翌日の日中は、巨大な岩陰にての停留となった。 『朱』の首都カザヤクは、この国の北東に位置する港町らしい。レットは内陸部のオアシス都市から品を運んでいるそうで、このルートを渡る時はいつもこの岩陰を泊まり場のひとつにしているという。 その地点に到着したのは、丁度朝日が昇り切った頃だった。馬車を止めテントを張り、食事を済ませた後で、レットは早々に床に就いた。何だかんだで一晩中レットに付き合わされていた衙も、体力の限界からか倒れるように眠り込んだ。 深い深い眠りの中、衙は夢を見た。 夢の場所は自分の家の食卓で、皆で夕飯を食べているところだった。母の姿も、栞と澪の姿もあった。董士に真人、すすきも一緒だった。 楽しい食事の最中に、急に玄関のチャイムが鳴る。入って来たのはどういう訳かレットだった。 「ツカサ、早くしろよ。今日は期末試験だろ」 その途端に、衙はしまったと背筋を凍らせた。夕食だと思っていたのは朝食だったのだ。腕時計を見ると、予鈴まで五分しかない――何たる事! 訳の解らない夢は、そこで終わった。 「ちょっとツカサ、いつまで寝てるつもり? いい加減に起きてくれよ」 レットの声に、衙は反射的に飛び起きた。 「半日丸々寝るだなんて、結構図々しいね。怠惰の極みだ。そろそろ出発の準備をするんだから、さっさと起きる!」 「あ、ご、ごめん」 まだ覚めきっていない意識のままで、衙は包まっていた厚手の布から抜け出た。眠る時は気にならなかったが、地面が固かったためか、体の節々が痛んでいた。 「ほら、ツカサはテントを畳む! ぐずぐずしてると、明朝までにカザヤクに着かないよ!」 レットに命じられるまま、衙は作業に取り掛かった。テント内の荷物を片付けていると、寝ぼけた頭が次第にはっきりとして来た。 (そうか、魔界に来たんだよな……) 夢で見たような食卓を、取り戻すために。 (しかしレットまで出てきたのは何なんだろうな。彼に怯えているから、あんな登場の仕方だったのかな) テントの入り口から外を見ると、レットの姿が目に入る。彼は荷馬車の方の準備をしているようだ。機敏に動き回り、慣れた手つきで様々な作業を終えていく。 (それにしても、随分と寝てたんだな、俺。殆ど丸一日寝てなかったんだから当然といえば当然だけど) そこまで考えたところで、衙の中途半端だった覚醒は瞬間的に完全になった。頭からさあっと血の気が引く。 自分の無防備さへの恐怖だった。レットはまだ、気が置けない相手ではなかったのだ。 (俺、あんなに熟睡して、レットがもし良からぬ考えでも持っていたら) あっさりと殺されていたに違いない。若しくは自由を封じられていたか。幾ら疲弊していたとは言え、あまりにも不注意が過ぎる行為だった。 でも、と衙は思う。 (隙だらけだったのにも関わらず無事だったって事は、レットは敵じゃないと考えてもいいのかな……) ちらりとレットの方をもう一度見やると、目が合った。 「何サボってるの、ツカサ! 手を止めない!」 少年の大きな怒声が飛んできた。衙は慌てて、寝具を纏め始めた。 「ほら、見えてきたよ。あれが首都カザヤクだ」 レットが遥か前方を指差した。衙がその先に目を凝らすと、黄色い砂の大地の中、明らかに色の違う区域が判った。そして、その後背に広がるのは、朝日に煌く水平線。魔界に来て初めて目にする海である。 「あとどれくらいで着きそう?」 「一時間ってところかな。出発は少し遅れたけど、予定通りの到着になりそうで良かったよ。ねえ、ツカサ?」 皮肉めいた口調で、レットが言う。 「だから、それは悪かったって。仕方ないだろ、初めてだったんだから」 前日の出発が遅れたのは、衙の顔に偽の家紋を入れていたためだった。レットに渡された見本図を衙は幾度となく描き誤り、完成したのは結局、陽が暮れてからだったのだ。 無論、レットに直接描いて貰う事も出来たし、その案はレット自ら申し出ていた。が、これにもまた人件費が加算されるとあっては、衙としては是が非でも自分で描かざるを得なかったのだ。 「でもまあ、よく似合ってるよ、そのハリング家の家紋。今日から君はハリングの姓を名乗らなきゃいけないからね、間違えないように」 衙の左顎のラインに沿うようにして描かれた、蛇に似た波線。それが、少年の選んだ衙用の家紋だった。レットによれば、“ハリング”は極々一般的な『玄』の血筋だという話である。 しかし、『朱』の国内での『玄』魔族は、それだけで目立ってしまうらしい。港町で首都であるという事で、他の都市よりは多くの異『色』の魔族が混在しているものの、やはり自国の民に比べれば圧倒的少数なのだという。 「本当に目立たないでいようと思ったら、『朱』魔族に偽装するのが一番なんだけどねぇ。髪と瞳の色を変えるのは色々と大変だし、染料や薬品も高価だし。生憎と持ち合わせもないしね」 レットの言葉に、衙の心情は不安半分安堵半分といったところだった。正体がバレやすくなるという点が不安、借金がかさまずに済んだという点が安堵である。 「まあ、すぐに王都に向かう予定だし、軍の目にさえ注意してれば気付かれないと思うけど。……それにしても残念だな、儲けそこなった」 悔しそうなレットの呟きを耳にして、衙の安堵は少しばかり大きくなった。思わず、ほっと胸を撫で下ろす。 「そうそう、ツカサ。そのペイントは濡れても平気だけど、高温に晒されると溶けちゃうからね、気を付けて。家紋の偽称は思いっ切り違法、第一級の犯罪だから、もし知られればすぐに捕まるよ。そうなったら僕は一目散に逃げるから、自分で何とかしてね」 「に、逃げるって。それは酷くない?」 「だってそれはツカサのミスだろ。そのせいで僕まで捕まったら堪らないよ」 当然とばかりに、レットは肩を竦めてみせた。鳳馬がまるで同意を示すかの如く鳴き声を上げたが、衙の耳には笑っているようにも聞こえた。この馬、飼い主に似たのだろうか。 二人が話をしている間にも、街の概観は徐々にはっきりとして来ていた。防砂林で囲まれたその内側には直方体の家々が立ち並び、朝の光の中で白く光って見えた。日干し煉瓦を積み上げて作られた住居は装飾がまるで無く、屋根は平らだった。強い陽射しを避けるためなのだろう、壁に空けられた窓は小さく、ここからだと黒い点にしか見えない。 港と思われる区域には、朧気ながら大きな帆船の影が確認できた。巨人の指のように飛び出ては引っ込んでいる船着場には、いくつもの倉庫がそびえ立っているのが解る。 進路から見て一番遠い地区――街の北部に当たるのだろうか――では、住居とは呼び難い豪勢な建物が、煌びやかに輝いていた。その大きさだけでも、平均的な住居を数十軒集めたくらいはあろうかと思われる。勿論その形も味気ない直方体などではなく、宮殿と呼ぶに相応しい様相だ。簡素な住宅街とは打って変わって、金や朱に彩られた数々の屋敷は、少しばかり小高い丘からまるで街を見下ろしているようだ。 街の上空には、まばらに煙が立ち昇っている。朝食の支度だろうか、と衙は何とはなしに思った。 「レット、商人の資格試験は明日だったよね。今日は一日どうするの」 「まずは、宿に入って仮眠。午後からは荷を売りさばく。ツカサも手伝うんだからね、昨日みたいにだらだらと寝てたら叩き起こすよ」 「試験の対策とか、準備とかは必要ないのかい」 「ないね。必要な事は全部頭に入ってるよ。それよりも実績点を稼ぐ方が有意義さ」 相変わらずの余裕っぷり、そして自信である。しかしこの時の衙はまだ、彼の自信が実力に裏打ちされたものである事を知らなかった。 宿の名は“白波亭”と言った。港町によく似合う名前である。街路に飛び出るように吊り下げられた看板は、海の波をそのまま切り取ったような形で、白と青の対比が美しい。 「いらっしゃい! おや、レットじゃないか。しばらくだな」 カラン、と鈴の音の鳴る扉をくぐった途端に、主人と思われる人物の大きな声が響き渡る。白波亭の入ってすぐのフロアは酒場になっていて、小さな円卓と椅子とが幾つも並べられている。が、朝も早いこの時間、流石に客の姿は無かった。 主人の挨拶に、レットは軽く手を上げて返すと、カウンター越しに話しかける。背が低いため、目が辛うじてカウンターより上に出る程度であるが、本人も主人も全く意に介する様子はない。このやりとりにはもう、お互い慣れてしまっていた。 「おやじさん、また世話になるよ。部屋は空いてる?」 「ああ、お前さんならいつでも歓迎さ。その代わり、いつも通り……」 「解ってるさ。良い出来のを一樽、今すぐ渡すよ」 にやりと笑って見せたレットの後ろで、扉に付けられた鈴がまた鳴った。入って来たのは、大きな酒樽だった。ふらふらと危なげな動きで、酒樽は宙を彷徨っていた。 「ご苦労様。とりあえず一回下ろしていいよ」 レットの指示で、酒樽はどすんと腰を下ろした。その陰に隠れていた人物の姿が、ようやく明らかになる。 「レット、これ重過ぎるよ……」 疲労困憊といった様子の衙が、酒樽に寄りかかって荒い息を吐いていた。 「文句言わない! 給料はもう払ったことになってるんだから、しっかり働いてくれないと」 レットにどやされている黒髪の少年の姿に、宿の主人は赤い口髭をなでた。驚いた時の彼の癖である。 「おや、『玄』の者だな。レットが誰かを雇うとは珍しい」 「まあ、成り行き上ね。商品を飲み食いした後で金が無いなんて言うものだから、仕方なく体で払わせてあげてるんだ」 「そいつはいけねえな、『玄』の坊主。しっかり働いて、早く返せよ」 確かに、レットの説明は間違ってはいない。間違っていないが、何かがおかしい。ははは、と笑い合う主人とレットに、衙は益々ぐったりとするのだった。 「そういう訳だからさ、おやじさん。今回は二部屋お願いするよ」 「相解った! 坊主、名前は?」 衙は顔を上げると、左顎に描かれた紋を見せるようにして、おずおずと答えた。 「ツカサ・ハリング、です……」 |