第三十五話  「偽りの旅人たち」


 太陽が沈み、月が顔を出した。上空は満天の星空。荷馬車は止まることなく、砂漠を渡り続けていた。
 魔界に来て初めての夜に、衙はいささか興奮気味だった。人間界と全く変わらぬ夜空が、魔界にも広がっていた。いや、人間界よりも星の数は多いようにすら感じられるし、月は眩しいほどに大きい。
「すごいものだね、レット。月も星も、あんなに近くに見える」
 車中から首を出して、衙は天を見上げていた。
「すごいの? 僕には、いつもと同じ空にしか見えないけど」
 さして興味もなさそうに、レットは答えた。
「それより、あんまり身を乗り出さない方がいいよ。落ちても僕は知らないからね」
 ふわあ、と大きな欠伸をひとつ。車中の衙とは違い、彼はオアシスを発ってからずっと、馬上で手綱を握っているのである。
「レット、夜の間くらいは休まないのかい。眠ったりとか」
「馬鹿だな、ツカサ。砂漠の移動は夜間に決まっているじゃないか。この灼熱の太陽が照り付ける土地で昼間の旅だなんて、愚者のすることだよ。オアシスを発ったのも、陽が傾いてからだったろう? 眠るのは日中だよ」
「でも、随分眠そうだけど……」
「それは君のせいだよ。ツカサに魔界の説明やら何やらしてたから、僕は充分な睡眠時間を取れなかったんじゃないか。それくらい自覚してよ。そうそう、砂漠の夜は冷えるからね、温かい恰好をしておきなよ。折角の従業員に風邪なんか引かれちゃ堪らないから」
 相変わらずの歯に衣着せぬ物言いも、衙の耳に大分慣れてきた。多少の口の悪さに目をつぶれば、言いたい事をハッキリ言う分、付き合う方としては楽だった。
 レットの話によれば、それでもこの地域はまだ旅がしやすいのだそうだ。もっと内陸部へ行けば昼夜の温度差は更に大きくなり、夜間の移動も困難になるらしい。そういう地域では、日の出・日の入りの前後だけが移動に当てる事の出来る僅かな時間なのだという。
「でも俺、これ以上羽織る物なんて持ってないんだけど」
「何なら貸すよ。防寒コート、一晩五〇〇トゥーク。例によって給料前貸しね」
「……寒さに耐えられなくなったら、お願いするよ」
 付き合いの楽さも、金銭面に関してだけは除く必要があるようだ。レットに言われるがまま行動していたら、借金はあっと言う間に膨らんでしまうのではなかろうか。
 上手く言いくるめられないよう、常に身構えておくべきかもしれない。衙は口を固く結んだ。それに、先程の会話の中でレットが示した選択肢の二番――『僕はツカサを助けるフリをしているだけで、本当は軍に引き渡すつもりでいる』にしても、本当に不正解である保証は何処にも無いのだ。これが真の正解だったとしたら、実に恐ろしい事態である。
 身を引き締めるように、衙は自分のマントの隙間をきっちりと合わせた。
「レット、今向かっている『朱』の国の首都っていうのは、どんな所?」
「どんな所、って言われてもねえ。街の名前はカザヤク。首都だからそれなりには大きい街だよ。でも、『朱』は他国と比べて後進だからね。治安もあまり良いとは言えない。昼はまだ安全だけど、夜は一人で出歩かない方が賢明だね。素人が裏路地なんて迷い込もうものなら、明日の朝日は拝めないよ」
 随分物騒な街なんだな、と衙が考えていたところへ、レットの珍しく慌てた声が飛んできた。
「ああ、いけない。忘れるところだった」
「何を?」
「顔のペイントだよ。ツカサは人間だろ、顔に家紋が無い。今はまだいいけど、街に入る前には偽装を済ませておかなくちゃ。全ての魔族が人間を敵視している訳じゃないと言っても、街には多種多様な考えが溢れているからね。もめごとは前もって避けておくべきだよ」
「家紋を入れるだけで、疑われずに済むの?」
「意外とバレないものだよ。人間と魔族とに外見上の差異は殆ど無いし、魔力の有無に注意を払う人なんて殆どいないし。ツカサの髪は黒いから、『玄』魔族ってことにすれば通ると思う。選ぶ家紋は、なるべくありふれた奴がいいよ。上流階級すぎたり、珍しすぎたりすると注目されるから」
 なるほど、と衙は頷いた。日本で例えれば、鈴木や佐藤といった姓を偽名に用いる、といった具合なのだろう。
「と言っても、俺は魔族の家紋なんて知らないし……家紋を描く道具だって」
「心配するなよ、ツカサ。貸してやるからさ」
 瞬間、確信に近い嫌な予感が、衙の胸を襲った。
「それって、もしかして……」
「勿論、給料前貸しだよ。道具のレンタル代と家紋選択の教授料で、二三〇〇トゥークになります、お客様」
 レットの上機嫌な声が、砂漠の夜空に響いた。この出費だけは避けることも出来ず、衙はがくりと項垂れた。
「まあ安心しなよ。お金さえ貰えれば、仕事に手は抜かないよ。間違ってもリクゼン家やミューンフェルト家なんて家紋は選ばないからさ。ああ、ちなみにリクゼンは現『玄』魔将で、ミューンフェルトは先代『玄』魔将ね」
 借金の増加を諦めた衙は、四角い箱のような車内の壁に背を預け、大きくため息をついた。
(魔将、かぁ……。栞さんと真人を助けようとしている以上、いずれはもう一度、相見えなけりゃいけないんだろうな。あの圧倒的な魔力に、俺は勝てるんだろうか)
 『朱』の将、シーイン・ロンと人間界で戦った時は、一撃たりとも入れる事が出来なかった。衙の記憶にあるのは、ただ一方的にやられているだけの自分の姿。そして、対峙するだけで身も竦むような、シーインの魔力だけである。
 魔力、という言葉を思い浮かべたところで、衙の頭に疑問が過った。
(そう言えば、レットからは魔力を感じない……?)
 初めて少年と出会った時、彼に背中を突付かれるまで、衙はその存在に気付かなかった。レットからは、魔力が少しも感じられなかったのだ。そしてそれは、今も同じだった。と言うより、少年と出会ってから今まで一度も魔力を感じさせられた覚えが無い。
 魔界の生物である以上、どんなに弱くても魔力はその身に帯びているはずであるし、それを退魔師である自分が見逃す筈は無かった。それが今の今まで全く意識させられなかったというのは、どうにも腑に落ちない。
(考えられる可能性としては、レットの魔力コントロールが卓越しているというケース……)
 確かに、以前戦ったブラント・ファルブリーという魔族は、見事にそれをやってのけた。しかし彼は相当の手練であったし、全ての魔族にそれが可能であるとは思えない。自分以外の退魔師、董士やすすきや真人も、ブラントの魔力制御には驚いていた様子だったのだから。
 仮にレットが完全な魔力制御を身に着けているとすれば、それこそ彼は何者なのかという話になる。選択肢の二番の変化形で、レット本人が軍の手先だとでもいうのだろうか。
(もしくは、レットが魔界の住人では無いケース……?)
 衙の脳裏に、選択肢の三番――『僕は実は人間で、ツカサたちと目的を共有している』が蘇る。しかしそれならば、何故同じ人間である衙にまでその正体を隠すのか。そんな事をする必要性と、その意味が解らない。
 率直に訊いてみようかとも思ったが、衙はやはり何処か怖い気がした。
 レットの正体が味方ならば良い。だがもし、敵だった場合には? こんな右も左も解らない砂漠の真ん中で、彼が敵だと判明したらどうすれば良い?
「ツカサ、どうしたの、黙っちゃってさ」
 しばらく無言だった衙を妙に思ったのか、レットが声をかけた。
「もしかして寝ちゃった? だとしたら最悪だよねえ、僕はこうして独り頑張ってるのにさァ。そりゃあ、衙に馬の扱いが務まるとは思わないし、一瞬で落馬して醜態を晒すだろうってのは解るけど。薄情にも程があるって言うかさ、どんな神経してるのか見てみたいよ」
 相手の返事が無いのを良い事に、レットは好き勝手に喋りまくる。
「大体さ、礼儀を知らないよ、礼儀を。魔族とか人間とか言う以前の問題だね。生命を持つ一個体としての存在意義を疑わざるを得ないよ。犬や猫の方が、もう少しは礼儀って言うものを知っているんじゃないの。そういう意味では、今ツカサがしているのは畜生にも劣る……」
「起きてる、起きてるよ! 起きてます!」
 留まる事を知らないレットの罵詈雑言に、衙は堪え切れなくなって叫んだ。
「何だ、起きてたのか。良かったね、君の品位は保たれたよ」
 レットは衙を一瞥すると、にこりと笑った。月光に照らされた笑顔は、実に爽やかだった。
 全身に疲労を覚えながら、レットが何者であるという疑問はとりあえず保留にしておこう、と衙は思った。




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