第三十三話  「朱(1) 砂漠の少年商人」


 暗闇は一瞬だった。“門”と名が付いているのにも関わらず、どこかトンネルのようなものを想像していた衙は、その通過時間の短さにまず驚いた。
 しかし、そんな点に驚いていられるような余裕があったのもまた、一瞬だった。黒い世界を通り抜けた直後に目に飛び込んできたのは、灼熱の太陽。雲の欠片も見当たらない青空。
 そして、衙はその青空のど真ん中に放り出されていたのである。
(落ち、る?)
 そう思った時には、彼の体は落下を始めていた。内臓が浮くような、遊園地の絶叫系アトラクションでよく味わう感覚に襲われる。
 ジェットコースター嫌いなんだけどな、と自分でも呆れるほど呑気な感想が、一番に彼の頭に浮かんだ。衙はぶんぶんと首を振り、馬鹿げた考えを振り払うと、自分の体が引っ張られる方向を見やった。
(とにかく、地面に叩きつけられるのだけは勘弁――)
 そこまで考えたところで、彼の心臓は喉から飛び出そうになった。目の前には既に、空気以外の物が迫っていたのである。
 と言ってもそれは地面ではなく、先程見たばかりの空と同じ色。
 青。
「わああ!」
 ――どぼん。
 悲鳴と水音が合唱した。

*  *  *

 やっとのことで岸に上がった衙は、濡れ鼠のままで辺りを見回した。始めは海に落ちたのかとも思ったが、実際はどうやら小さな湖であるようだった。
 湖畔には背の低い草が細々と生えてはいるが、黄色い砂土が地面の大半だった。その乾燥した大地に突き刺さっているかのように、太い木が幾本も立ち並んでいた。湖を取り囲むように生えているその木々は、衙の目にはあまり見慣れない形をしていた。枝は無く、真っ直ぐに伸びた太い幹の頭の部分から、肉厚で巨大な葉が広がっていた。
 しかし、見慣れないとは言っても、そこまで奇抜な植物ではなかった。風景全体の持つ雰囲気にしても、思っていたほど人間界と変わりが無い。空は青く、太陽があり、湖面の色も至って普通である。本当にここが魔界なのかと、疑わしい気持ちにさえなる。異世界と呼ぶには、自分の暮らしていた世界と似すぎていて、むしろ異国と言われた方がしっくり来る。
(ここがまだ人間界、なんてことはないと思うけど……。それにしても、澪ちゃんとすすきさんはどうしたんだろう)
 衙がぐるりと見回した周囲に、人影は見当たらなかった。空中を落ちてくる最中も、澪とすすきの姿を見た記憶は無かった。耳にした水音も、自分が着水したときのそれ一回きりだ。
 二人の名前を幾度か叫んでみる。が、返ってくる声は無かった。
(澪ちゃんも、すすきさんも、いない……って、ことは)
 衙の脳裏に、不安が過った。
(まさか、“門”の出口が分かれた……?)
 出発前、衙の頭にはそんな事態は浮かびもしなかった。同じ入り口から入れば、当然出口も同じだと思っていた。しかし、よくよく考えてみれば、誰がそれを明言した訳でもないし、保証した訳でもない。そもそも、“門”を通るなどという行為は誰もが初めてであって、何が起こるかなど予想しようがなかったのだ。だからこそ、あらゆる事態を想定すべきだったのだが――。
 入り口と出口は一対一対応である、という既成概念とも呼べる解釈が、この現状の可能性を失念させていた。
(すすきさんは一人でも大丈夫だと思うけど、澪ちゃんが心配だな。二人だけでも同じ場所に着いていればいいんだけど)
 二人がこの近くにいるという可能性も、まだ無くなった訳ではない。しかし、この場所でただ佇んでいるのは、どう考えても得策ではなかった。時間的余裕はあまり無いのだ。
 二人の無事と再会を信じて、今は先に進むしかない、と衙は口元を引き締めた。と言っても、どちらに進めば良いのかも解らない状況ではあるが。
 出発地も解らず、目的地も解らず、期限だけは存在する。地図もGPSも無い世界。考えてみれば、本当に無謀な旅だった。
(それでも、やるしかないんだ。引き返すことなんてできない)
 それにしても、と衙はため息をついた。
(暑い……)
 照り付ける太陽光線は、日本の真夏日の比ではなかった。濡れた服がこの短時間で殆ど乾いてしまっていたことも、その強さを物語っている。この光を浴びているだけでも、火傷をしてしまいそうだ。
 太陽を避け、とりあえず木陰に移動した衙は、そこに腰を下ろした。陽射しが遮られただけでも、体感温度がぐんと下がる。何しろ日向では、靴底から地面の熱が伝わってくる程だったのだ。裸足で歩いたらどうなるかなど、想像するに恐ろしい。
(これからどうするかな……。まずは街か何かを探さないと。ここが何処で、栞さんと真人が捕まっているのが何処なのか、それを知る必要があるな)
 衙は、旅の唯一の荷物である布袋を探った。先程水に落ちたため浸水が心配だったが、思ったより被害は無いようだった。防水機能も充分にあるらしい。
 衙は袋の中からフード付きのマントを取り出した。この気温でこれ以上着衣を増やしたくは無いが、日光を防ぐためには仕方が無い。また、人間である事を悟られないためにも、顔や服は極力隠した方が賢明だった。
 足元まで隠れるマントに身を包むと、布袋を手に衙は立ち上がった。

「ねえ」

 初め、衙はその声に気が付かなかった。この場所にいるのは自分ひとりだとすっかり思い込んでいたため、反応が遅れたのである。
「ねえってば」
 とんとん、と背中の辺りを叩かれて、衙は全身を強張らせた。今度は声もはっきりと聞こえた。
 反射的に振り向くと、そこには誰の姿も無かった。

*  *  *

「どこ見てるのさ。ここだよ」
 言葉を失って、ただ茫然と立ちすくんでいた衙に、三度目の声がかけられた。今度の声は、多少苛立ちと憤慨を帯びていた。
 声が聞こえたのは、衙の視界のすぐ下だった。視線を少し下げると、声主の姿が現れた。マントとフードで、視界が大分狭くなっていたため、今の今まで解らなかったのだ。
 そこにいたのは、衙の腹部の辺りまでしか背の無い、小さな少年だった。
「失礼しちゃうな。僕の背が低いって、暗に言いたいわけ? 随分な嫌味だね」
 はぁ、と少年は気だるそうなため息を漏らすと、肩を竦めた。衙と比べると確かに小さいその体は、彼と同じくマントに包まれていた。ただ、頭の部分はフードではなく、帽子で覆われている。
 眉が隠れるほど目深に被った、鍔の無い帽子。その下から覗く意志の強そうな瞳は、赤茶色の光を放っていた。多くの布を重ねた作りの少年の帽子は、中近東のターバンを思わせる。そして、その帽子の下から僅かに飛び出ている髪の毛もまた、瞳と同じ赤茶色をしていた。紅葉途中のモミジに似た色だ。
「ちょっと、聞いてるの? 失礼にも程があるよ」
 少年をぽかんと眺めていた衙は、その言葉で我に返った。
「あ、ご、ごめん」
 思わず謝ってしまう。
 少年は不満を露わにした態度で衙を見返すと、もう一度、軽いため息をついた。
「ま、いいや。失礼な言動については大目に見てあげるよ。それより君、何て名前?」
 衙は数度、目を瞬いた。今現在、自分が置かれた状況を把握しようと、彼の思考回路はぐるぐると回っていた。これならば、獰猛な獣に襲われた時の方が対処しやすい。自分に危害を加える者か否か、敵か味方か、とりあえずはっきりとしているのだから。
 またしても返事をしない衙に、少年は明らかに苛立っている様子だった。
「名前だよ、な・ま・え! 自分の名前も解らないの、君?」
「あ、えっと、衙……」
 敵味方の問題は別として、少年の物言いは明らかに高圧的だった。自分よりもかなり幼い風貌の少年にここまで好き勝手言われるのは、不思議な感覚だった。もっとも、彼が魔族であるとすれば、その実年齢は外見年齢とは一致しない。魔族の生きる時の流れは、優に人間の十倍以上なのだ。
「ツカサ、ね」
 少年はようやく得られた返事に、口元を緩めた。しかしそれは決して笑顔などと呼べるようなものではなく、高い所から見下ろすような、余裕に満ちた表情だった。
 身長の関係で見上げられる側だったにも関わらず、逆であるかのように衙は錯覚した。そう感じさせるような笑みだった。
 しかしそんな錯覚は、この後の衝撃に比べれば、大した物ではなかった。次いで少年の口から発せられた言葉は、衙の度肝を抜いた。
「ツカサ、君……人間だろ?」
 衙は絶句した。今まで返事に時間がかかっていたのとは、全く別次元の状態だった。言葉の全てが喉の奥の奥、胃まで引っ込んで消化されてしまったかのようだった。
 衙の一瞬の表情の変化で正解を確信したのか、少年は得意気に、また口元を緩めた。
「正直だね。ツカサって、すぐ顔に出るタイプなんだ」
 衙は飛び退いて少年から離れると、身構えた。鋭い目付きになった衙の姿を見て、少年はくつくつと笑った。
「やだな、別に戦う気なんてないよ。それとも、全ての魔族が人間を敵視してるとでも思ってるの?」
 心底可笑しそうに笑う少年の様子に、衙は拍子抜けした。警戒を残しつつも構えを解くと、まだ速まったままの鼓動をその身に感じながら、少年に訊いた。
「君は、何者なんだ」
「ああ、自己紹介がまだだったね」
 少年は衙に向かって歩み寄った。衙は再び身構えようかとも考えたが、平静を保って相手の出方を窺った。
 いつでも動けるよう、緊張を緩めずにいた衙に、少年は右手を差し出した。
「僕はレット……レット・クダタ、商人だ。立ち話も何だからさ、向こうにある僕のキャンプに来なよ」
 よろしく、ツカサ。にこりと笑った少年の右手を、思わず衙は握り返していた。
 握手成立。




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