レットに導かれるまま小一時間ほど歩くと、周囲のひと気がかなり少なくなってきた。中央広場はとうの昔に出てしまっている。辺りには店らしい店も無く、道の凹凸も次第に増してきていた。つまずかないように歩くのにも、かなりの注意が必要である。
 綺麗に清掃されていた中央区とは打って変わって、路上は砂利でまみれ、風が吹くたびに砂塵が舞い上がった。建ち並んでいる建物の壁も至る所に(ひび)が入っていて、そうでない箇所を見つける方が難しい。中には、大きく崩れ落ち、室内の露わになった家屋もある。本当に住んでいる者が居るのかと、疑ってしまうような有様だ。
 要するに、二人は今、南地区に足を踏み入れつつあるのである。
「レット、この辺りは治安が悪いんじゃないのかい。お店だって無いし、どうしてこんな所に……」
「文句言わない。ツカサは黙って僕に付いて来ればいいの」
 小さな瓦礫を足で払い除けながら、レットは変わらぬ調子で歩いてゆく。衙は、荷物を落とさずに彼に付いて行くだけで精一杯である。
「それじゃあさ、せめて何処まで行くのかだけでも教えてくれよ。これ、結構重いんだけどな」
「鍛え方が足りないんじゃないの?」
 手厳しいお言葉。
「心配しなくても、もうちょっとだよ。それに、その荷物はすぐに軽くなるしね」
「それって、どういう……」
 意味、と衙が続けようとしたその時。
「あっ、レットくんだ!」
 幼い少女の嬉しそうな笑顔が、今にも崩れそうな建物の二階から飛び出した。
 レットは顔を上げると、少女に向かって笑顔を返した。今まで衙が見たことの無いような、やわらかな笑い方だった。
「キャメル、久しぶりだね。皆は元気かい?」
「うん、元気だよ!」
 キャメルと呼ばれた少女は、一生懸命に手をぶんぶんと振って答えた。淡い紅色の髪はあちこちにはねていて、櫛も通らなさそうだ。
「レットくん、後ろのお兄さんはだあれ? 『玄』の人?」
「ツカサ、って言うんだ。皆を呼んでおいで、食べる物を買ってきたから」
「ホント? 行く行く、すぐ行くよぉ」
 叫びにも似た歓喜の声を上げながら、少女の顔は屋内に引っ込んだ。かと思うと、十秒と経たずに一階の入り口から飛び出してきた。
 少女に続いて、坊主頭の少年。縮れ毛の女の子。背の高いの、低いの。細目。丸鼻。長髪。
 出るわ出るわ、あっという間にレットと衙の周りには少年少女の人だかりが出来ていた。この騒ぎを聞きつけたのか、他の建物からも子どもたちが続々と現れた。
僅か数分の後に、その数は優に三十を越えていた。殆どの子どもは貫頭衣を腰布で縛っただけという恰好で、服も体も砂で薄汚れてしまっている。
「これ、食べていいの?」
 衙の持っている袋を指差しながら、わんぱくそうな少年が昂ぶった声で言った。他の子どもたちは、レットの返事を真剣な眼差しで待っている。
「いいよ。ただし、ひとり一個ずつね」
 わっ、と歓声が湧き上がったかと思うと、少年少女の集団は袋に飛び掛かった。無論、それを抱えている人物をも含めた、大雑把な狙いで。
 揉みくちゃにされながら、衙は悲鳴を上げたものの、子どもたちの喚き声に掻き消された。やれ渡せだのそれよこせだの、食べ物の入った袋を中心にしてその場は戦場と化した。
 戦いは数十秒で終わった。残されたのは空になった袋がふたつと、死体がひとつ。
「言っただろ、荷物はすぐに軽くなるって」
 レットは爽やかな笑顔で、地面に倒れている衙を見下ろした。
「……俺まで食われるかと思ったよ」
 荒い息を吐きながら、衙は悪い夢でも見たかのような顔で答えた。
 砂まみれになった体をようやく起こすと、座り込んだままで衙は辺りを見回した。子どもたちは銘々に、美味しそうに戦利品を口にしていた。
「悪いな、兄ちゃん。こいつら育ちが悪いからよ」
 坊主頭の少年が衙の傍に近付いて来て、苦笑いをしてみせた。人間で言えば、中学生くらいの外見である。すらりと伸びた色黒の手足は、いかにも身軽そうだ。
「俺はタユタユって言うんだ。この辺りの子どもたちのまとめ役ってことになってる、一応な」
 おいお前ら、兄ちゃんに謝っておきな。タユタユが声を張り上げると、周りの子どもたちによる「ごめんなさい」の大合唱が起こった。
「いや、いいよ。大変だね、リーダーっていうのは」
「兄ちゃん、話がわかるねえ。そうなんだよ、こいつらと来たら全然俺の言うこと聞かなくてよ」
 うんうん、とタユタユは大仰に頷いてみせた。
「この兄ちゃんはレットくんの知り合いかい? レットくんが誰かを連れて来るなんて珍しいな」
「彼はツカサ・ハリング。現在僕の使用人だよ、タユタユ」
 訊かれたレットが、にこりと笑って答えた。
「それよりタユタユ、暮らしはどうだい。何か変わったことは?」
「何も無いって! レットくんのおかげで一同元気にやってるよ。いつもありがとうな」
 タユタユが口を大きく開いて笑った。色黒の肌に、白い歯がよく目立つ。前歯が一本欠けているのが、何故だか健康的に見えるのだから不思議だ。
「レットのおかげ?」
 首を傾げた衙に、タユタユが手招きする。耳を貸せということらしい。
 そんな彼の挙動を見て、レットが抑止の声を上げる。
「タユタユ、余計なことは――」
「いいじゃねえかよ、この兄ちゃんになら。別に悪口じゃねえんだからよ」
 レットの声にも構わず、タユタユは衙に耳打ちした。
「レットくん、俺たちの生活費を援助してくれてんだよ。これ、他の奴らには内緒な。無駄遣いされちゃ堪らねえからよ」
 意外そうな眼で、衙は思わずレットを見つめた。金銭関係にあれだけうるさい彼が、他の誰かの援助を行うなど、想像も出来なかったからだ。
 レットはバツの悪そうな顔で帽子を押さえた。そんな反応をされるのが嫌だから教えたくなかったのに、とでも言いたそうに。
「タユタユ、君って奴は……」
 怒り出しそうなレットの様子に、勘弁、とつぶやいてタユタユは逃げ去った。猿のような動き。予想と違わず、やはりかなり身軽なようだ。
 衙の隣の瓦礫にどっかと腰を下ろすと、レットはぼやくように言った。
「おかしいかい、この僕が慈善事業みたいなことをやってるなんて」
「いや、おかしくはないけど……レットは、お金には厳しそうだったから。商談では絶対に値引かなかったりさ」
「余ってるところから取ってるだけさ。ここの子どもたちは一個三〇トゥークの揚げ団子を買うのにだって苦労をしてるのに、富豪連中は何の役にも立たない砂に四〇〇万トゥーク払うんだよ。全くもって馬鹿げてる」
 レットは頬杖を付きながら、何処か遠い所を見るような目をしていた。
「軍の機関も頑張ってはいるんだけどね……こんな所までは目が届かないんだよ」
「レットは、ここの出身なのかい?」
 レットの右頬に刻まれたクダタ家の家紋。周りの少年少女の中にも、それと同じ紋を持つ子どもが幾人かいた。もしかしたら兄弟なのかもしれないと、衙は思ったのだ。
 衙の問い掛けに、いいや、とレットは答えた。
「僕はここの出じゃないよ。でも、ここの皆は家族みたいなものさ。商人になって間もない頃だったかな。まだ旅には不慣れでね、倒れていた僕を彼らが助けてくれたんだ。それで恩返し、って訳じゃないけど、彼らの生活を知っちゃうと放ってはおけなくてさ」
「そっか。皆いい子たちみたいだもんね」
「それはタユタユのおかげさ。彼はお調子者に見えて、結構しっかりしているからね。でなきゃお金の管理は任せられないよ。援助はあくまで、不足分の補填。遊んで暮らされちゃ意味がないからね」
 そこまで言って、レットは笑顔でひらひらと手を振った。衙が彼の視線を追うと、一番初めに窓から顔を出した少女が、こちらに向かって両手を振っていた。
「レットくーん、遊ぼうよぉー!」
 少女の周りの何人かの子どもたちも、同様に手を振ってレットを呼んでいた。皆、レットと同い歳か少し下くらいのようである。
「仕方ないな、キャメルは……」
 レットは服に付いた砂埃を払いながら立ち上がった。
「ツカサお兄ちゃんもおいでよー!」
 子どもたちに呼ばれて、衙はしばし戸惑ったが、やがて苦笑しながら腰を上げた。




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