骨に座っている、鷲鼻の男が言った。 「来るさ、調べは付いてる。奴はスラムのガキどもと大の仲良しだ、なあお譲ちゃん?」 長髪が、自分の足下の少女に向かって言った。両手首を後ろ手に縛られている少女は、かたかたと震えているだけで返事をしなかった。 「まあ、仮に来なかったとしても、だ。その時はお譲ちゃんを見せしめにした後で、新しいガキをさらって来ればいいだけのことだ。奴が一千万、払う気になるまでなァ」 長髪は醜く口もとを歪ませた。 「ガキが金溜め込みやがって……子どもの内から金を持ちすぎると良くねえってことを教えてやらねえとなあ?」 巨体が言って、三人は声を揃えて笑った。 「にしても、マジで遅えな。こりゃあ、お譲ちゃん、見捨てられちゃったかねえ?」 嘲るような笑みを浮かべ、鷲鼻は手の中で弄んでいたナイフを構えた。少女は鷲鼻の言葉にびくりと身を強張らせた。 「殺すか」 長髪が言い捨てた。少女の体が一層激しく震えた。固く瞑った瞼の間から、大粒の涙がばらばらと零れた。 待て、と巨体が言った。 「誰か来たぜ。足音がする」 砂を擦るような音が定期的に聞こえ、そして徐々に近付いてきていた。巨体と鷲鼻は腰を上げた。 足音が止んだ。開いた鎧戸の前に、一人の少年の姿が現れた。 「何だ、あのガキじゃねえじゃねえか」 黒髪の少年の姿を見て、鷲鼻が小さく舌打ちした。少女は口の中で小さく、ツカサお兄ちゃん、とつぶやいた。 「俺はレットの代理だ。キャメルは無事か」 少年の言葉に、長髪は脚で人質を指した。コツ、と革製のブーツの音が倉庫の中にこだました。 「ああ、まだ無事だ。金は用意してきたんだろうな」 「勿論だ。ただ、ここには持って来ていない。近くに隠して来た。その子を返せば渡す」 長髪は荒々しく唾を吐き捨てた。 「そんな言葉、信用できる訳ねえだろうが。金が先だ」 「こっちだって、お前たちの言い分は信用できない。金を渡せばその子を解放するっていう保障がどこにある」 「何と言おうが、金が先だ。さっさと持って来ねえと、このガキの命は無えぞ。それとも、金を用意してるってのは真っ赤な嘘か」 少年は黙ってシャッターを潜り抜けると、倉庫の中へと歩を進めた。 「おっと、それ以上近付くなよ、『玄』の坊主。近付いたら一瞬で、このガキの丸焼きが出来上がるからな。おい、外に仲間がいねえか確認しろ」 巨体と鷲鼻に命じると、長髪は少女に向かって掌をかざした。魔力が集積された証である、赤い光が揺らめいている。少年は無言で静止した。 入り口から顔を出し、表を確認した二人が口々に言った。誰もいねえ。 「感心感心、どうやら軍には知らせなかったみてえだな。まあ、スラムのガキの話なんざ、軍も相手にしないとは思うがな」 金は何処だ。長髪が低い声で訊いた。その手の赤い光が、一段と強さを増した。 「言わなきゃ燃やすぜ、このガキ」 「まあ、そんなに焦るなよ。穏便にいこう」 黒髪の少年は、突然に相好を崩した。 「金が手に入らなきゃ、そちらとしても意味が無いだろう? どうだろう、ここはとりあえず前金を払うということで、その子を返してくれないかな」 「前金だと?」 「もちろん、それなりの額は支払うよ。その子の安全を確実なものにするための代価だ。そちらとしては、一千万の身代金に上乗せする形で更に金が手に入るんだ、悪い話じゃないだろ?」 「面白いことを言うじゃねえか。いいだろう、幾ら払う?」 長髪は、少女にかざしていた手を戻した。金が余分に入るのならば美味い話である。仮に嘘だったとしても、それを理由にまた人質を取れば良いだけのこと――そう思った。 そうだな、と少年は考え込むように口もとへ手を運んだ。が、その手は口もとをついと通り過ぎ、更に上へと振り上げられ、 「……八〇トゥークでどうだ!」 言うなり、少年はその手を振り下ろした。何枚もの硬貨が、長髪に向かって宙を駆けた。思わず長髪は両腕で顔を庇う。鈍い音をたてて体にぶつかった硬貨が、軽やかな音をたてて地面に落ちた。 「てめえ! ふざけた真似しやがっ……て」 長髪はその尖った目を瞬いた。今の今まで眼前にいたはずの少年が、一瞬目を逸らした間に消えていた。 「後ろだ!」 鷲鼻が叫んだ時には、背中を蹴られた長髪の体は吹っ飛んでいた。地面に叩きつけられ、慣性でしばし滑走した体の軌跡に、砂煙が巻き上がった。 ふうっ、と呼気を音にして、少年は脚を下ろした。何が起こったのか解らず目を見開いている少女の戒めを解くと、少年はその頭を優しくなでた。 「怖かったろ、キャメル。よく頑張った、もう大丈夫だよ」 ツカサお兄ちゃん、と叫んで、少女は彼の体に抱きついた。少女の涙が、彼の服を湿らせた。 |