第三十話  「心を鈍らせるもの」


 澪が玄関に入ると、家の中は静まり返っていた。鍵は開いていたから、皆が出払っている訳では無い筈だ。第一、玄関には靴が残っている。
 澪が今朝家を出た時と、その数は変わっていない。整然と並べられた履物の中で、在宅者の数を表すものは二足。ただ、その組み合わせは異なっていた。歩夕実の黒いパンプスはそのまま。消えていたのはもう一足の方、淡いブラウンのスニーカーだった。
 衙のそのスニーカーの代わりに玄関にあったのは、紅い鼻緒の一足の草履。どう考えても、持ち主は一人しか思い浮かばなかった。この履物に合う服装といえば振袖や巫女服くらいのものだ。
 澪がリビングの扉を開けると、予想した通りの人物の姿がそこにはあった。ソファに腰掛けている、巫女装束に身を包んだ女性。
「すき姐、戻って来てたんだ」
 かけられた言葉に、すすきは顔を上げた。随分と熱心に何かの本を読んでいたらしく、今の今まで澪の帰宅に気付いていない様子だった。
「澪か。おかえり」
 うん、と頷いて、澪はすすきに何か言いたげな視線を向けた。
「すき姐、それで……どうだった?」
 すすきは得意気に微笑むと、答えた。
「安心しろ。必要な物は手に入った。全て上手くいっている」
「ホント? よかったぁ」
 澪の顔に宿る不安が、たちまち笑顔にかわる。
 すすきはぎょっとして、思わずその手に持つ本を取り落としそうになった。澪から、僅かに魔力が感じられたような気がしたのだった。
 しかし次の瞬間には、そんな気配は微塵も無くなってしまっていた。雲間から覗いた月光が、すぐに隠れてしまったかのようだった。
 すすきの動揺には少しも気付かない様子で、澪は部屋の中を見回した。
「歩夕実ママは?」
「な。何だ、その呼び方は」
 すすきは再度、その手の本を落としそうになった。さっきとは全く方向性の異なる動揺ではあるが。
「え、だって『つかさのお母さん』じゃ長くて呼びづらいじゃない? だから歩夕実ママ。今朝決めたの」
 いしし、と澪は楽しそうに笑った。
(そう言えば、私の『すき姐』の時も唐突だったな……)
 半ば呆れ気味に懐古すると、すすきはひとつ大きな咳払いをした。
「歩夕実さんは二階の書斎だ。今は、呪式の完成に向けて資料と睨めっこの最中だよ。まあ、こちらもそんなに心配する事は無い。今日明日には完成させてみせると仰っていた。私も手伝おうと思っていたのだが……歩夕実さんが一人で大丈夫だと主張されるものだから、やむなく読書に興じていたところだ」
 ふうん、と澪はすすきの手中の本を覗き込んだ。細かい文字と訳の解らない図形が並んでいた。しかも相当に分厚い。
「……この時、ソウ……ナントカにはナントカとナントカを、連星には残りのナントカを用いよ。術式の簡略化を欲すならば、ナントカ、ナントカの順にナントカを削る。但し、その際生まれるナントカの調整については……」
 澪が試しに音読してみると、“ナントカ”だらけの文章になった。読めない文字を“ナントカ”に変換してみたのだが、変換の必要に迫られる部分が多すぎたのだ。
「わけわかんないよ、すき姐。何コレ、退魔師の専門書?」
「そんな所だ。私ももっと知識と技術を養わねばならんからな」
「そっかぁ……よぉし、あたしも、頑張って魔力を目覚めさせるぞぉーっ」
 澪は高々と両拳を突き上げた。
 そんな澪を見ながら、すすきは静かに本を閉じた。そして、真剣な眼差しを彼女に向けた。
「澪。今更、な質問なのだが」
 何、と澪は聞き返した。
「お前は本当に、我々と一緒に魔界へ行くつもりなのか」
 澪は一瞬きょとんとした表情になると、噴き出した。
「やだ、すき姐。何言ってるの、当たり前じゃない。あたしは二人を」
「助けられるか?」
 すすきの声は酷く冷たかった。
「澪、お前が行けば、二人を助けるための力に成れると、本当にそう思うか?」
 それは、と澪は口ごもった。自信を持って、『力に成れる』とは言えなかった。それだけの力が無いことは、嫌と言う程自覚はしていた。
「“門”をくぐったその先が、どのような場所であるのか。私にも解らぬ。二人とは遠く離れた場所、という可能性もある。長い旅路の中、魔界では、常に危険に晒される事になるだろう。私と衙は退魔師の端くれだ、死地も幾度か経験している。だが、澪。お前は……」
「あたしは!」
 澪の叫び声が、すすきの声を遮った。
「あたしは、そりゃあ、弱いけど。でも、あたしの魔力を使って魔界に行こうっていうのに、あたしだけ仲間外れ? そんなのいやだよ。ずるいよ。ヒキョウだよ」
 すすきは穏やかな瞳で澪を見つめていた。実の妹を見守るような、そんな瞳だった。
 澪、とすすきはもう一度彼女の名前を口にした。
「二人を助け出した時、もしもお前の身に何かあったとしたら……最悪の場合、命を落としていたとしたら? 栞と真人は、それを喜びはしないだろう。自分のせいだと、自らを責めるだろう。私も同じだ。是が非でもお前を人間界に留めておくべきだったと、悔やむだろう」
 澪は俯き、黙り込んだ。
「自分の手で二人を助けたいという気持ちは解る。そのためなら自らが傷付いても構わないと、お前は言うのだろう。だが、お前を危険な目に遭わせたくないのだ。解って、くれぬか」
 諭すような静かな声。澪は服の裾をきゅっと握りしめた。すすきの言葉の意味は、痛いほど理解できた。
 しかし、それでも。
 揺らぐことのない、思いがあった。
「い・や・だ!」
 澪は伏せていた顔をばっとあげると、大きく口を開いて言った。
 今度は、すすきが黙り込む番だった。
「すき姐、あたしのコトを心配してくれる気持ちはすっごくうれしいよ。でもね、すき姐まちがってる」
 澪はすすきの隣にどっかと腰掛けた。
「そりゃあ、すき姐が言った通りになったら、二人ともいい気分はしないでしょうね。だけど、仮定の話は無意味だよ。例えば、あたしが人間界に残ったとして、もしもすき姐とつかさが帰って来なかったらどう? あたしは何としてでも付いて行くべきだったと、涙で枕を濡らすでしょう!」
 高速で回転する澪の口に、すすきは見惚れてしまったかのように固まっていた。
「未来はどうなるかわからないよ。だからこそあたしは、今、あたしにできることはやっておきたいの。帰って来られないかもしれないっていうのはすごく怖いし、不安。けど、人任せにはできないの。二人を助けたい気持ちはもちろんあるけど、それと同じくらい……ううん、それ以上に、あたしが行きたいからあたしは行くの」
 暫くの間、ぽかんとした表情で動きを止めていたすすきは、思い出したように数回瞬きをすると、苦笑しながら言った。
「そう……か。そうだな。すまぬ、澪。お前を見くびり過ぎていた。愚かな忠言だった、忘れてくれ」
 本当に愚かだったと、すすきは自分で自分を殴りたい気分だった。残される者の辛さは、己も体験済みだというのに。
 第一、端から無茶は承知で組んだ旅程である。周囲の反対を押し切って行くのは、すすき自身も同じであった。
(独りよがりの思いやりは時に残酷であるということ、忘れるところであった。董士、今の澪の台詞、お前に聞かせてやりたいぞ。自分勝手に私に手刀を浴びせた、お前にな)
 未だ意識の戻らぬ幼馴染は、恐らく共に行く事はできないであろう。それでも、先程常磐に聞いた限りでは、命の心配はなさそうだった。
(我々が帰って来る頃には、目くらい覚ましておけよ。平手の一撃でも喰らわせてやる)
 その時、董士は彼女に叱咤される悪夢にうなされていた、かどうかは定かではない。




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