第三十七話  「朱(5) Leave it to me.」


 衙が魔界にやって来てから四日目の朝。カザヤクは今日も快晴である。
 “白波亭”はカザヤク中央区の東部、港寄りに位置する宿である。船乗りや旅人がよく利用するこの宿は、宿泊料が手頃で料理が美味いという点が繁盛の理由だった。事実、衙が昨晩口にした夕食は、非の打ち所が無かった。人間も魔族も味覚は変わらないらしい、と衙は改めて確信した。尤も、彼は昨日昼食を食べ損なっており、空腹が採点基準を甘くした可能性もあるのだが。
 この宿のひとり部屋の内装は至ってシンプル。机と椅子、それにベッドがあるのみである。それでも、各部屋にユニットバスは完備されているので、環境としては決して悪い方では無い。一泊四二〇〇トゥークというお値段を考えれば、非常にリーズナブルなのである。但し、水の貴重な『朱』の国の宿であるので、水道の使用料金は使った量に応じて請求されるという点には注意が必要である。
 そんな“白波亭”の二〇四号室に、衙は泊まっていた。昨日はレットの荷物持ちで方々を回り、更にはスラムの子どもたちに付き合わされて陽が暮れるまで鬼ごっこ……食事と入浴を終えるなり、彼は倒れ込むように眠りに就いた。翌日が休日だったならば、昼までぐっすり眠っていたことは疑いようが無い。
 が、まだ日も昇らぬ早朝に二〇四号室の扉はノックされ、彼の安眠は儚く消えた。ノックしたのは勿論、彼の雇用主である。
「ツカサ、早く起きなよ。もう空が白んでるよ」
 ノックが二桁に達しようとする頃、やっとの事で衙はベッドから這いずり出し、寝癖の残る頭のままで扉を開けた。
「お早う、レット……ホントに早いね」
 まだ上手く呂律の回らない口で、衙は言った。意識の方もはっきりしていない。
 そんな彼の様子を見て、やっていられないとでも言いたそうにレットは肩を竦めた。
「ツカサ、今日は商人の資格試験なんだ。試験は丸一日かかるから、その間君とは離れることになる。だから、僕が宿を出る前に言うべきことは言っておこうと思ってね」
「言うべきこと?」
「大したことじゃないよ。ツカサは、今日一日自由に行動してくれて構わない。観光するもよし、寝倒すもよし。ただ、人間だってことだけはバレないようにね。ハイ、これは今日の分の食事代」
 言いながら、レットは衙に四・五枚の硬貨を手渡した。
「それと、これは忠告。港の南側にある廃倉庫街には近付かない方がいいよ。物騒な連中の溜まり場になってるからね」
「解った。気を付けるよ」
 塞がりそうになる目を擦りながら、衙は頷いた。虚ろな彼の言葉に、レットは疑い深く相手の顔を見上げた。
「本当に解ってるの? まあいいけどね、困るのはツカサなんだし。それじゃあ、僕は試験が終わったら宿に帰ってくるから、ツカサも日没までには部屋に戻っておくんだよ」
「日没までだね、解った」
 ようやく衙の思考も回転し始めた。レットの肩をぽんぽんと叩くと、衙は彼にエールを送った。
「じゃあレット、試験頑張って」
「子ども扱いしないでくれる? 言ったでしょ、僕が落ちる訳ないって」
「うん、そうなんだろうけどさ。でも頑張って」
 笑いながら言う衙に、レットは小さくため息を付いた。
「応援してくれる気持ちだけは、受け取っておくよ」
 レットは踵を返すと、一階のフロアへと続く階段を下りて行った。これから朝食を取って、試験会場へと向かうのだろう。
 レットの姿が見えなくなってから、すっかり目の冴えてしまった衙は、さて今日一日どうしようかと首を捻った。

*  *  *

 身だしなみを整えて“白波亭”の一階に下りた衙は、カウンターに立っている宿の主人の所へ歩み寄った。主人は衙の姿を認めると、快活な声で話しかけた。
「やあ、お早うさん。レットはもう発ったぞ、『玄』の坊主。朝食を出すように頼まれてる、食べるかい?」
 衙がお願いしますと言うと、主人は相解ったと腕を捲り上げた。
「そこに座ってちょっと待ってな。すぐに用意するからよ」
 主人に促されるままカウンターの一席に就いた衙は、フロアを見渡した。レットには及ばないとは言え、相当に早い時間なので他の客の姿はまだ無かった。貸切のような状態である。
「レットは国選商人一級の試験を受けるんだって?」
 大きな両手鍋からスープをよそいながら、主人は尋ねた。
「そうらしいですね。その試験って難しいんですか?」
 主人は玉杓子を持つ手をぴたりと止めた。
「……お前さん、どんな田舎の出だ? 国選商人一級の試験が難しいか、だって?」
 しまった、と衙の背筋を冷たい汗が流れた。いきなり、人間である事を示しているかのような発言をしてしまったらしい。
「いや、その、そうなんですよ。俺、今まで村から出たこと無くて。世間一般の常識、欠けてるんですよね」
 内心冷や汗をかきながら、衙は作り笑いで誤魔化した。
 主人はまだ腑に落ちない顔をしていたが、器によそったスープを衙の前に置いて、再び話し始めた。
「それじゃお前さん、レットがどんなに凄いことをやってるかも解ってなかった訳だ」
「ああ、やっぱり難しいんですね、その試験は」
「難しいも何も、百年に一人受かるか受からないかっていう、魔界最高峰の試験だぞ」
「百年に一人?」
 スープの一口目を口に運んでいた衙は、主人の言葉に吹き出しそうになった。
「受験資格者にしても、国選商人二級の資格を持つ者の中から厳選されるんだからな。受験を認められただけでも、商人としてのステータスになるくらいだ」
「そんな、物凄い試験だったんですか……」
 予想を遥かに上回る国選商人一級資格の意味に、衙は言葉も失いかけていた。しかし、そんな彼に追い討ちをかけるかの如く、主人は続けた。
「驚くのはまだ早い。レットと来たら、最年少の国選商人二級資格保持者にして、最年少の国選商人一級資格受験者だ。あいつは今までの魔界の記録をことごとく塗り替えてる天才なんだよ」
 天才。思わず復唱した衙の喉が、ごくりと鳴った。確かに、並の商人では無いのだろうと思ってはいたが――どうやら今まで、とんでもない少年と共に居たらしい。そしてそのとんでもない天才少年は、今日の試験に合格すればまたひとつ記録を破るという訳である。
「受かると、思います?」
 レットの才能と試験の難易度と、今の衙にはどちらが勝っているのか判別しようが無かった。しかし受かって貰わなければ困るのだ。王都へ行く手段が無くなってしまうのだから。
 恐る恐る訊いた衙に、主人は口髭をなでながら唸った。
「そいつは難しい質問だな……何せ現在の有資格者が、両手で数えられる程度だからな。しかしレットなら或いは、受かるかもしれん」
 五分五分ってところじゃないかねえ。曖昧で頼りない主人の声は、スープの湯気のようにもやもやと宙に漂って聞こえた。

*  *  *

「クロスフォード陛下と言えば、そりゃあ大層お美しい方だそうよ。緑色の髪が風になびく様と言ったらもう、息も止まるような神々しさなんですって」
「お会いしたことはあるんですか?」
「まさか! 私なんかがそのお姿を拝見できる訳がないじゃないの。これはお友達から聞いた話よお」
 肝っ玉母さん、という単語がぴったりと当てはまりそうな八百屋の女将さんは、衙の問い掛けに声を上げて笑った。
 朝食を終えた衙は、結局街に繰り出すことにした。魔界の情報は、少しでも多く入手しておきたい。それに、純粋な好奇心も多少はあった。これからの旅に役立つ情報を得ようという打算とは全く関係無しに、ただこの世界を見てみたいという欲求である。
 そこで赴いたのは、やはり中央広場である。人も多く、色々な話を聞くには打ってつけだ。
「それじゃあ、お友達は王都で暮らされているんですか?」
「いいえ。彼女もお友達から聞いた話だって言ってたわねえ。陛下に(まみ)えるだなんて、相当身分が高い方でないと叶わないわよ。軍人なら、副隊長クラスまでは出世しないとねえ」
 でも一度でいいから直に拝見してみたいものねえ、と女性は物悲しそうなため息を付いた。
「それにしてもあなた、本当に何も覚えていないの? 病院で診てもらった方がいいんじゃない?」
「あ、いえ、お構いなく。体に異常は無いですから」
 魔界の事を少しも知らない衙が、人間であると疑われずに聞き込みをするために考えた手段――それは、自身を記憶喪失者であると装うことであった。田舎者であるとするよりはこの方が、より基本的な事項まで訊くことが出来る。
「それで、陛下はどんな方だという噂なんですか。お人柄とか……」
「それはもう素晴らしいお方よ。ゼクラルゼーレ王家の歴代の王の中でも、クロスフォード様が最も優れた王でいらっしゃるという見解には、誰一人異論が無いでしょうねえ。何と言っても、一千年前の人間界との争いが終わったのは、クロスフォード陛下のお陰なのだもの」
「一千年前の争いというと、陛下が即位なさる以前の」
「そうよ、先代のゼクラルゼーレV世が始めた戦いだったのだけれどねえ、あの時は酷いものだったわ。今も酷い時代だけれど、あの時と比べればまだマシよ。天災はまだ、どうしようもないと諦めがつくもの。それに、陛下のご厚意のお陰で、何とか生活を続けていけるのだもの。クロスフォード様にはどれだけ感謝をしても足りないわ。ああいう方を名君と言うのでしょうねえ」
 祈るように両手を組むと、女性はうっとりとした顔付きになったが、客に声をかけられてすぐ我に返った。
「すいませーん、野菜買いに来たんですけどー」
「あらあらごめんなさいね。すっかり話し込んじゃって……ホラ、あなたももうお行きなさいな。私も営業中だからねえ」
 それだけ言うと、女将さんは衙から離れ、客の相手をし始めた。これ以上いても迷惑だと考えて、衙はぺこりと頭を下げた。
 八百屋を後にしようとして、衙は思い出したように足を止めた。振り返り、女将さんにもう一度声をかける。
「すみません、あとひとつだけお聞きしてもいいですか?」
 何だい、と快く応じてくれた女将さんに、衙は尋ねた。
「最近、“門”が開くのを感じたりしませんでしたか?」
 本当に知りたいのは、魔界に来た人間の噂を聞いていないかどうか――即ち、すすきと澪の所在である。しかし、そんな直球過ぎる質問が出来る筈も無いので、多少ぼやけた訊き方である。それでも、“門”が開いた場所があるとすれば、その近くにすすきや澪がいるという可能性はある。
「“門”? そんなの、私なんかに解るわけないでしょ。特殊な訓練でも受けないと、“門”の気配を感じるだなんて無理よぉ。軍の方にでもお訊きなさいな」
 可笑しそうに笑って言うと、彼女は客への応対を再開した。どうやら、激しい値切り交渉をされているようだ。
 衙はもう一度頭を下げ、今度こそ店から離れた。




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