道を歩きながら、今まで幾人かから聞いた話を頭の中で整理する。
(まず、今から約一千年前、ゼクラルゼーレV世であるデュークルクス・ゼクラルゼーレの指揮の下、魔界・人間界間で大規模な戦争が続いていた。父であるデュークルクスを討ち、魔界軍を撤退させることで戦争を終結させたのが、現王クロスフォード……)
 そして、街の者たちは口を揃えて、クロスフォード王は偉大な方だと言う。賢才溢れ、篤実で、国民を愛する名君であると。
 近年、魔界では気象の異常が著しく、豪雨や地震、火山の噴火などが世界規模で多発しているらしい。ここ『朱』の国もその例に漏れず、降水量の激減や急速な砂漠化などが発生しているとのこと。先程訪れた八百屋でも、凶作続きで品が足りないのだと嘆いていた。
 クロスフォードは、そんな自然災害の被害に喘ぐ国民に補助金を出し、軍を動かして救難活動に当てさせているという。これまでの王政では考えられなかったことなのだと、衙が話を聞いた相手は誰もが礼賛していた。
(確かに、話を聞いた限りでは、クロスフォードは優れた人物みたいだけど……それならどうして、“獄門”を開けようとしてるんだ?)
 今まで衙は、“獄門”開放の目的は人間界を支配することなのだと思っていた。ただ短絡的に、魔物や魔族は人間の敵なのだと思っていた。だが、少なくともこの街の人を見た限り、人間界との戦いを望んでいる者など一人としていない。長年の確執からか、人間に対しての敵意は幾らか見受けられるものの、自分たちから戦争を仕掛けるなどという意思は僅かにも無いようだ。
(それなら、俺たちと同じじゃないか。退魔師だって、人間が襲われたりしなければ魔物と戦うことは無いんだから)
 よくよく考えると、人間が魔物に襲われるという話はよく聞くが、魔族に襲われるという話はあまり聞かない。人間を無差別に襲うのは、知能を持たない獰猛な魔物が殆どだ。そういった魔物は、恐らくは偶発的に生じた“門”を通って人間界へと迷い込んでしまった輩なのだろう。
 魔族絡みの戦いは、“聖禍石”が関係している時のみ。無用な争いを避けている節さえある。
(訳が解らなくなってきた……クロスフォードは、何をしようとしてるんだ?)
 訳が解らないと言えばもうひとつ、衙の頭には大きな疑問が存在していた。
 他でもない、レットである。
 街の誰に聞いても、“門”の気配を感知することなど出来はしないと笑われた。そんな事が出来るのは軍人の中でもかなり優秀な奴くらいだと。だがしかし、レットは確かにそれを行っていた。衙が魔界にやって来た時の“門”の気配を感じ取った、というようなことを少年が口にしていたのは、彼の記憶にまだ新しい。空間の歪みがどうのこうのと、平然と話していたではないか。
(商人の最年少記録を次々と更新している天才なら、他の分野でも天才なのかもしれないけど……魔力を全然感じなかったりだとか、どうも気になるな)
 街の住民からは、それぞれ異なった魔力を感じ取ることが出来た。レットから全くそれを知覚出来なかったのは、ここが魔界だからだという訳では無いらしい。やはり、魔術のスキルにおいても彼は天才なのだろうか。
(怪しい……けど、悪い奴だとも思えない)
 昨日、スラムの子どもたちの前で見せたやわらかな表情。あれが演技だとは、とても思えなかった。子どもたちも、彼の事を心から慕っている様子だった。
 街の人への聞き込みに結構な時間を費やしてしまったとはいえ、太陽はまだ高い。日没までには余裕がある。衙は、スラムの方へ行ってみようかと考えた。子どもたちから話を聞けば、レットについてもっと詳しく知ることが出来るかもしれない。
 手ぶらで行くのも何なので、レットから貰ったお金で何かを買って行こうかと衙は辺りを見回した。屋台はたくさんあるが、さて何処を選んだものか。炒め物、煮物、スープ、揚げ物……ばら売りの果物も候補に入れて良いかもしれない。
 しばらく悩んだ末に、パンと思しき食べ物を売っている店に衙は狙いを定めた。店に近付くや否や、いらっしゃいと呼び声がかかる。
 きつね色に焼き上がったパンの山の中から、自分の腕ほどはあろうかという大きなバゲットを衙は指差した。これならば、大勢で分け合うのに向いている。
「すいません、これを……」
「はい毎度! 何本ですかね」
「ええと、これで買える分だけ」
 衙はポケットに入っている硬貨を全部取り出すと、掌に広げてみせた。どの硬貨がどれだけの価値を持つのかが解らないのだが、レットが『食事代に』とくれたものなので、足りないということはないだろう。
 店主は衙から代金を受け取ると、手早く数えた。
「二〇〇、四〇〇……八〇〇トゥーク分ね。一本九〇トゥークだから八本とお釣りが八〇トゥークね、はいどうぞ」
 袋に入った八本のバゲットを渡されて、衙の両腕は完全に塞がった。少しばかり買いすぎてしまったようだと、衙はひとり苦笑した。
 しかし、昨日の子どもたちの食欲を見るに、多いと思うくらいで丁度良いのかもしれない。もしかしたら足りなくなるかもしれないなあ、と衙はまた苦笑した。
 スラムまでの道はちょっとした距離があるが、昨日歩いたばかりなので覚えている。今出てきた中央広場から続く大通りを真っ直ぐに行き、突き当りを左へ。その後、枯れ木の生えている角を右折して、大きな落書きのある壁を目印に左折。またすぐに右。
 道のりを三分の二程来たところで、衙は奇妙な音を耳にした。地を這うような、低く重苦しい音である。左手の細い路地から聞こえてくるその音に衙は耳を澄ませ、そして瞬間的に理解した。
(――呻き声?)
 薄暗い裏路地に倒れている人物の姿を目に映した時、衙の息が止まった。赤毛の坊主頭。褐色の肌。黒く焦げ、ぼろ切れのようになった衣服から覗くすらりと長い手足も、血にまみれていた。
 瓦礫だらけの道に横たわっているのは、昨日出会ったばかりの少年――タユタユだった。

*  *  *

「タユタユ! どうしたんだ、その怪我」
 バゲットを思わず投げ捨てて駆け寄った衙は、彼を抱き起こした。手に、ぬるりとした血液の感触があった。
 タユタユの顔は青黒く腫れていて、衙は思わず眉をしかめた。全身にも、殴打されたかのような痕、そして焼け焦げたような痕があちこちに見受けられた。目を背けたくなるような有様だった。
 腫れによって半ば塞がりかかった瞳で衙を見ると、タユタユは絞り出すような声で言った。
「ツカサ兄ちゃん……?」
「大丈夫か? とにかく、手当てをしないと」
 言いながら、衙はタユタユを抱きかかえた。病院は確か、中央区まで戻らないと無かった筈だ。どれだけ急いでも三十分はかかる。
 走り出そうとした衙を、タユタユが制止した。
「いいんだ、兄ちゃん。俺のことはいいんだ、それより、キャメルが」
「キャメル? あの子がどうかしたのか」
 衙の脳裏に、幼い少女の顔が浮かぶ。昨日の鬼ごっこでも、一番すばしっこかった少女だ。紅椿と桜の間くらいの色をした髪がとても綺麗だと思ったのを覚えている。
「あいつら、畜生……キャメルを……」
「一体何があったんだ。あいつらって誰だ?」
 タユタユの呼吸は荒く、その音も耳に痛いほど掠れている。
「港の、廃倉庫街にたむろってる連中だ……あいつら、俺らがレットくんと知り合いなのを知ってて」
 廃倉庫街と言えば、今朝、レットに注意を受けた地区だ。
「君たちとレットとが知り合いなのを知ってて?」
「金を持って来い、って……でなきゃ、キャメルを殺すって……俺、あいつが連れ去られるところを見つけて、止めようとしたんだけど……」
 タユタユの目から流れ落ちた涙が、血液と交じり合って顔を伝った。歪んだ表情が怪我のせいなのか悔しさのせいなのか、衙には解らなかった。タユタユの体の震えを両手に感じて、衙はただ奥歯を噛みしめた。
「それで、キャメルは何処に」
「日没までに一千万トゥーク用意して、十四番倉庫に来いって……そんな金、あるわけねえよ……」
 日没。レットの試験が終わっているか微妙な時間だ。どちらにせよ、試験が終わってからでは、指定された場所に移動するだけで刻限を過ぎてしまうことは確かだ。恐らく連中は、今日の試験のことを知らないのだろう。
 一千万といえば、大層な額であることは疑いない。しかし、レットならば何とか出来るのかもしれない。
「タユタユ、今日レットが何処で試験を受けているか知ってるか」
「王立の、ギルドホールだと思うけど……駄目だ、試験中は完全封鎖されるんだよ。俺たちみたいな、スラムの住人の話なんか通してもらえるはずねえよ。門前払いが関の山だ」
 タユタユは畜生、畜生と繰り返した。
「俺のせいだ、俺が弱いから、キャメルを守ってやれなかった。俺が、俺が弱いから……俺のせいだ」
 タユタユの涙が、彼を抱きかかえる衙の手にも流れた。体の芯まで染み込むように熱い。
(試験が終わるのを待ってちゃ、日没には間に合わない……くそっ、選択肢なんて無いじゃないか)
 衙はタユタユの顔を見詰めた。似ていると思った。自分の弱さ故に大切な者を守れない歯がゆさ。情けなさ。惨めさ。そのどれもが、自身の心と被って見えた。
 タユタユ、と彼の名を呼ぶ声が、衙の背後から聞こえた。振り返ると、丸い鼻をした男の子が荒い息を弾ませて立っていた。
「みんな、タユタユがいたよー!」
 丸鼻の子どもは、二人の所へと急いで駆け寄ってくると、傷だらけのタユタユを見て今にも泣き出しそうな顔になった。
「タユタユ、キャメルは……?」
 固く瞑ったタユタユの瞳から、また涙が溢れ出た。
 先程の男の子の呼び声によって、辺りには子どもたちが次々と集まってきていた。どの子どもの表情も不安げだった。恐らくは、彼らもキャメルがさらわれた現場にいたのだろう。独りで犯人を追いかけたタユタユの行方を、皆で捜していたのに違いない。
「ツカサお兄ちゃん、キャメルはどうなったの?」
「連れて……行かれちゃったの?」
「おにいちゃん、タユタユ、しんじゃうの?」
 衙は子どもたちに向かって、微かに笑ってみせた。すべきことは決まっていた。
「大丈夫、心配しなくていいよ。君たちは、タユタユの傷の手当てをしてくれるかな。誰か、そういうのに慣れてる子はいる?」
 おずおずと、ひとりの少女が手を挙げた。タユタユと同い年くらいの、長い髪の少女は、細い肩を震わせながら言った。
「私、いつもこの子たちの怪我を診てます」
「そう、それじゃあ君にお願いするね。応急処置をしている間に、他の誰かが病院に連絡してあげて」
 衙の言葉に、少女は辛そうに答えた。
「私たちみたいなスラムの子どもが掛け合っても、多分受け入れてくれません……でも、こんな大怪我、タユタユが死んでしまう」
 少女は大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて俯いた。周りの子どもたちも、少女の涙を見て泣き出した。
 タユタユが、衙に向かって濁った声で言った。彼の目はまだ涙に滲んでいた。
「いいんだ、兄ちゃん。皆にこれ以上迷惑かけられねえよ。こんな時に何の役にも立てねえで、俺なんか……」
「馬鹿なこと言うんじゃない!」
 響き渡った衙の声に、その場がしんと静まり返った。
「タユタユ、君は皆のリーダーだろ。リーダーが仲間のことを放り出して、生きるのを諦めるだなんて、絶対にしちゃいけない。何より君は、皆からこんなにも心配されているんだ」
 衙はタユタユを地面に静かに下ろすと、黙ってこちらを見ている子どもたちに向き直った。
「君たち、“白波亭”っていう宿は知ってる?」
 こくこくと、何人かの子どもが頷く。
「それじゃあ、そこの親父さんにお願いして、病院に連絡してもらってくれるかな。レットの名前を出せば、きっと頼みを聞いてくれるだろうから。それと他の誰か、ギルドホールの前で待っていて、試験が終わったらすぐにレットに今あったことを伝えてくれ」
 衙の言葉に大きくハイと答えて、二人の少年が駆けて行った。彼らを見送った後で、衙は静かに立ち上がった。髪の長い少女に向かって声をかける。
「それじゃあ、タユタユのこと、任せたよ」
「お兄ちゃん、キャメルは……」
 心配しないで、と衙は少女の肩に両手を当てた。
「俺が、キャメルを助ける。必ず無事に連れ戻すから、皆は安心して待ってて」
 兄ちゃん、とタユタユに呼ばれて、衙は彼を振り返った。
「何だい、タユタユ」
「兄ちゃん、あいつら、元軍人だっていう話だ。危ねえし、下手すりゃ兄ちゃんが殺されちまうかもしれねえ。昨日会ったばかりの俺たちのために、兄ちゃんに命を張ってくれなんて言うのは間違ってるって思う」
 でも、とタユタユは喉のちぎれそうな声で続けた。
「あいつを、キャメルを、助けてやってくれよ……頼むよ、兄ちゃん」
 深く頷くと、衙は握り拳を作って、彼の方に突き出した。
「頼まれた」




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