第三十二話  「旅立ち」


 自分が勝手に外出した事を口外しないよう衙に念を押してから、澪は一足先に柊邸に戻った。外から見た限りでは灯りの点いている窓は変わりなく、すすきがいるであろうリビングと、歩夕実がいるであろう二階の書斎との二部屋だけだった。どうやら気付かれた様子はない。
 抜け出した時と同じようにゆっくりと慎重に扉を開けると、澪は音もたてずに玄関に入り込んだ。その動きは、まるで泥棒である。
 気配を消した足取りで廊下を進み、曇りガラスのドアを少し開いてリビングの様子を窺う。澪の瞳に映ったのは、家を出る前そのままの情景だった。室内にいたのはソファに腰掛けているすすき一人で、彼女は相変わらず、怖いほどの表情で書物に向かっていた。
(よし、バレてない)
 澪はほっとして胸を撫で下ろした。後は、自分の部屋にでも戻って、ずっとそこにいたということにすればよい。
(それにしてもすき姐、よくあんなに集中できるなあ。おかげで助かったけどさ)
 思わず澪は、すすきの姿をじっと見つめてしまう。すると、新しくひとつ気がついたことがあった。
 微動だにせずに本を読んでいると思っていたすすきは、よく見ると何かをつぶやいているようだった。それに、片手にはペンを持ち、ソファの前のガラステーブルの上を、時たま凄い勢いで走らせている。そしてその度に、書いたばかりの紙を握り潰すように丸めては、ごみ箱に投げ捨てていた。
 すすきが口にしている内容をはっきりと聞き取る事は出来なかったが、「駄目だ」とか「違う」とかいう言葉の切れ端だけは澪の耳にも届いた。
 こんな様子のすすきを見るのは、澪は初めてだった。いつも落ち着いていて大人びた物腰の彼女でも、こんな風に苛立ちを露わにすることがあるのかと、澪は正直驚いていた。
 ついついすすきに見入ってしまっていた澪は、玄関の扉の開く音で我に返った。衙が帰って来たのである。
(つかさのあほー! あたしが家に入って、しばらくしてから帰って来いって言ったのにー!)
 一緒に戻っては自分が抜け出したのがバレてしまうため、偽装工作をするだけの間を空けてから帰って来るよう、澪は衙と打ち合わせていた。とは言え、衙が帰って来るのが早すぎたという訳ではない。澪がもたもたしていたのが根本的に悪いのである。が、今の彼女の中では、全責任は衙に押し付けられていた。
 玄関に入った衙と、廊下で半ば固まっている澪の目が合う。澪は人差し指を口の前で立て、「黙ってて!」と衙に合図を送ると、開かれるであろうリビングの扉の隣壁に背を付けた。そして、衙に向かって目で語る――ほら、早く!
 澪に促されるように、衙はやたらと演技くさい声で言った。
「た、ただいまぁ……」
 澪の策略通りと言うべきか、その声に気付いたすすきがリビングから飛び出してきた。開かれたドアが、上手い具合に澪の体を隠す。
「衙、無事だったか! 良かった……では、“能力”の強化は成功したのだな」
 すすきが、ほうと安堵の息を零した。
「ええ、お陰様で何とか」
 すすきの背後、厚さ数センチの扉一枚隔てただけの場所に澪がいるのだが、それを悟られてはならないと、衙は内心冷や汗をかいていた。
「歩夕実さんから命を落とす可能性があると聞いた時は、さすがに……」
 驚いたぞ、と続くはずの彼女の声は、二階から響いてきたけたたましい騒音に掻き消された。無理に字で表すならば、「どがどごどん」か「だがだどげん」か、その辺りが妥当である。
 階段を三段飛ばしで駆け下りてきた歩夕実は、その勢いのまま衙にラリアットをぶちかました。奇妙な悲鳴が、衙の首から上がった。
「遅いじゃないかこのヤロウ! どこほっつき歩いてやがったぁ!」
 歩夕実は腕で息子の首を絞め上げながら、その頭に拳をぐりぐりと押し付ける。衙の顔が、苦痛に歪んで青くなる。
 ギブギブ、と歩夕実の腕を叩いて、衙はやっとのことで解放された。咽返す衙の背中を、楽しそうに歩夕実が何度も叩いた。
「よく生きてた! 偉いぞマイ息子!」
「今ので死ぬとこだよ……」
 全くもう、とまだ咽ながら衙はそれでも笑った。親子のやり取りに、すすきも可笑しそうに笑っていた。
「それで、母さんの方はどう? 上手くいきそう?」
「心配するな。最大の難所は今、丁度クリアしたところだ。まあ、私の天才的頭脳にかかれば当然の結果だ!」
「自分で天才とか言ってりゃ世話無いよ……」
 はっはっは、と高笑いする歩夕実を軽くいなしながらも、衙は知っていた。母が余裕ぶる時はいつだって、彼女が一番苦労している時なのだということを。
 仕事が忙しい筈なのに自分の運動会を観に来てくれた時も、似たような事を言っていた。全ては、自分に余計な気遣いをさせないためなのだろうと、衙は母の強さを有り難く思う。尤も、もしかしたら本心から高笑いをしているのかもしれないのだけれど。その可能性も否定し切れないところが、柊歩夕実という女性の怖さである。
 三人連れ立ってリビングに入り、衙はちらと後ろを見やりながら扉を閉めた。澪のことには、どうやら衙以外の二人は気付かなかったようである。
「どうした、衙。後ろに何かあるのか?」
 何と鋭い。すすきの声に、衙は焦りながらも努めて平静を装った。
「な、何でもないよ。それより、ソファの周りがすごいことになってるけど……何してたの、すすきさん」
 テーブルの上に広げられた分厚い本。散乱している白い紙。その中の何枚かに書き殴られた何かの図式。ごみ箱を満杯にしている紙団子。テスト前に徹夜で勉強をしても、こうはならないだろう。
「ああ、これはちょっと……術の改良というか」
「改良?」
 散乱している中の一枚を興味本位で手にとってはみたが、矢印や円や文字が並べられたその紙が何を示しているのか、衙にはさっぱり解らない。彼が手に持つその紙をひょいと覗き込んで、歩夕実が驚いたように言った。
「これ、“合璧連珠”じゃないか。使えるのかい、すすきちゃん」
「まだ五星での行使が限界です。本当は、六星を繰ることが出来れば良いのですが」
「五星でも大したモノだよ。普通は四星のマスターに十年かかるって言われてるのにねェ」
 しきりに感心している様子の歩夕実に、衙が尋ねた。
「そんなにすごい術なの、母さん」
「ああ。使い手自体、非常に稀だ。まあそれは、術者にかかる負担の大きさのせいでもあるんだけど……」
 歩夕実は、心配そうな視線をすすきに向けた。
「六星となると、反動は五星の比じゃないだろう? 急なランクアップは止めておいた方が良いんじゃないのかい」
 歩夕実の気遣いに礼を述べて、すすきは控えめな笑みを返した。
「六星はあくまで目標と参考ですよ。五星のままでも、大規模な変圧にもう少し対応できればと思いまして」
「それなら、星の配置と並び替えだよなァ……双璧の距離を縮めるのも効果的かもしれないし」
 しかし両者の過度の接近は逆に、安定性を損なう恐れが――氷輪が半照にまで到達すれば崩壊の危険も――連星配列の転換で大円を維持出来れば――それでは結合法則を無視することに――。
 すすきと歩夕実の意見の交換に熱が入る。衙はというと、話の内容に付いて行けず、ただぽかんと二人を見守るだけであった。

*  *  *

「ガッペキ、レンジュ……」
 背を壁に預けたままの澪の口から、はらりと言葉が舞い落ちた。
 室内の会話は、廊下の彼女にも届いていた。その中の、すすきの声が伝えた音の並び。
 “合璧連珠”。それは確か、半日ほど前に、すすきが澪に語って聞かせた術の名称だった。魔力を解き放つ、そのきっかけに成り得る術の。
 何をしていたのかと衙に訊かれて、術の改良をしていたと彼女は答えた。理由も告げた。
 ――『大規模な変圧にもう少し対応できれば』?
 その言葉が指す意味は、容易に理解出来た。何のためだなどと考えるよりも早く、その言葉の重さに頭が痺れた。
(あたし、まちがってた)
 薄情だと思っていた。死と隣り合わせでいる衙の事を、全く心配していない様子の二人を。落ち着いて、他の事をやっていられる二人を。
(心配じゃないわけ、なかったのに)
 帰って来た衙を迎えた二人の態度を見れば、それは一目瞭然だった。落ち着き払って見えたのは、ただ表に出していなかっただけだったのだ。もしもあそこで二人が取り乱していたら、澪の動揺はもっと酷いものになっていたに違いなかった。二人は年長者であるからこそ、取り乱す訳にはいかなかったのだと、澪は痛感した。
 歩夕実は、巫呪陣の完成に全力を尽くしていた。すすきは、澪の魔力が暴走しないようにと、術の改良に懸命だった。
 澪は、衙の無事を危ぶみ、うろたえるだけだった。そして、二人を薄情だと思っていた。
(ちがったんだ)
 不安や危惧を越えるだけの強さで、二人は信じていたのだ。彼の強さを。衙が、皆の存在を信じていたのと同じに。決して、彼の安否を軽視していたのでは無かったのだ。
 けれど、それよりも、何よりも間違っていたのは。
(あたしひとりだけ、後ろを向いてたんだ)
 彼が来るのを待って、道を振り返って、足を止めて。
 二人は歩き続けて、共通の目的地を目指していたのに。後ろに残された衙も同じものを目指していたのに。
(みんなが前を向いてる中で、あたしだけ後ろを向いてた)
 それぞれが同じ場所を目指しさえすれば必ずそこで会えると信じて、自分以外の皆は前を向き、己に出来る事をしていたのだ。それしか無いのだと知っていたのだ。行くのが違う道であろうと、到着がどれだけ遅れようと、会う場所はひとつなのだから、必ず来るのだからと信じて。
(なさけない)
 澪は歯を喰いしばった。そうしないと、耐えられなかった。
 今日一日で、随分と多くの壁にぶつかった気がした。ひとつの壁を越えたと思ったら、更に高い壁が目の前に立ちはだかった。自分は強くなれたと思ったら、すぐに別の弱さを見せ付けられた。決めた・もう迷わないと心に誓ったら、次の瞬間にその決意を粉々に吹き飛ばされた。
 今のこの思いも、もしかしたらほんの数分後には砕かれているのかもしれない。迷わないで生きることなど、不可能なのかもしれない。弱さはいつまでも在り続け、己の小ささを示し続けるのかもしれない。
 それでも、今までのどの思いよりも強く、思う。今までのどの思いも、越えてゆく。
(あたしにできることを、するんだ)
 それしかないから。結局、自分に出来る事は、それしかないのだから。
 後ろを向いていては、辿り着く事は出来ない。だから。
(前を向くんだ。みんなと同じ方を見るんだ)
 ひとりなら、進む強さは持てなかった。けれど、ひとりではないから、ひとりではないと信じる事が出来たから、ゆける。
 澪はリビングの扉を、ゆっくりと開いた。

*  *  *

「忘れ物は無いか? 準備はできてるな?」
 衙、すすき、澪。三人の顔を順に見て、歩夕実は言った。
 四月三十日、朝。空には青い色。
 庭に広げられた大きな紙、巫呪陣。そこに描かれた、曲線と直線の入り乱れた図形。黒と赤の二色で記されたそれは、文字のようにも見える。放射状に伸びる線の始点の部分、紙の中央部分には卵大の石が置かれている。先の戦いで、“魔操皇機”の残骸から手に入れた物である。
 そして、その石を正面に見据える場所に、澪が立っていた。その足元にもまた、放射線の始点が描かれており、そこから伸びる幾本もの線は石へと繋がっている。
「最終確認だ。まず、すすきちゃんが“合璧連珠”を澪ちゃんに向けて行使。魔力が解放されたら、澪ちゃんは足元に向かってそれを放出。巫呪陣に描かれたルートを通って、魔力は中央の石へ。そして、一度蓄積された後、一気に変換されて逆方向のルートへ流出。石を挟んで澪ちゃんと反対側に、“門”が出現するはずだ」
 巫呪陣の横に立った歩夕実が、各部を流れるように指で追った。
「すすきちゃんは澪ちゃんの後ろ、衙は“門”出現側で待機。万が一に備える。“門”の出現時間は魔力量次第……数秒って可能性もある。開いたら即、飛び込め。魔界の何処に出るかは解らない。いきなり危険に遭遇するとも考えられる。充分に気を引き締めて行け」
 歩夕実の言葉に、三人は頷いた。

 昨夜、リビングで歩夕実とすすきが話している最中、扉を開けて突然現れたのは澪だった。彼女は入ってくるなり言った。決めた、と。そしてすすきに、“合璧連珠”を用いてくれるよう頼んだのだった。
 無論すすきは戸惑い訊いた。一体どういう心境の変化か、と。あれだけ迷っていた様子の澪に、それが欠片も見当たらなくなっていたからだ。澪ははっきりとは答えなかった。ただ、衙と目が合った時に、照れ臭そうに笑って見せた。衙も楽しそうに笑っていた。そんな二人の不可解さに、歩夕実とすすきは顔を見合わせ、眉根を寄せた。
 明朝の出発を予定して、その場はお開きとなった。衙と澪は床に就いた。すすきと歩夕実は、遅くまで話し合っていた様子だった。それでも、日が昇る頃には全ての準備が整っていた。巫呪陣は見事に完成していたし、“合璧連珠”の効果を上昇させる方法にも、目処が立っていた。
 歩夕実さんは徹夜だ、とすすきが澪に耳打ちしてくれた。朝ご飯の時だった。澪は何だか、食べていたごはんがすごくおいしく感じられて、夢中でかきこんだ。そして思った。歩夕実が徹夜であると知っているすすきは、いつ寝たのだろうと。朝食を作ったのも、すすきだった。
 そんな事を考えていたせいだろうか。人間界での最後となるかもしれない食事は、そんな感慨に浸る事も無く終わった。
 そして、今に至る。

 旅道具が詰まった袋を肩に、衙は指示された場所に就いた。そして、躊躇いがちに、すすきに視線を向けた。
「すすきさん、董士は……いいのかな」
 少し哀しそうに笑って、すすきは答えた。
「構わんさ。どちらにせよ、あの怪我ではな。目が覚めたとしても、私が行くのを止めていただろうよ。尤も、」
 止めても聞くような奴ではないがな、と続けたすすきの言葉に、衙と澪は思わず噴き出した。違いない、と思った。
「さて、澪。始めても良いか」
 澪の背中に、すすきが声をかけた。その手では、何枚もの呪符が術の開始を待っている。
 いいよ、と言おうとして、澪は出かかった言葉を止めた。
「あ、ちょっと待って」
 ごそごそとウインドブレーカーのポケットを探る。と、軽やかな衣擦れの音と共に、一枚の布が朝の空気に翻る。臙脂色のバンダナ。昨日洗って、乾かしておいたものだ。
 澪は右手と口とで、それを左の二の腕に縛り付けた。服の下で、包帯に巻かれた傷が痛んだ。痛むくらいが丁度いいと思った。
 噛んだなどという事実を知れば、持ち主は怒るだろうか。
(多分怒るな、アイツは)
 だからこれは秘密にしておこう。
 澪は巫呪陣の中央に置かれた石を睨むように見据えると、大きな声で言った。
「準備オッケー!」




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