第三十四話  「朱(2) 人はこうして騙される」


「――は?」
 衙がそう言ってから、さらに数秒の間が空いた。レットの言っている意味が、彼にはさっぱり解らなかった。
「雇われるって、俺が、君に?」
「そう」
 レットは平然と頷く。
「でも君は、王都への許可証を持っていないって言ったじゃないか。それでどうして、王都へ行けるんだよ」
 解ってないなァ、とレットは鼻で笑った。彼にはこの種の笑みやため息が本当に多いと、衙は今更ながらに理解した。いつだって見下ろす位置にいるのだ、この少年は。
(俺はそこまで気にする方じゃないけど、真人や澪ちゃんにはカチンと来るタイプかもな。すすきさんや董士なら、軽く受け流せるのかも。栞さんだったら……)
 ぼんやりとそんな事を考えていた衙は、レットの声に引き戻された。
「ツカサ、ちゃんと聞いてる? 折角僕が話してるんだからさ、一言一句聞き逃さないように意識してくれなくちゃ。大体、そういう態度が相手に失礼だって言ってるんだよ。ああ、もう、『失礼』って君に言うのはこれで何回目かな、全く」
「ごめん、悪かったよ。それで、許可証を持てる三種類目の魔族っていうのは一体?」
 衙の言葉から、彼が自分の話した内容を把握していない事が察せたので、レットは大きな大きなため息を漏らした。
「……やっぱり聞いてなかったね。今度こんな事があったら、もう話してあげないから、しっかり聞いててよ?」
「うん、解った。だからもう一回、頼むよ」
 苦笑しながら言う衙を見て、レットは頭に手を当てた。まるで頭痛でも感じているかのように、その表情が難しくなる。
「どうも調子狂うな、ツカサといると。ツカサってさ、僕にここまでけなされて、腹が立ったりしないの? それとも、人間って皆そうなの?」
「いや、俺の知り合いの中には、君と反発しそうな人もいるけど……」
「だったら何、やっぱりツカサが鈍感なだけ?」
「ど、鈍感って……」
「だってそうじゃない? 普通は文句言うでしょ、僕の態度にさ。外見上の年齢は、ツカサの方が上な訳だし。年下に好き勝手言われたら、大抵の人は黙ってなんていられないと思うけど。まあ、口論になっても負けない自信はあるけどね」
 確かにこの少年、口は相当に達者そうであるし、生半な者では相手は務まるまい。その点は、彼と会って間も無い衙でも頷けた。
「どうなの? ツカサって、何でも許せちゃうタイプ?」
「まさか。何でも許せるって訳じゃないよ。でも、些細な事で腹を立てるのも大変だしね」
 それに衙は何故かこの少年に対しては、嫌悪や憎しみといった感情を抱けない気がしていた。言っている内容は明らかに人の神経を逆撫でするようなもので、生意気と受け取られて当然なのであるが。
 強気で高圧的な態度は何処か、必死で背伸びをしているような、虚勢を張っているような――。
「でもなァ……ちょっと頼り無い感じがするんだよな……役に立たないと困るし……」
 ぽそりとレットが零した言葉は独り言という感じだったが、衙の耳にも辛うじて届いた。
「役って、何の?」
「え? ああ、商人見習いとしての役だよ。きっちり働いてくれないと雇う意味がないからね」
 レットはにこりと笑って返したが、一瞬表情が揺らいだようにも見えた。気のせいだったのかもしれないと思えるほど僅かな揺らぎだったのだが、しかし衙は確かな違和感をそこに感じ取っていた。
「そうそう、話が途中だったね。つまり、許可証を持てる三種類目の魔族っていうのは、商人だってことさ」
 レットが話題を戻したため、衙の覚えた違和感は彼の心の奥へと引っ込んでしまった。それ程までの小さなものだったのだ。
「商人、って……でも君は」
「そう、何度も言ってる通り、僕は許可証を持っていない。まだ、ね」
「まだ?」
 含むところの在る言い方に、衙は聞き直した。
「許可証を貰えるのは、ただの商人じゃないんだ。“国選商人一級”――その資格を得た者だけが、晴れて王都で商売が出来るってわけ。勿論、資格を得た商人の被雇用者(・・・・)()、ね」
「それって、つまり……」
「そう、これから国選商人一級の資格を取る僕に雇われさえすれば、君は王都へ行けるってことだよ、ツカサ」
 それじゃ早速、この契約書にサインを。そう言うが早いか、レットは紙とペンを取り出した。一体何処に隠し持っていたのか。驚異の早業である。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。いきなりそんなこと言われたって、はいそうですかとサイン出来るわけないだろう? 第一この状況じゃ、君の話が本当かどうかだって解らないのに」
 慌てて身を引いた衙に、レットは冷ややかな視線を向けた。
「ああ、そう、まだ疑ってるんだ僕のこと。じゃあサインは後でもいいよ。とりあえず仮契約ってことで、僕に付いて来るといい。すぐに僕が正しいってことが解るだろうから」
 この自信、どうやら嘘を付いている訳では無さそうである。
「で、でも、君がその資格を得られるっていう保証は何処にも……それに、言っただろ、猶予は十日しか無いって」
「その点についてはご心配なく。資格試験は三日後だから。合否は翌日には発表、許可証も同時にその場で発行、おまけに試験会場は転移装置のある首都……問題ないでしょ?」
 余裕の笑みでそう言って、レットはもうひとつ付け足した。
「そうそう、合否についても心配しなくていいよ。僕が落ちる訳ないからさ」
 相変わらずの物凄い自信が、この台詞に一等多く含まれていた。
「付いて来なよ、僕が王都まで案内してあげる。これは決定事項だよ? 他の誰でもない、この僕の決定だ」
 ずいと詰め寄るレットに、衙はますます身を引きながら、やっとの事で答えた。
「や、やっぱり、遠慮しておくよ。他の仲間とも合流しなくちゃいけないし」
 と、勿論これは言い訳である。本音はやはり、この少年が疑わしい。このまま付いて行けばどうなるのか、計り知れない不安がある。
 衙の回答にレットはしばらく無言であったが、不意についと立ち上がると、木に繋いである角の生えた馬へと歩み寄った。その美しい深紅の鬣を、よしよしと撫でる。
 諦めてくれたのだろうか、と衙が思ったその時、レットは口を開いた。
「キレイだろ、この馬。“鳳馬(ほうば)”って言うんだ。“その脚の疾きこと、天を駆けるが如く・その四肢の強きこと、死を知らざるが如し。”『朱』の国にだけ生息する、陸の王者さ」
 馬から衙へと向けたレットの赤茶色の瞳が、彼を射抜いた。
「ここからこの国の首都まで、鳳馬を使っても二日。周りは一面砂漠地帯。歩いて砂漠を越えるかい、ツカサ?」
 衙は開いた口が塞がらなかった。全ては計算ずくの提案だったのである。
 楽しくて仕方が無いように、レットは口元をほころばせた。
「言ったはずだよ、ツカサ。これは決定事項だって。まだ断るって言うのなら、そうだな、最終手段。さっき君が食べた干し肉が七〇〇トゥーク、口にした飲料水が二〇〇〇トゥーク、応対手数料&情報量が三二〇〇トゥーク……占めて合計、五九〇〇トゥーク、払えるの?」
 “トゥーク”などという単語に聞き覚えはない衙だったが、嫌でも理解出来た。それが魔界の通貨単位を表すものだということは。
「ちょ、ちょっと待てよ! お金取るわけ? 君が勧めたから、俺は……」
「誰も無料(タダ)なんて言ってないよ?」
「第一、水なんてお金取る方がおかしいだろ、ここはオアシスなんだから! 泉がすぐそこにあるじゃないか!」
 レットは哀しそうな表情になると、深く一息吐き出した。
「砂漠の水は高いんだよ、ツカサ……。最近は都市部にまで砂漠化が進行していてね。オアシスも各地で干上がりつつある。生命線である水の値段は急騰、一層貴重な資源になりつつあるんだ。ほら、見てごらんよ。このオアシスだって、枯れ始めているんだ」
 衙が周囲に目を凝らすと、今までは気付かなかったが確かにレットの言う通りだった。草木の葉はところどころ色が変わり、活力を失いつつあるのがよく解った。中には完全に干からび、痩せ細ってしまっているものすらある。泉の水面は、もとあったのであろうと思われるラインからはかなり下降しており、水量の減少を伝えている。
「そんな大切な水を、まさかお金も払わずに飲めるはずないでしょ?」
 哀しげな顔から一転、にこやかにレットは言った。
「付いて来るよね、ツカサ? ああ、君の飲み食いした分は給与から差し引いておくから、しばらくは無給ね」
 言葉を失い、衙の口は池の鯉よろしくぱくぱくと動いた。彼の代わりに物言うかの如く、鳳馬が甲高く嘶いた。
 停止しかかった衙の思考回路は、ある文章を弾き出していた。

 ――少年の強気で高圧的な態度が背伸びで虚勢だなんて、考えたのは何処のどいつだ。




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