第三十六話  「朱(4) レットくん」


「四〇〇万、頂きます」
 少年は事も無げに、途方も無い代価を要求した。
「おいおい、ふんだくり過ぎだろう。幾ら何でも、それは――」
 買い手である男は、その金額に眉根を寄せた。肉付きの良い手には、全ての指に二本ずつ指輪がはめられていて、そのどれもがけばけばしい程に輝いていた。
 難色を示した男に、少年は自分の後ろに控えている使用人に声をかけた。
「ツカサ、帰り支度を。どうやらお買い求め頂けないようだから」
「ま、待て。買わぬとは言っておらんだろう」
 差し出していた品を早々に仕舞い込もうとする少年を、男は慌てて引き止めた。首や手首に着けている装飾品が、じゃらじゃらと重たそうな音をたてた。
 少年は男に向き直ると、その口もとに笑みを浮かべた。
「それでは、お代は四〇〇万トゥーク頂けるので?」
「いや、それは……三〇〇万、いや、三五〇万では」
 少年は話にならないとでも言いたそうに、緩やかに首を振った。
「ツカサ、帰り支度を」
 待て待て待て、という男の叫びに、少年は落ち着き払って言った。
「別に無理にお支払い頂くつもりはありませんし、値を下げるつもりもありません。これだけの質のものは、滅多に見つかりませんのでね。こちらとしては、四〇〇万払って頂ける方を探すだけの事……そうですね、アナムシス家の方々などは、きっとこの品の価値を認めて下さることでしょう。メテック家がお買い逃しになられたと知れば尚更、ね」
 男はふっかりとした赤い椅子に体をうずめながら、唇を震わせて唸った。そして、おもむろに卓上の鈴を手に取ったかと思うと、腹立たしそうに振った。
 カランカラン、と銀の呼び鈴の音が広い館の中に響き渡った。二度のノック音の後に、礼装に身を包んだ初老の男性が部屋の中に姿を現した。
「お呼びでしょうか、旦那様」
 男は腹立たしそうに、執事である彼に命じた。
「クダタ商人に、四〇〇万払ってやれ。全く、足下を見おってからに」
 少年はにこりと微笑むと、一度引っ込めようとした小箱を円卓の上に置いた。
「商談成立で御座いますね。“砂漠の女神”、お確かめ下さい」

*  *  *

 メテック家の敷地内から街路へと出た途端、レットは大きく伸びをした。
「売れた売れたぁ、っと」
 先程までの敬語も消え、こうして気持ちよさそうにしている顔は無邪気なただの子どもそのものである。天に向かって伸ばしたその両腕も、隣に立つ衙の頭までは届かない。
「俺は緊張しっぱなしだったよ」
 少しばかり疲れた様子で、衙は言った。煌びやかな品々で飾り立てられた空間など、人間界では立ち入ったためしがなかった。
 おまけに、商談が上手くいくかどうかで気を揉み続けていたのである。レットが「帰り支度を」などと言い出した時には、どうすれば良いのか解らず、心の中は大混乱であった。
「ツカサはオドオドしすぎなんだよ。商売は駆け引きなんだ、少しでも弱みを見せた方が負け。もっと堂々としててくれないと困るよ」
 少年から厳しい視線を向けられて、衙は弱々しく苦笑した。
「つ、次からは気を付けるよ」
「働きが悪いと給料あげられないよ。借金を早く返したいなら、もっと頑張ってね」
 詐欺まがいの手口で作られた借金も、いつの間にか衙側に全面的な非があるかのように扱われているのが恐ろしい。
 衙への忠告を終えると、レットは中央広場へと続く坂道を下り始めた。
「さて、売るべき品は今ので全部売ったことだし、お昼にしようか」
 と言っても、お昼には大分遅い時間ではある。この街の富豪たちの屋敷を巡っている内に、お昼時はとっくに過ぎ去ってしまっていた。衙の腹の虫も限界を訴えつつある。
 品を売りさばき、今は軽くなった袋を手に、衙はレットの後を追った。商談では全くと言って良いほど何の役にも立たなかったので、彼の本日の仕事は専ら荷物持ちであった。
「ねえレット。最後の品、随分と高値で売れたみたいだけど……“砂漠の女神”って何なんだい」
「ああ、アレね」
 レットはつまらなさそうな声で答えた。
「砂漠で見つかる、砂の結晶体さ。オアシスが干上がった場所で、稀に発見されるんだけどね。その形が本物の花によく似ていて美しいってことで、女神の生み出した奇跡の芸術だなんて言われて高値で取引されてる。僕に言わせりゃ、金持ちの道楽だよ」
 馬鹿げた見栄の張り合いさ、と吐き捨てるようにレットは言った。
「自分がどれだけ高価な物を持ってるかを争ってるんだ、あいつらは。水源を押さえて、貧しい者から搾り取った金を使ってね」
 憤りにも似た感情を含んだ声は、いつもの彼のものとは驚くほどかけ離れていて、衙は何と答えて良いのか解らなかった。商談では丁寧な言葉遣いを保っているが、胸中では買い手を軽蔑すらしているようだ。
 レットがそれ以上何も口にしなかったため、二人は黙って道を行くことになった。日差しはじりじりと暑く、地面が茹っているかのように空気は揺らめいている。先程まで居た館の中が、どれだけ快適な環境に保たれていたのかがよく解る。それもまた、裕福な者の証なのだろうか。衙は漠然と思った。
 坂道を数分下ると、中央広場の喧騒が耳に届くようになって来た。円形の広場の中央では、大きな銅像が太陽の光を浴びて輝いている。往路でレットから聞いた話によれば、この街の創始者の像だとか。馬上で剣を振りかざす姿が何とも勇ましい。
 そしてその像を取り囲むように、仮設テントのような露店が数多く建ち並び、市場を為していた。売られているのは野菜や果実、魚介類などの食材から日用雑貨まで多種多様。中には刀剣類を扱っている店もある。
 聞こえてくるのは、客を捕まえようと張り上げられる声と行き交う人々のざわめき。この暑い日差しの下、市場は活気と熱気に溢れていた。
 『朱』の国の首都カザヤク。この街は中央広場を基点に大きく三分できる。レットと衙の二人が商談で巡った、富裕層が暮らす北地区。中央広場付近の、中流階級の住民を主とした中央区。そして、スラムを含む南地区である。
 その貧富の差を表現しているかのような、住居の立地点の高低差。街全体を見下ろせる場所に建てられた、宮殿とも見紛うような館の数々が、そこが北地区だとひと目で教えてくれる。
 そして、この小高い場所から俯瞰すれば、南地区がいかに貧しい地区であるかが良く解った。建物や道路の殆どはまともな舗装がされておらず、概観しただけで不整合さが目に付く。崩れたままに放置され、砂礫の山と化している家すら見受けられた。色鮮やかで精緻な装飾の施された、北地区の館とは大層な違いである。
(金持ちの道楽、か……)
 北地区の広い街路から中央広場に入ると、急激に人口密度が高まる。人込みの中で逸れぬよう、衙はレットとの距離を少し狭めた。
「ツカサ、何か食べたいものはある?」
 しばらくぶりに、レットが口を開いた。背の低い彼の姿は、気を付けていないとすぐに見失ってしまいそうだ。
「食べたいものって言っても、俺は魔界の食べ物を知らないし。携帯食糧の感じでは、大差は無いみたいだったけど……あ、もしかして、食事代も借金に加算なんてことは」
 おっかなびっくり尋ねる衙に、レットは帽子を深く被り直しながら小さく一息吐き出した。
「そこまで僕も鬼じゃないよ。使用人の宿代・食事代くらいは負担してあげるさ」
 レットの言葉に、衙は胸を撫で下ろした。とりあえず、飢えて死ぬことは無さそうだ。こき使われる不安は残っているけれども。
 人波の中を幾らか歩き進み、一軒の屋台の前でレットは立ち止まった。衙も彼に倣って足を止めた。どうやら、テイクアウト専用の揚げ物屋のようである。油のはねる音と香ばしい香りが食欲を刺激する。
 品書きをざっと見たレットは、調理をしている青年に向かって注文した。
「揚げ団子を……そうだな、四〇。それと、野菜の混ぜ揚げも四〇」
「団子と野菜を四〇ずつね、毎度っ」
 青年のはきはきとした明るい声が答えた。出来立ての揚げ物を、小さなスコップで手際良く袋に詰めてゆく。
「四〇ずつとは、随分な量じゃないか。パーティーでもやるのかい、ボウズ」
「まあ似たようなものだね。幾ら?」
「合計で三二〇〇トゥークだよ、はいお待ちどお! 大袋二つだよ、持てるかい?」
「ああ、後ろの『玄』の彼に渡してくれよ」
 受け取って、とレットに言われて、衙は青年が手渡した紙袋を腕に抱えた。二つの袋は、視界が殆ど塞がれてしまう程の大きさである。衙はバランスを崩しそうになるのを何とか堪えた。
 よろめいている衙の隣でレットは会計を済ませると、悠然と歩き始めた。辛うじてそれを認識した衙は、慌てて、しかし両腕の袋を落とさないよう慎重に、少年の後を追った。
「レット、こんなに買ってどうするんだい。まさか、レットって見かけによらずかなりの大食い……」
 そんな訳ないだろ、とレットは冷ややかに衙を一瞥した。
「とりあえず僕に付いて来て。それを運ぶのも君の仕事の内だよ、ツカサ。落としたりしたら給料天引きね」
 衙は広場に溢れ返る通行人とぶつかりながら、その両腕に今まで以上に神経を集中させた。




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