「それにしても澪、見事な言い様だったな。少し驚いた」
 すすきの言葉に、澪は照れたように口元を緩めた。
「実はね、ついさっきお母さんに同じことを言ってきたばかりなんだ。その時はもっと、言ってる内容が目茶苦茶で、順序立ても何もあったもんじゃなかったんだけどさ」
「早波さんは……許して下さったのか」
 表情を曇らせ、澪は静かに頭を振った。
「お姉ちゃんが連れ去られたことを話したら、お母さんすごくびっくりしてた。泣きそうな顔してた。それで、あたしが『お姉ちゃんを追っかけて魔界に行く』って言ったら、本当に泣いた。泣きながら怒った。馬鹿っていっぱい言われた。あたしは言いたいこと言うだけ全部言って、それで飛び出してきた。絶対に行くんだ、っていう気持ちだけは伝えてきたつもり」
「それだけ反対されても、か」
 こくりと澪は頷いた。
「お母さんには悪いと思うよ。でも、行かなきゃいけないんだ。さっきも言ったけど、あたしが行きたいと思うから、助けたいと思うから、あたしは行くの。あたしはあたしのために行くの。行かなきゃ、あたしはあたしでなくなっちゃう……自分でもよくわかんないけどさ、そんな気がするの」
 そうか、とすすきは言った。優しい声だった。
「ならば私が止める事は尚更不可能だな」
 すすきはソファの後ろから薄茶色の布袋を取り出すと、澪に手渡した。澪がいつも使っている小さめのリュックよりも幾分か大きい。ひとつだけある口を紐で閉じるというシンプルな形状ではあるが、その作りはしっかりとしていて見るからに丈夫そうだった。
「ほら、澪の分だ」
「何、この袋……?」
「旅道具一式だ。メインは飲料水。高栄養価の携帯用食料に、簡易救急箱、その他諸々。昔から退魔師が使ってきたものだから、必要最小限のものは揃っていると思う。あとは、お前が持って行きたいものを詰めれば良い」
「すき姐……」
 澪の顔に、驚きと喜びが混ざり合った。
「あと、呪符も何枚か渡しておこう。“降魔の能力”がなければ完全な効力は発揮されないが、それでも護身用くらいにはなる筈だ」
 すすきから受け取った呪符の束は、澪の手の中で温かかった。ゆっくりと体全体に染み入るような心地良い温もりに、澪は何と言ってよいのか解らなかった。
(あたしのこと心配してくれて、引き止めるようなこと言って。でも荷物はあたしの分までちゃんと用意してくれて)
 ただ純粋に有り難かった。そして、未だ自分の役割を果たせないでいることを情けなく思った。
(これで、魔力を使いこなせるようにならなかったら、オンナが廃る!)
 ソファからすくと立ち上がると、澪はすすきに向かって意気込んだ。
「見てて、すき姐! あたし、絶対に“門”を開けてみせるから!」
 今にも呪符を握り潰してしまいそうなその右拳が、淡く光っていた。
 その白い光に、すすきの口は開いたままで停止した。露程も気付いていない澪に、すすきは茫然としたままで言った。
「み、みお、ミギテ」
「ほえ?」
「だから、右手」
 言われてようやく目をやった澪は、しばらくぱちぱちと瞼を上下させていたが、やがて、
「な、なにコレぇ!?」
 大慌てで、光る拳を振り回した。思わずその手を開いてしまうと、紙吹雪の要領で呪符が宙を舞った。途端に、白き光が揺らいで消える。
 はらはらとフローリングに舞い降りる呪符の雨の中、二人は固まってしまっていた。一体何がどうなってしまっているのか。予想だにしなかった事態に陥った時、人の脳は活動を止めるものらしい。
 すすきの目の前を一枚の呪符が横切ったとき、彼女はようやく瞬き、動きを取り戻した。
「そうか、まさか」
 すすきは素早く膝を付くと、床に散らばった呪符を拾い集めだした。「違う」とか、「これでもない」などと言いながら、一枚一枚を入念に確認している。
「すき姐、どうしたの。さっき光ったのって、もしかしてあたしの魔力? あたし、魔力が使えるようになったの?」
 澪もしゃがみこむと、すすきへと期待に満ちた眼差しを向けた。すすきは呪符を睨みながら、真剣な面持ちのままである。
「そうではない、と思う。しかし……」
 これだ、とすすきが大きな声で突然叫んだ。しゃがんでいた澪は思わず尻餅をついた。
「やはり、吸引系が混ざっていたのだ。これが原因に違いない」
 一枚の呪符を穴が開くほど見つめながら、すすきが熱を帯びた声を上げた。
 尻餅をついたまま、澪はすすきを見上げた。
「なに、何かわかったの? さっきの光は、あたしの魔力じゃなかったの?」
「いや、あれは紛れも無くお前の魔力だよ、澪」
 意味が解らず、澪は眉根を僅かに寄せた。
「良いか、澪。この呪符には、敵の魔力を吸い取る効力がある。魔力のエネルギー性質を変換させて大気中に放散する、そういう術に用いられる符だ」
「……つまり?」
「お前が触れた事で呪符が反応し、お前の魔力を強制的に吸い取った。その時抜け出た魔力が、光を放ったという訳だ」
 なあんだ、と澪は肩を落とした。
「別に、あたしの魔力が目覚めたとか、そういうんじゃなかったんだ」
「がっかりすることはないぞ、澪」
 すすきの声に、澪は一度項垂れた頭を上げた。
「お前の魔力は確かに目覚めている。この符が反応した事が、その証だ。例え僅かであっても、お前の魔力は脈打ち始めている。あとは、その力をより大きく、より強く育てるだけだ。そして、この符が、」
 手中の呪符に視線をやって、すすきは続けた。
「その助けと成るやもしれぬ」
 どういうこと、と尋ねる澪に視線を戻して、すすきは再度口を開いた。
「今のお前の魔力は、言わば殻に包まれた状態だ。殻の表面に入った僅かな亀裂、その隙間から力が漏れ出しているに過ぎぬ。魔力を完全に解放するには、殻を破壊する他無い」
 澪の瞳を真っ直ぐに見つめて、すすきは問い掛けた。
「澪、殻を壊すには、どうすれば良い?」
「えっと、叩いたり殴ったりして衝撃を与える……」
 おいおい、とすすきが苦笑いする。
「無精卵ではないのだぞ。殻の中には生まれてくる新たな力が宿っている。もう一人の、お前だ」
「ヒナをかえすってコト? じゃあ……あっためて、中から突付かせる」
 すすきはゆっくりと頷いた。
「つまりはそういう事だ。刺激を与えて、半ば強制的に殻を破らせる。退魔の巫呪の中に、“合璧連珠(がっぺきれんじゅ)”と呼ばれるものがある。この術は、対象者の魔力を急激に吸引する……その効果は、先程の呪符一枚のものとは比べようも無い。一度に通過出来る量の限界値以上を要求された時、開いた隙間はその道幅を拡大し、外殻に走る亀裂は広がる。その連鎖が、殻を崩壊させる」
 無論、危険も伴う。もしも殻を破壊する前に中身が尽きてしまえば、澪の身体に如何なる影響が出るとも知れない。逆に、殻の中身が強大すぎた時、抑える壁を失った力が暴走する可能性もある。
 巨大な魔力と、それを制御するだけの才覚と。テーゼンワイトの血がその二つを遺しているという可能性に頼った、大きな賭けとなる。
 全ての説明を受けた後に、澪は深く息を吐き出した。目に見えない重圧がそうさせた。
「失敗……したら?」
「断言はできぬが、仮に澪の魔力が枯渇した場合、お前の命に関わるやもしれん」
「魔力が、暴走、したら?」
「そのエネルギーの総量にもよるが、暴走した魔力は一種の爆発を引き起こし、周辺の事物は跡形も無く消え失せる……だろうな」
 澪は自分の息が止まるのを感じた。
「あくまで、あらゆる障壁を無視した単純な概算だ。実際は私が“合壁連珠”によって魔力を抑える。その様な悲劇は起こさせぬよ」
 微かに笑って、すすきは澪の肩に手をやった。
「それでも負うリスクは大きい。何も、この様な強引な手法を用いる必要はないやもしれぬ。お前自身の力だけで、魔力が解き放たれる可能性もあるのだから。まだ、時間はある。今の話は最後の手段として、心の片隅に留めておいてくれ」
 そこまで言って、すすきは哀しそうにその瞳の光を翳らせた。
「もしかしたら余計な事を言ったのやもしれぬな、私は……すまぬ、惑わせてしまった」

*  *  *

 すすきに言われた通り、自らに降りかかる危険など、構わないと思っていた。危険への恐怖も包み込んで、母からの反対も振り切って、行く事を決めた。
 それだけの行きたいという気持ちが、澪にはあった。二人にもう一度会いたいという気持ち。助け出したいという思い。
 栞の料理をもう一度食べたかった。真人のバンダナを返してやりたかった。
 澪の胸にぽっかりと空いた空洞。大きな喪失感。話しかけても、もう答えを返してくれる相手がいないということ。
 サミシイ。他の誰でも、この穴は埋められない。
 タリナイ。他の誰でも、この穴は埋められない。
 ベッドに横になりながら、澪はぼんやりと考えていた。
(自力で魔力を使えるようになればいいだけの話なんだけど)
 時間が無かった。すすきは『まだ、時間はある』と言ってくれたが、そうでは無い事を澪は感じ取っていた。
(だって、“門”を通ってどこに出るのかなんて解らないって、すき姐そう言ってた。だったら、なるべく早く魔界に行かなきゃ、間に合わないかもしれない)
 この悩んでいる一分一秒を、後で悔いる事になるかもしれないのだ。
(一番早く行ける道があるのなら、その道を選ぶしかない。危険でも)
 二人を助けるためなら、どんな苦難にも耐えてみせると思っていた。この胸から失われた大きな欠片を取り戻すためならば。
(だけど)
 その大きな欠片と引き換えに、他の誰かを犠牲にすることになれば?
 魔力の暴走。それが悲劇をもたらすとすれば?
 自分の我侭な願望で、大切な人を死に至らしめてしまうとすれば?
(それは、選ぶべき道なの?)
 成功すれば良いのだ、という気持ちはあった。そうすれば、何も問題は無い。満点の道だ。
(でも、もしも失敗したら?)
 その時には少なくとも、術の行使に当たるすすきは自分の近くにいる筈なのだ。そして、真っ先にその犠牲になるに違いないのだ。
 怖かった。堪らなく怖かった。自分の意思に反して力がうねり、目の前で命を奪ってゆく様を目にする事が、堪らなく怖かった。それは丁度、ブレーキの利かない車を自分が運転して、次々に人を轢き殺していくようなイメージだった。
 自信が、無かった。短期間に自力で魔力を使えるようになる自信も、解き放たれた力を制御する自信も。
 魔力を解放する手段を聞くまでは、己の力で何とかしようと意気込んでいた。けれど、今となってはその意気込みが、とても子ども染みた弱々しいものに思えてしまう。そんな根拠の無い強がりは、現実の前に無力だ。
 願うだけで望みが叶うなど、幻想。
 努力の仕方が解っていればまだ、やりようがあった。必死で歯を喰いしばってゆけば良いのだから。けれど今、具体的な方策はたったのひとつだけ。天使と悪魔の二面を持ち合わせた、意地悪な道。
 心が失ったものは大きかったが、それを他人の命と天秤にかける事は出来なかった。
(必要なの? どんな犠牲を払ってでも、二人を助けるっていう決心が。そんな残酷な決断ができなきゃ、二人は助けられないの?)
 疑問はとめどなく溢れ出た。尽きる事の無い迷いと惑いの渦の中で、いつしか澪は眠りに落ちていった。




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