鼻歌を歌いながら、歩夕実は食器を洗っている。あくまでも呑気な態度の彼女を見ながら、澪は気が気でなかった。
 夕食から早三時間。衙は未だに帰って来てはいなかった。もしも成功しているのならば、とうの昔に戻って来ていていい時刻である。そうでなくとも、連絡のひとつくらいはくれても良い筈だ。
 それをしないのは、しないのではなく出来ないのではないのかと、澪の不安は募る一方だった。
 ちらと横目ですすきを見ると、風呂上りにまたしても分厚い本を読み耽っている。かなり集中している様子で、表情が厳しい。話しかけてもすぐには気付かないだろう。
(みんな薄情だ)
 何処か打ちのめされた気分で、澪は唇を噛んだ。
 勿論、信じて待つことが一番なのだということは、澪にも理解出来ていた。けれど、簡単に割り切って、少しの心配もせずに普通に過ごす――それは最良の対応であろうとも酷く薄情であると、そう感じるのだった。
 皿洗いを終えた歩夕実が、素っ気無くダイニングを後にする。二階へと向かうスリッパの音だけが、廊下の向こうで響いていた。澪の耳には、それはとても乾いた響きに聞こえた。
 テーブルの上で、澪は二つの掌を一つに握り合わせた。悔しいような切ないような情け無いような、そんな気分に襲われた。
(つかさだって、こんな薄情な態度の二人を見たら傷付くに決まってるよ。ちっとも心配されてないんだもん)
 澪は再び、すすきの方を覗き見た。リビングのソファに腰掛けて読書を続けているすすきは、相変わらず真剣そのもので、脇目を振る気配も無い。四・五メートルは離れている自分の姿など、瞳には映らないだろう。
 音をたてないように席を立つと、澪は忍び足で廊下へ抜け出た。
(やっぱり、じっと待ってなんかいられないよ)
 当ては無くとも、衙を探しに行こうと澪は決めた。忍び足を続けて廊下を抜け、玄関で靴に足を入れる。ゆっくりと注意深く玄関の鍵を開け、これまたゆっくりとドアのレバーを押し下げ、押し開く。
 開いた隙間から入ってきた冷たい外気が、彼女の頬をなぜた。構わずするりと通り抜けると、澪は夜の闇へとその身を投じた。
 慎重に扉を閉めると、小さく安堵のため息を漏らす。
 さあ、ここからが本番――と進行方向へ向き直った彼女が目にしたのは、誰あろう柊衙その人の姿だった。

 彼の服装は相当にみすぼらしかった。元々長袖であったはずのデニム地の上着は、片方が半袖になっていた。至る所に焼け焦げた跡と裂け目も見受けられる。ズボンに関してもそれは同様で、一体何年間サバイバルを続けてきたのかと問いたくなるような状態である。靴は右足にしか無く、その残った片方ですら、辛うじて靴であるということが判別できる程度、何とか足にくっついているというような有様だった。
 あれ、澪ちゃん。驚く程あっさりとした声で、衙は言った。その顔も相当に汚れ、傷付いている。
「どうしたの? 散歩……なわけないか、こんな時間に」
 屈託の無い笑顔を見せる衙に、澪は肩透かしをくらった気分だった。先程まで生死すら解らず、彼女を不安にさせていた男は、例え帰ってくるにしてもこのような笑顔で帰ってくる筈はなかった。少なくとも澪の頭の中では、瀕死の状態で顔を苦痛に歪ませ、息も絶え絶えに体を引きずってくる姿が出来上がっていた。しかし今、彼女の目の前にいる衙は、(なり)は瀕死ともとれなくも無かったが、表情はすこぶる爽やかである。
 な、な、な、と澪の口が奇妙に動いた。澪としては『何でそんな、何事もなかったみたいなのよ』と続けたかったのだが、舌が上手く回らなかった。
「もしかして、俺を探しに行こうとしてたの?」
 困惑が収まりきらず、澪はこくこくと首を縦に振るしか出来なかった。そこで初めて、衙は申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「ごめんね、遅くなって。“能力”の解放自体は、夕方には成功したんだけど……ちょっと、制御するのに手間取っちゃって。お陰でこんなカッコになっちゃったよ」
 苦笑いをしながら、衙は廃品も同様になった衣装で肩を竦めてみせた。
「服ぼろぼろだけど、怪我、とかは」
 まだ覚束ない口で、澪が訊いた。にこりと、やわらかに衙は微笑んだ。
「大量に“能力”を解放したせいかな、服はこんなだけど、体の方は平気だよ。幾らかの切り傷・擦り傷はあるけどね」
 “降魔の能力”は生命エネルギーと本質的には同じ――すすきがそのようなことを言っていたことを、澪はおぼろげながら思い出した。
「母さんは家にいるの? すすきさんの方はどうなったのか知ってる?」
 あ、と口篭ってから、澪は口早に説明した。
「二人とも、家の中にいるよ。すき姐は必要なものを全部揃えてくれて、歩夕実ママの研究は明日の朝には完成するって」
「そう、順調だね」
 家に入ろうと、ドアのレバーに手を伸ばした衙を、澪が制した。
「ま、待って」
「何?」
 衙が不思議そうな顔で、澪の方に振り返る。
 澪は自分でも言うことを迷っているかのように、ゆっくりと言葉を繋げた。
「ちょっと、話……できないかな。つかさに訊きたいことがあるんだ」
 数秒黙った後で、もしかしたら聞いて欲しいことかもしれない、と澪は付け足した。
 家の中では駄目なのだということを察したのか、衙はすぐに笑って返した。
「行こっか、散歩」

*  *  *

 街灯の光に照らされて、ノッポの影がふたつ。静かな夜道に伸びていた。
 灯りの付いている家と消えている家とは半々くらいで、遠くに見える高層マンションもまだら模様だった。
 流石にこの時間、住宅街に車通りは無く、時たま自転車が通り過ぎる程度。昼間は溢れている生活音も、今は夜の闇に溶け込んでしまったかのように消え去っていた。
「大変だった?」
 ぽつりと、澪がつぶやいた。
「何が?」
「……修行」
 その言葉に、衙はおかしそうに少し笑った。“修行”という単語には、どうにも仰々しいイメージがある。滝で打たれたり、薪を担いだり、鉄下駄を履いたりと、具体的にはそんな感じである。無論、彼はそんなことはしていない。
「修行かあ、うん、そうだね。大変だったよ」
 笑ったままで言う衙に、澪はどこか不機嫌そうな口調で返した。
「……全然、大変だったように聞こえない」
 そうかな、と衙は答え、そこからしばらくは沈黙が訪れた。二人の影法師が、ひらひらと道を進んでゆく。
 ややあって、また澪がぽつりとつぶやいた。
「あたしは、どうしたらいいのかな」
 衙は足を止め、澪も立ち止まった。
「わからないの。お姉ちゃんもアイツも助けたいけど、どうしたらいいのかわからないの」
 刺さった棘を抜くように、ぽつり、ぽつりと澪は喋った。すすきの提言した術のこと。その術による魔力の解放には、リスクが伴うこと。失敗すれば、他の人が無意味な犠牲になるかもしれないこと。夢で見た、白い光と赤い血のこと。自分の力が、信じられないこと。
 衙は黙って、澪の話を聞いていた。彼女の棘の最後の一本が抜かれるまで、一言も発することなく待っていた。話を聞いていないかのようなその態度が、その逆の印象を自分に与えるのは何でだろうと、澪は口を動かしながらぼんやりと思っていた。
 遠くでまたひとつ、灯りが消えた。街は眠ってゆく。
 囁くような自分の声が妙に大きく聞こえて、澪は声を抑えようと努めた。小さくしようとする程に大きく響いて聞こえるのはどうしてだろうと、澪はまたぼんやりと思った。
「“能力”の制御に苦労した、ってつかさは言ったじゃない。つかさはどうやって、抑え切れない力を抑えたの? どうすればあたしにも同じことができるの?」
 疑問文が、話を締めくくった。
 衙はひょいと星空を見上げた。澪は返事を待って、衙を見つめていた。
「俺の修行は、“降魔の能力”を封じるところから始まったんだけどさ」
 遥か彼方の星を見上げながら、衙は続けた。
「だんだん体が動かなくなって、呼吸も出来なくなって、苦しいんだか痛いんだか熱いんだか寒いんだか解らなくなって。“もう死にたい”って思ってたら、多分その時点で本当に死んでた。でも、俺は栞さんと真人を助けたいと思ってたから、どうしても死ぬわけにはいかないと思ってたから、“生きたい”って思ってたから、そこから抜け出すことが出来たんだ」
 流れ星。そう言って衙は夜空を指差した。澪もその指先を追ったが、すでに星は消えた後だった。
 衙は指を下ろした後も、さっきまで星があった場所を眺めていた。
「“生きたい”って心の底から思ったら、体の奥で何かが弾けた。火山が噴火するみたいな感じかな。体中に湧き上がった力は、俺の器に収まり切らなくて、溢れ出た。全身どこもかしこも内側から刃物で切られてるみたいに痛くて、皮膚が裂けて、血が出て、それと一緒に力も噴き出した。どんなに抑えようとしても抑えられなくて、頭は割れそうで、指先まで燃えるように熱くて――」
 怖かった、と衙は静かな声で言った。その言葉は、空から消えた流れ星のように儚く聞こえた。
「回れ右をして、逃げ出したくなった。こんなの俺には無理だと思った。ついさっきは“生きたい”って思ったのに、今度は生きるための力が恐ろしかった」
 澪は、自分の体が微かに震えているのを感じていた。自分がまるで、その時の衙であるかのような錯覚に囚われていた。
 イタイ。アツイ。クルシイ。

( も う 、 ヤ メ テ )

 どれだけ考えても、成功のイメージには繋がらなかった。自分をも飲み込む巨大な力にどう抗ってよいのか、澪には解らなかった。
「つかさは、どうやってその力を抑え込んだの」
 澪の問い掛けに、衙は視線を宇宙から戻した。彼の瞳は、今まで眺めていた天が写っているかのように深い色をしていた。
「抑え込む必要なんてないんだ」
 澪には意味が解らなかった。
 抑え込まないということは、溢れ出る力に身を任せるということ? しかしそれでは、力は益々好き勝手に荒れ狂うのではないだろうか。
 言葉を無くしている澪の眼を、衙は真っ直ぐに見つめていた。
「抑え込む必要なんてなかったんだ。だってそれは、俺自身の力なんだから。俺を越える力も、俺の力なんだから」
 遠くから微かに聞こえる、車のエンジンが唸る音。耳元をかすめる風の声。静かだと思っていた夜の街も、耳を澄ませばたくさんの音で溢れていた。そのひとつひとつを妙に意識してしまいながら、澪は衙の声に耳を傾けていた。
「恐れて、怖がって、こんなのは自分じゃないって無理矢理排除しようとして。力に怯えてる自分に怯えて、こんなのは自分じゃないって必死に眼を背けようとして。俺は確かに“生きたい”って思ってたし、それは確かに俺だけど、力に怯えて“逃げたい”って思ってる俺も、俺なんだ。恐れてる俺も、怖がってる俺も、どれも俺なんだ。自分の心を偽って戦ってた俺も、栞さんを助けられなかった俺も、抜け殻みたいになってた俺も、今まで生きてきた俺は全部俺で、そしてこれから生きていく俺も俺なんだ。恰好悪いけど、その恰好悪いのも含めて俺なんだよ」
 身を裂かれる痛みの中でそれを理解した時に、彼の全てが穏やかになった。そして、戻って来ることが出来たのだ。
「そうやって、自分から逃げ出さずに、どんな自分も正面切って見つめて、認めて、受け入れられた時、溢れ出してた力も俺の力になってくれた。それは自分に対して甘くなるとかそういうんじゃなくて、許すっていうこと」
 恐怖を大きくしているのは怯える自分なのだということを、認められた瞬間。弱い自分を直視する強さが、勇気に変わった。
「今の話は全部、俺がただ感じたことだし、澪ちゃんには当てはまらないかもしれない。正しい答えなんて、人それぞれなんだと思う」
 だけど、と衙は続けた。
「やってみたらいいと思うよ、その術。もしも澪ちゃんの魔力が足りなかったり、暴走したりしたら、すすきさんが上手く調整してくれるよ、きっと」
 口の端を緩めて、衙は言った。不思議と、本当に大丈夫なのではないだろうかと思わせるような、そんな笑顔だった。
「で、でも、もしもすき姐でも手に負えないようなことになったら。すき姐が一番危険なんだよ」
 まだ払拭しきれない不安を、澪は口にした。
「すすきさんを信じようよ。それに、俺もいる。澪ちゃんの魔力が暴れ回るような時は、俺も精一杯止めるから。これでも俺、少しは強くなったつもりだからさ。助けになれると思うよ」
 そう言って、衙はまた笑った。
「俺も、一人で立ち向かった訳じゃない。栞さん、真人、すすきさん、董士、母さん、父さん……たくさんの大切な人が俺の中にいるんだって信じてたから、乗り切れたんだと思う」
 もちろん澪ちゃんもいたよ、と衙は照れ臭そうに言った。本人を前にして言うには、少々恥ずかしい台詞だった。栞の前だったら言えないかもしれないと彼は思ったのだが、ここではその理由には敢えて触れないでおく。
「澪ちゃんは、信じられない? 澪ちゃんの大切な人が、澪ちゃんを支えてくれるんだっていうこと。お化け屋敷も、みんなで入れば怖くない……とも、限らない、か、な?」
 例えが悪かったかな、と衙は視線を泳がせた。
 澪は返事が出来ずに、衙に背を向けた。
「かえる」
 と、ひとことそう言うと、すたすたと歩き始めた。未だ彼女の決意は固まってはいなかったが、先程までの胸の重苦しさは和らいでいた。
(お化け屋敷は、みんなで入っても怖いかもしれないけど)
 一人の時よりは少しは怖くなくなるような、そんな気がした。それなら立ち向かえるかもしれないと、そう思った。




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