まあどうぞ、と干し肉を手渡すと、少年は衙の隣に腰を下ろした。幹の太い巨木は、二人分の背を預けてもまだ余裕があった。
 衙の辿り着いた岸の丁度対岸、そこにレットのキャンプがあった。円錐形の小型テントに、一台の小さな荷馬車。そして、水際の木に繋がれた一頭の動物。その動物は衙の目には馬に見えたが、角が生えているという点で、人間界の馬とは異を為していた。それともう一点、その体の燃えるような赤い色が特異だった。
 レットに導かれるままに付いて来たものの、果たしてこの少年を本当に信用してよいものかどうか。衙は疑いを捨てきれずにいた。しかし、あまりにも強引な少年の誘いは、どうにも断ることができなかったのだった。それに、もし魔界の情報が入手できるのならば、それは願っても無いことだった。
「ひとつ確認してもいいかな」
 衙の声に、レットは口にしていた干し肉を噛み千切ると、視線を向けた。
「ここは本当に魔界なんだよね? 随分と人間界に似ているものだから……」
 安心しなよ、とレットは答えた。
「正真正銘、魔界だよ。ここは『朱』の国、ガイナ砂漠」
 レットは腰に付けている革製の水入れの蓋を開けると、ぐいと飲んだ。手で拭った口の隣、右頬には赤い紋様が刻まれている。逆三角形の辺が、二箇所の頂点を飛び出して延びているような形だ。恐らくはこれが、クダタ家の家紋なのであろう。
「ま、似てて当然だよ。もともとは繋がってたんだからさ、魔界(こっち)人間界(そっち)は」
「繋がってた?」
「あれ、知らないの? 八千年くらい前までは、ひとつだったんだよ。徐々に次元座標が離れていってるから、“門”を通らないと行き来できなくなっちゃったけどね」
 飲む? そう訊きながらレットが渡した水入れを、衙は躊躇いがちに受け取った。が、口へは運ばない。
 彼がまだ干し肉にも口を付けていないのを見て取って、レットは棘のある口調で言った。
「何、もしかして僕のこと疑ってるわけ? 毒でも盛ってるんじゃないかって? いい加減にしてよ、全く。ツカサを殺すつもりなら、出会った時に声なんかかけないよ。背後から一撃でグサリ、ハイ終わり……違う?」
「いや、うん、その通り、だね……」
「第一、水は、僕が先に口にしてるのを渡したんだよ。干し肉だって、もともと一枚だったのをちぎって渡したんじゃないか。失礼にも程があるって、さっきも言ったばかりでしょ? 警戒するのも解るけどさ、毒入りの食べ物を常日頃持ち歩いてる奴がそうそういると思う? ツカサに渡したものは、どっちも君の目の前で取り出しただろ。毒を盛る素振りなんてあった?」
「な、なかった、うん、なかった」
 飲みます、飲めば良いのですね。衙が心の中でそう呟いたのかどうかは定かではないが、慌てて彼は、レットから渡された水で喉を潤わせた。
 ただ、衙は気付かなかった。その瞬間、レットの口元が意味ありげにほころんだ事には。
「ようやく友好的になってきたね。それじゃ、次は僕から質問。ツカサってさ、最近連れて来られた『白』の将候補……魔族と人間のハーフだったっけ? を、助けに来たんでしょ?」
 いきなり核心を突かれて、衙は口にしていた水を逆流させかけた。
「魔界じゃ結構な噂になってるよ。人間が二人、王都に連れて来られた、って。そんな騒ぎの中での、追加来訪者だ。“門”が開く前に生じる空間の歪みも、偶発的に出来た物にしては漸次性が低かったしね。“聖禍石”も無しにどんな手を使ったのかは知らないけど、先の二人を追うように故意にやって来た人間なんて……その目的は、明白だろ?」
「じゃあ、レットは、俺が湖に落ちて来るところから見てたんだ? だから、いきなり俺のこと『人間だろ』って」
「まあね。ここで休んでたら、急に“門”が開く気配がしてさ。見上げた所からツカサが降って来た。良かったね、水に落ちて。この辺の土、乾燥してて固いからさ。打ち所が悪かったら死んでたもの」
 死、という単語に表情を硬くしながら、衙は干し肉を口に放り込んだ。思ったよりも淡白な味で、程よい塩気が口に広がる。
 と、またその時、レットの口元に微笑。眼には怪しげな光。しかしそのどちらにも、またしても衙は気付かなかった。
「レット、さっき君は『王都』と言ったよね。二人の人間はそこに連れて行かれたって。どうすればそこに行ける? それ以前に、ここは何処なんだ」
「言ったでしょ。『朱』の国、ガイナ砂漠」
「だから、ここと王都の位置関係を教えて欲しいんだよ」
 衙の質問に、レットは目をまんまるに見開いた。それは、今まで見せた中で最も子どもらしい表情だった。
「魔界のこと、何も知らないで来たって言うの? もしかしなくても、ツカサって……馬鹿?」
「ば、馬鹿って……。仕方ないだろ、人間界には魔界の情報なんて殆ど無かったんだから」
 やれやれ、とレットは肩を竦めた。
「しょうがないな、僕が教えてあげるよ。まず、今現在の魔界は大別すると四地域、即ち四つの国に分かれてる。これは古くからその地域に住む者の魔力の『色』で分けられていて、『青』、『朱』、『玄』、『白』の四色だ。魔族の『色』っていうのはそもそも、その血のルーツがどの地域に属しているか、言わば出身国の『色』だね。これら四国を統括して治めているのが王家ゼクラルゼーレ。その始祖は、四四二八年前にこの世に生を受けたゲフェスディア・ゼクラルゼーレ、つまりこれがゼクラルゼーレT世。彼は各国の自治権を残しつつ、それまで多発していた国同士の争いや紛争を取り締まり、魔界を平らげたんだ。これが皇暦元年のこと。それまで各国でバラバラだった暦の数え方も、この機に統一されたってわけ。でも、そう簡単に全てが上手くいった訳じゃなくてね。翌年、つまり皇暦二年には『玄』と『白』との国境線で早くも紛争が生じてる。最初に砲火が上がった地名から、これをミネ・ハーデン紛争と……」
「ちょっと待った!」
 レットの目の前に広げられた衙の掌が、話を制した。
「何だよ、これから面白くなるところなのにさ。『玄』の名家ミューンフェルトの活躍が……」
「いや、だから、魔界の歴史を聞いてる暇は無いんだ。とりあえず、ここが何処なのかって事と、王都が何処なのかって事を教えてもらえないかな」
「全く、つまんないなァ。張り合いが無いって言うか」
 レットは腰から短刀を抜き放った。きらりと抜き身の刃が光る。
 衙は一瞬ぎょっとしたが、どうやらそれは彼を傷付けるためではなく、地面に図を描くただったらしい。レットは魔界の地図を描きながら、衙に解説し始めた。
「まず、今がここ、『朱』の国。国と言うよりはひとつの大陸かな。海を挟んで北東に島国の『青』、同じく海を挟んで北西に『玄』。『玄』の北東、ハーデン山脈の向こう側に広がるのが『白』。四国の中で陸続きになってるのは『玄』と『白』だけでね。さっき話したように、この山脈付近が一番紛争の多い地域なんだ」
 頷きながら、衙はレットの描く地図を見つめる。レットの短刀は魔界の概観を一通り描き終わり、再び『朱』の国まで戻って来た。
「僕らが今いるのが、『朱』の国のガイナ砂漠。『朱』は国土の八割が砂漠でね。街はオアシスか海岸線に点在してるだけなんだ。ここは無人のオアシス。あまり人には知られていない場所だからね……僕くらいだよ、ここを交易路に用いてる商人は。おかげで商売繁盛さ」
「で、王都は何処?」
「四国に囲まれる形になってる海があるだろ。これがアグニス海。この海の真ん中に、王都はあるよ」
「海の真ん中か……海路を探さないといけないのか」
「海路? 無理だよ」
 レットの言葉が、衙の呟きをさらりと斬って捨てた。
「無理って、どうして」
「だって、王都シンヴァーナリエスは別名、“天上の都”――空に浮いてるんだ」

*  *  *

 空。それは鳥たちの世界。雲の世界、太陽の世界、月と星の世界。
 そこに、都が浮いている?
「それって、どういう……」
 考えるよりも早く、そんな問いかけを衙の口は発していた。レットはあっさりと答えた。
「そのままの意味だよ。シンヴァーナリエスは空中に存在する浮遊都市なんだ。雲までとはいかないけど、ちょっとした丘陵くらいの高度はあるね」
「じゃあ、どうやって……あ、そうか、“魔族”は飛べるんだ」
 衙が思い付いた意見はしかし、即座にレットに否定された。
「ハズレ。いくら魔族でも、そんな高度までは無理。第一、飛んで海を渡るなんて、まず魔力が持たないし。竜でも従えてれば別だけど」
「竜?」
「魔界で最も気高い生き物だよ。言葉を解し、聡明で剛健、天空の覇者。それだけに、己が認めた者にしか服従しない。人前に姿を現すことすら稀なんだ。でも、仮に竜の力を得たとしても、行けるのは王都の外壁までかな。空からの侵入に対しては軍が防衛に当たっているからね。軍の隊長の中にも竜を従えている者は存在するし、すぐに撃墜されてお終いってところだろうね」
「でも、そこに住んでる人がいる以上、行く方法が無いなんてことは……」
 そう言ってはみたものの、あまりに八方塞がりな状況に、衙の声は小さくなってしまった。
 そんな彼の不安をよそに、レットはけろりと答えた。
「もちろんあるよ。ただ、許可証が必要だけど」
「許可証?」
「そう、王都へ入る道はたったのひとつ。各国の首都にある転移装置を用いての空間移動さ。そのためには、許可証の提示が求められる。強行突破でも試みようものなら、軍に捕まって即投獄か……その場で殺されるかだね」
 レットがナイフで、首を切る動作をしてみせる。衙は顔の筋肉を引きつらせて苦笑した。
「それにしても、転移装置……そんなものが」
「“門”の仕組みの一部を転用した技術でね。魔界内での転移は、異世界間同士を繋ぐよりは楽なんだ。それでも、機器にかかる一回の負荷はかなりのものだから、昔は王都とを結ぶだけだったんだけどさ。最近は技術革新やコスト抑制が進んだから、首都間も繋がったんだ。未だ発展途上の技術だから、そのうち各都市部への道も拓けていくだろうね」
 楽しそうに語るレットだったが、衙にしてみればそんな先の事には構っていられない。危急の問題は、どうやって王都への許可証を手に入れるかである。
「レット、君は、その許可証を持ってるの?」
 魔界の発展と未来について滔々と語っていたレットは、衙の問いに口を閉じると、目を細めて口の端を上げた。
「持っていたら……どうする? 殺して奪う?」
 ある種の凄みを持ったその笑みに、衙は慌てて首を振った。
「あ、いや、そんなことは――」
 レットは鼻で笑うと、ナイフを腰の鞘に収め、木の幹にどっかと背を預けた。
「残念デシタ。僕は許可証を持ってないよ。今の魔界で許可証を持っているのは、基本的に三種類の魔族だけ。一種類目は、シンヴァーナリエスの住人」
「住人になるには?」
 間髪入れず、思わず衙は尋ねた。しかし。
「これまた残念。住民になるには、厳しい選定基準をパスしなくちゃならない。まあ、相当の富裕層じゃなくちゃ無理だね。それに、魔力に関する資質も必須条件だ。王都の住民は最高の居住環境の代価として、王都を宙に浮かせるための魔力を定期的に献上しなくちゃいけないんだ。人間のツカサには逆立ちしても不可能な話だよね」
「それじゃ、二種類目は?」
「二種類目は軍人。各国の士官学校を優秀な成績で卒業すれば、正式に軍に採用される。そうすれば許可証も貰えるよ。だけど、士官学校に入学するのにだって厳しい試験はあるし、まあ卒業までに五十年は見てもらわないといけないね。途中で脱落しなければの話だけど」
「ごじゅう……!?」
 今更ながら、人間と魔族との時間感覚の差異に驚かされる。すんでのところで衙は舌を噛むところだった。
「じゃあ、それも駄目だ。猶予は十日くらいしかないんだから……」
 “獄門”開放までが、栞と真人の二人を救出するタイムリミット。“獄門”が開かれ、人間界が危険に晒されるような事態は防がなければいけないのだ。それに、“獄門”が開かれた後で、用済みとなった人間を魔界側がどう扱うのかなど解らないのだから。
「十日かァ……それじゃ、一時的な滞在者としての通行申請も無理だね。まあこれは例外的なケースだから、もともと選択肢には入れてなかったけど。やっぱり三種類目に頼るしかないか」
「それなら可能なのかい、十日以内に王都に行くことが」
 可能さ、とレットは自身あり気に頷いた。
「どうすればいい。どうすれば、王都に行けるんだ」
 詰め寄る衙に、レットは満面の笑みで答えた。
「僕に雇われればいいのさ。商人見習いとしてね」
 レットの言葉に対して衙が答える事が出来たのは、数秒が経過してからだった。しかもそれは、そう、たったの一文字だけ。
「――は?」




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