澪の元気な声に答えるかのように、すすきは両の手から呪符を解き放した。風に舞う葉の如く、光る七枚の呪符が宙を走る。見えない壁に張り付くかのようにそれらは空中で静止し、澪を静かに取り囲んだ。
 すすきは全神経をその七枚に集中させる。それぞれの足並みを僅かにでも乱せば、術は成功しない。
 深呼吸し、強く印を結ぶと、すすきは術の名を唱えた。
 瞬間、呪符同士が光の線で結ばれ、一層強い光を放つ。庭の草木が、ざわざわと声を上げた。衙と歩夕実は、光に包まれる澪の姿を、固唾を呑んで見守っていた。
「澪、どうだ? 何か変化は感じられるか」
 すすきが訊く。その声の緊張が、彼女が如何に張り詰めた状態で術を行っているのかを表していた。
「今のところ、何も……ちょっとまぶしいくらいで」
 そう言った途端、澪の心臓が大きく脈打った。いきなり喉の奥が塞がれたかのように呼吸が出来ず、胸が焼けるように熱くなる。
 周囲の者達が自分の名前を叫んでいることさえ朧気にしか聞こえず、膝はがくがくと笑い、立ち続ける事も叶わない。澪は荒ぶる心臓に両手を当てると、思わず地面に膝を付いた。
(なに……これ……意識、が……飛びそ、う……)
 激しく痙攣する澪の体から、白い光が放たれ始めた。強風に煽られたかのように彼女の髪は逆立ち、その額にうっすらと浮かび上がる三叉の槍。
(心、臓が……はじけ、る……)
 拍動は尚も強まり、体を内側から突き破ろうとしているのではないかと思わせる程だった。何か悲鳴にも似た声が自分の口から漏れているような気がしたが、それすらも今の澪には定かでなかった。
 体が放つ光が明るさを増す内に、澪の髪の色が次第に変化する。琥珀色の髪は、新雪に似た白銀の輝きへ。そして、瞳もまた白く、しろく――。
「澪ちゃん、しっかり! 魔力を巫呪陣に載せるんだ!」
 歩夕実の声が響いた。辛うじて、澪の耳にも届く。その内容を理解するのに数瞬を要したものの、何とか澪は意識を保っていた。
(そう、だ……“門(ゲート)”を、開け……ないと)
 歯を喰いしばって、澪は地に手を付いた。体を僅かに動かすだけで、全身の骨が砕け散るような痛みが走る。
(でも……いうこと、きかない……よぉ……)
 地を這うような姿勢を続ける、それだけでも耐え難い苦しみだった。重力が数倍になったのではないかと感じさせるくらいに、澪の体を何かが圧していた。血液が沸騰してしまったように熱く、血管を通して体中を火傷してしまいそうだった。
 イタイ。アツイ。クルシイ。
 光。熱。鼓動。そのどれもが益々高まってゆく。澪を取り囲む呪符もその力に押され始め、小刻みに震動を続けている。
 術の崩壊を必死に押しとどめようと、すすきは印を結ぶ手に力を篭めた。自らの身体が軋みを上げているのが聞こえる。
「すすきさん、魔力はもう解放されたんですから、術は取り止めても! このままだと、すすきさんも危険ですよ!」
 すすきの状態が限界に近い事を見て取って、衙は声を張り上げた。
「駄目だ!」
 掠れる声で、すすきが即答する。
「魔力、が……安定し切っていない、段階で、術を放棄すれば……暴走は、必至……! 衙、お前は……術が破られた時の、ために……“能力”を……」
 喋ることすらままならないのか、切れ切れな口調ですすきは叫んだ。
 もう長くは持たないという事を、すすきが一番理解していた。それでも、簡単に投げ出すわけにはいかなかった。
 一分でも、一秒でも長く、術を続ける。それが自分の仕事だと、そう思っていた。一分でも、一秒でも長く。そうすれば、澪は必ず応えてくれると、そう信じているかのように。
「澪ーーっ!」
 吼えるように、すすきが呼んだ。
「お前ならきっと出来る! 腕にバンダナを巻いたのは、何のためだ!」
 今にも崩れ落ちそうな身体をぎりぎりで留めて、澪は反芻した。
(何の、ため……? なん、の……)
 頭を駆け抜ける激痛の中で、そこには居ないはずの顔が見える。もう一度、会いたい顔。
「思い出すんだ、澪ちゃん! 痛いのも、苦しいのも、辛いのも、ひとりじゃないから!」
 衙が喉を嗄らせた。
(いる、の……? そばに、いてくれてる、の……?)
 激しい吐き気に襲われて、澪は顔を歪めた。口から手を突っ込まれて、ぐちゃぐちゃに掻き回されているような感覚だった。
 夜の街で、衙に聞いた話が蘇る。
(全部、あたし……)
 力を抑えこむ必要はないと彼は言った。全て自分なのだから、と。
(二人を助けたいのも、行くのを怖がってるのも、今この場から逃げ出したいって思ってるのも、全部……あたし)
 痛みが僅かに和らいだ気がした。
(あたしだけが痛いんじゃなくて、あたしだけが辛いんじゃなくて、あたしだけが苦しいんじゃなくて……それで、痛いのは、辛いのは、苦しいのは、あたしが生きているからで……)
 考えていると言うよりは、感じていると言う方が近かった。
(みんなも生きていて、だから会いたくて……いっしょにいたくて)
 混沌とした感情が混ざり合い、渦を為し、流れてゆく。痛みや苦しみを一緒に、流してゆく。
(おねえちゃん)
 今、姉は、何処で何をしているのだろう。遠いけれど、近い気がした。
(まひと)
 今、彼は、何処で何をしているのだろう。居ないけれど、居る気がした。
(ごめんなさい、おかあさん)
 反対を押し切ってゆくことを、どうか許して下さい。妙にしんみりと神妙な気分で、普段使わない敬語が澪の胸から零れ出た。
 固く閉じていた目を開くと、澪は白い世界の中にいた。空は無かった。大地も無かった。音も無かった。ただ、白い色だけがそこにはあった。
(ここは……どこ?)
 とても穏やかで、優しくて、あたたかい世界だった。何も無いけれど、全てがあるような、そんな気がした。
 ――ああ、もどる。
 現実世界に引き戻されるという予感が体を伝った次の瞬間、白い世界が薄れゆく。波が引くように、ざあっと音をたてて消えてゆく。
 その最後の音の中に、すごく懐かしい声が聞こえたように思えた。
 みお、と包み込むような声で呼んでくれた。他に何の言葉が無くても、それだけで何もかもが満たされるみたいな、そんな感じがした。
 誰の声かなんて、迷う必要もないくらいに、彼女の全身が覚えていた。

(――おとうさん)

 澪の目の前に、白い光が広がっていた。それを通して、回りの景色がはっきりと見えた。衙が彼女の方を、放心した顔で見つめていた。
 澪の背後で、何かが地面に落ちる音がした。振り向くと、すすきが腰を抜かしたかのように、地面に座り込んでいた。
「やった……のか……?」
 白い光に包まれている澪を見て、汗だくですすきは笑った。その光は澪から溢れ出ているのではなく、彼女の一部に見えた。
「ありがと、すき姐……つかさ……歩夕実ママ! みんなのおかげ!」
 澪は目も眩むような笑顔でぺこんと頭を下げた。実際光っていたので、文字通りの眩しい笑顔である。
「それより、大丈夫、すき姐? 何ならもうちょっと休んでから出発した方が……」
 澪は心配そうに、疲れ果てた様子のすすきに言った。すすきはすぐに立ち上がると、袴に付いた汚れを払った。
「何、大丈夫さ。時間が惜しいからな、旅立ちは予定通りにいこう」
 澪は深く頷くと、巫呪陣に両手を付いた。
「それじゃ、いっきまーす!」
 澪が掌に力を篭めると、光は抗うことなく自然に流れた。澪から放たれた光は、描かれたラインを伝って、中央の石へと到達する。水晶に似た石が、内側に火が灯ったかのように明るく光る。やわらかい、白い光。
 その光が、辺り一面を照らし出してゆくと、あらゆる物が白く染まった。徐々に明るさを増してゆく光の中で、澪は歩夕実の方をちらと見た。
「あのさ、歩夕実ママ……」
「何だ?」
 白い光に目を細めながら、歩夕実は訊いた。
「お母さんに、伝えてほしいんだ。ごめんなさい、って。それと……」
 少し恥ずかしそうに視線を泳がせて、澪は口ごもった。
「それと?」
 歩夕実が尋ねて、ようやく澪は答えた。
「それと……手術頑張って、って!」
 澪がはにかんだその時、石に溜められた魔力が堰を切ったように流れ出た。巫呪陣の終結点に集ったエネルギーが、魔界への扉を開く。
 空気が弾けるような音が周囲に響き渡る。歩夕実は笑いながら、その轟音に負けないように声を張り上げた。
「わかった、伝えておく! 気を付けて行って来いよ!」
「うん! 絶対帰って来るから!」
 宙に空いた漆黒の穴に、澪は飛び込んだ。
「色々とお世話になりました。帰って来た折には、巫呪についてもっと詳しくご教授願います!」
 深々と一礼してから、次いですすきが飛び込む。
 最後に残った衙は、“門”に向けていた視線を母へと移した。母子の視線が交差する。
「早く行かないと閉まるぞ?」
「うん……そうだね」
 ふっ、と口元を緩めて衙は言った。“門”からうるさく響く音の中で、静かな声は不思議と掻き消される事は無かった。
「母さん、行ってきます」
「ハイ、行ってらっしゃい」
 母が家に居ない生活が永らく続いていた母子に、懐かしいフレーズだった。

 息子の姿が黒円の中に消えたのを見届けた後で、歩夕実はその場にへたりこんだ。
 ぽつりと、体の奥から絞り出すようにつぶやいた。
「……眠い」
 彼女は徹夜だった。




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