第三十一話  「夜の街を歩けば」


 世界を切り裂く、白き光の刃。
 迸る鮮血。
 白と赤とのコントラスト。
 自分を越える力が、身体を引き裂いてゆく。血管が今にも破裂するのではないかと思うくらい、血液が熱く激しく駆け巡る。
 解き放たれた猛獣は、傍にいた者を片端から喰らい尽くし、その牙と爪とを更に遠くまで届かせようと 暴れ続ける。
 血に染まった、大切な人達。その惨劇の元凶は己の力。
 どれだけ叫ぼうとも、どれだけ涙を流そうとも、静まってはくれない。
 いっそのこと、自分を先に殺してくれと思う。そうすれば、こんな惨状は見ずに済む――。
 けれど、それすらも叶わない。目を閉じることも出来ず、耳を塞ぐことも出来ず、ただ血を見つめるだけの自分。
 そんな自分を嘲笑うかの如く、一層残虐に暴れ回る獣。
 イタイ。アツイ。クルシイ。

( も う 、 ヤ メ テ )

 目を覚ますと、窓の外も内も闇で満たされていた。随分と長い間眠っていたのだということを、澪は夢現な頭で理解した。昨夜は殆ど眠れていなかったので、その疲れが出たのかもしれない。
 眠ったからといって、疲れが取れたという感は無かった。逆に、全身が酷く重くなった気すらする。今見た光景に、その重い体がまだ震えていた。
「何でこういう夢を見るかな……あたしは」
 大きく大きくため息を付いて、頭から痺れを追い払う。
 ただの夢だと割り切る事は不可能だった。きっとこれは近い未来に起こり得る現実なのだと、心が怯え切っているのが自分でも解った。
 そういった怯える心が作り出した幻覚が今の夢だということも、解っていた。しかしそれでも、恐怖は胸の深い部分に巣食っていた。そしてそれに打ち克つ術が、どうしても見つからなかった。
 どれだけ押さえ込もうとしても、膨らみ続ける影。
(お姉ちゃん、あたし、どうしたらいいのかわかんないよ)
 目を閉じて、姉の姿を思った。道に迷った時はいつも、隣に姉がいた。優しい声で、出口へと導いてくれた。
 いや、導きの声など無くとも、ただ隣に居てくれるだけで。それだけで、澪は安心して歩みを再開することが出来た。
 けれど、今は独りなのだ。独りで行くべき道を選ばなければならない。
(あのバカも、肝心な時にいないし)
 父が魔族であると解った時、その混乱から抜け出るきっかけをくれたのは“あのバカ”こと、真人だった。しかしその彼も、今は会うことが叶わぬ場所にいる。
 とは言え、彼の憎まれ口を思い出すと少しは気が晴れた。こんな風にうじうじと悩んでいては、それこそ「らしくない」などと馬鹿にされるだろう。
(お茶でも淹れて、気分転換するかあ)
 のそりとベッドから起き上がると、澪は思い切り伸びをした。

*  *  *

 夕飯は肉じゃがだった。
「おいしい! すき姐、やっぱり料理うまいねえ」
 じゃがいもを口に放り込みながら、澪が料理人を称えた。
 澪が目を覚まし、階下に姿を現したのは午後八時を回った頃だった。丁度、すすきと歩夕実が遅めの夕食を取り始めた頃でもあり、食べ物の匂いに惹かれて澪は起きたのではないかと思わせるようなタイミングだった。
「別に、褒められる程の料理では……」
 言いかけたすすきは、澪の料理の腕が尋常ならざるものであったことを思い出した。彼女と比べれば、人類の九割は料理上手ということになるかもしれない。
「今度、一緒に作ろうか」
 すすきが何気なく発した一言に、歩夕実が同調する。
「おお、いいねいいねぇ。家庭料理の華、肉じゃが! 男なんざ、美味い肉じゃが作ってやればイチコロだ」
 でも、と澪は情け無さそうに苦笑いを浮かべた。
「あたし、教えてもらっても大失敗するからなぁ……」
「要所さえ押さえれば、それなりの味になるものだぞ? 心配する事はない、案外やってみると簡単なものだ」
「案ずるより産むが易し、ってね」
 “言うは易し、行うは難し”という慣用句も頭に過ったのだが、歩夕実は敢えて触れなかった。
(案ずるより産むが易し、かあ……)
 果たしてそれは、魔力解放という大きな困難の前でも、真実であり続けてくれるだろうか。澪は箸を止めると黙り込んだ。
 そんな澪の雰囲気の変化に気付いたのか、すすきが不安げな声で彼女の名前を呼んだ。澪は一瞬、体をびくりと震わせたが、すぐに笑顔を見せた。止まっていた箸の動きも再開させ、元気に口を大きく開いては料理を片付けていく。
 それはどこか、危うさを感じさせる快活さだった。断崖の際に片足で立っているような、そんな印象をすすきに与えた。
 話が中途半端に打ち切られ、食卓は静かになった。しばらく会話も無いままに続けられていた食事が終わりに近づいた時、沈黙に耐えかねたかのように澪が口を開いた。
「そういえば、さ。歩夕実ママ、“門”を開くための方法は完成しそう?」
 茶碗に残っていたご飯粒を丁寧にすくい取っていた歩夕実は、最後の一粒を口に運ぶと顔を上げた。
「まあ、あと一息ってトコロかな。明日の朝には完成するよ」
「そう、よかったぁ」
 そう言いながらも、澪の胸中は穏やかではなかった。宣告された刻限は、すすきの術によって魔力を解放させるかどうかを決断するタイムリミットでもあるのだから。
 巫呪陣が完成していない今はまだ、道を急いで選ぶ必要は無かった。己の意思が、出発の遅速に関与する事は無いからだ。けれど、自分以外の全ての要素が整ってしまったその時、少しでも早く魔界に行けるかどうかは、己の決断ひとつにかかる事となる。
 そうなってしまってからの決断は、責任感に押し潰されそうになる中で仕方なく出したものになってしまうかもしれない。自分の心が本当に望むものとは、全く逆の方向に進んでしまうかもしれない。
 そうなる前に、澪は決めてしまいたかった。
 だが、そう思えば思う程、心は焦り、空回りをするのだった。
「つかさが今いないのは、“降魔の能力”を高めるためなんだよね。それは、いつごろ終わるの?」
 恐る恐る、澪は尋ねた。衙の修練の終了が明朝よりも早いのならば、決断の締切はそれで本当に確定してしまう。
「そろそろ終わる時間だね」
 壁の時計を見やって、静かに歩夕実が言った。
「アイツが家を出てから約十二時間。失敗してたら、そろそろ死んでる頃だ」
 さらりと歩夕実は言ってのけた。それはまるで、食後に「ごちそうさま」と口にするくらいの普段着な調子だった。
「死ぬとは……どういう意味です」
 落ち着き払った歩夕実の声とは対照的に、すすきの声は震えていた。
「そのままの意味さ。上手くいかなきゃ命を落とす、そういう試練だ」
 呆気に取られたままの表情で、澪がぽつりと声を落とした。
「そんな危険なものだったなんて、知らなかった……だって、歩夕実ママはいつもと全然変わった様子がなかったし」
 つかさが心配じゃないの、と澪は訊いた。
「もうつかさは死んでるかもしれないし、ちょうど今、息絶えるところかもしれないんでしょ? 何でそんなに落ち着いていられるの?」
 そう言って席を立とうとした澪の腕を、歩夕実が掴んだ。テーブルが揺れて、澪の箸の片方が床に落ちて転がった。
「待て、澪ちゃん。衙を探しに行くのなら、止めた方がいい。多分、人目に触れない場所を選んでいるだろうから、見つかりはしないよ」
「でも、もしもつかさが」
 ――死んでいたら。
 澪のその言葉が出るよりも早く、歩夕実の唇が動いた。
「死んでいないよ」
 澄んだ声音に迷いは無く、これもまた先程と同じく普段着の響きだった。
 どうしてわかるの、と澪は零した。その迷いの無さが不思議だった。
「私がそう、信じているからさ」
 澪の腕から手を放すと、歩夕実はかがんで箸を拾い、卓上に戻した。(つい)が再び揃った箸は、きちんと茶碗の前に整列した。
「信じれば叶うだの、努力は報われるだの、夢幻の理想を説くつもりはないさ。ただ、これは衙自身の戦いで、私はアイツを待つことしか出来ない。信じて待つか、疑って待つか、ふたつにひとつ」
 最後に口もとを緩めると、歩夕実はこう締めくくった。
「だったら信じて待った方が恰好良いだろう?」




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