きい、きい、きい。
 ブランコの鎖が、さみしく鳴いた。揺らす度に、きい、きい、きい。
 はあ、と澪がため息をついたのと同時に、もう一度鳴った。
(魔力なんて……どうすればいいんだろう)
 頼りなく立ち上がると、ブランコは鳴くのを止めた。
 気功の真似事をやったり、叫んだり、拳を握りしめて力んでみたり。思い付いた手は片端から試してみたものの、全て功を奏さなかった。よくよく考えれば、そんなことで魔力が使えるようになるのなら、今までに幾らだって機会はあったはずだった。例えば体育の時間だとか、友達とふざけ合っている時だとか。
(お姉ちゃんは、つかさが死にそうになったのを見て、使えるようになったんだっけ)
 公園の水飲み場まで、何とは無しに歩く。石造りの直方体に、金属製のノズルがちょこんとくっついている。銀色のレバーを軽く捻ると、勢い良く飛び出した水が宙に舞った。
(こういうふうにさ、ぱっと出てくればいいのに)
 ぱっと出てくるものなのかもしれない、とも澪は思った。だが、どちらにせよ、それにはレバーを見つける必要があった。自分を解き放つレバー、その在り処。
 ぐうう、と腹の虫が鳴いた。正午が近い。童謡にあるとおり、おなかというのはどんな時でも減るものらしい。
(お姉ちゃんのごはん、いつもおいしかったな。もしも、魔界に行けなかったら、もう食べられない……)
 今更ながらに、昨夜のマリネを食べておけば良かったと考えてしまう。自分の未練がましさが惨めだと思う。
(ダメだ、ダメ。マイナス思考は)
 水から上がった犬のように、澪は勢い良く頭を振った。クセのある琥珀色の髪は、振るわれたことで一層見境なく撥ねた。
(誰かを助けたい気持ちがキッカケになるんなら、あたしだって出来てもいいのに。お姉ちゃんとアイツを助けたいって気持ちは、あるのに。……それとも、あたしの気持ちが弱いっていうの)
 回転式のレバーを握る手に、思わず力が入ってしまった。ノズルから出る水は噴水よろしく高々と空に散り、澪の頭上ににわか雨を降らせた。
「うわ、やばっ」
 慌てて急ブレーキをかけると、水はぴたりと止まった。
 要は、これくらい自在に、魔力を操れれば良いのである。いや、自在でなくても良い。一度に大量の魔力を放出できさえすれば。
 力が欲しい、と思った。衙に助けられ、真人に助けられ、最近は皆に助けられっぱなしだった。もともと運動神経の良い澪は、同学年の女子からは頼られることが多かった。だからこそ、助けられてばかりなのは嫌だった。自分が急にちっぽけでか弱い存在になってしまったようで、悔しかった。あまつさえ、真人には涙を見せてしまってさえいるのだ――。
(そうよ、このまま終わってたまるもんですか)
 自分を助けてくれた人たちを、今度は自分で助けたいと思った。そのための、力が欲しい。
 聞き慣れた声が耳に届いたのは、彼女が凛々しく握り拳を作った時だった。
 ミー、と大きな声が澪を呼んだ。そんな愛称で自分を呼ぶ人物を、澪は一人しか知らなかった。彼女の親友――と言っても、知り合ってから一ヶ月にも満たないのだが――の村舘由佳である。
「何やってるの、そんなトコで……うわ、ずぶ濡れじゃないの」
 公園の入り口から駆け足で澪の元までやって来た由佳は、目を丸くした。紅茶色の髪が、流れるように笑った。
「ちょっとね。水、出しすぎちゃって」
 曖昧な言い訳をしつつ、澪はおどけて笑ってみせた。
「馬鹿ねえ、まだ水浴びには早いわよ」
 くすくすと笑い声を零しながら、由佳はハンカチで澪の髪や顔を拭った。水色に青の格子模様のハンカチ。彼女によく合っている、と顔を拭かれながら澪は思った。
「ねえ、数学のプリントやった?」
 ハンカチをポケットに仕舞いながら、由佳が訊いた。明日提出とされている宿題である。無論、澪のプリントは白紙である。昨日からの一連の事件で、日常生活は忘却の彼方だった。
 やってない、と答えた澪に、由佳は無邪気な笑顔を向けた。
「だよねえ。難しすぎるもん、あの宿題。ヤマヒデってば何考えてるのよ。生徒をいじめるのが趣味なんだわ、きっと」
 ヤマヒデとは、数学の先生のあだ名である。山田秀夫、略してヤマヒデ。
「プリントに飽きちゃって、気分転換に出てきたトコだったんだけどさ……ねえ、ミーも出来てないなら、これから一緒にやらない?」
「あたしは……やめとく。ちょっと、他にやることがあるから」
「そっか、残念。ひとりだとどうもヤル気が出ないんだよねぇ。明日の朝、やって来てる人のを写させてもらおうかなあ」
 悪代官のように、由佳はにやりと笑った。
「ミーもそうする? 岡本君あたりなら間違いなくやって来てるだろうし」
 澪は目を伏せ、首を横に振った。
「あたし、しばらく学校休むと思う」
 由佳の大きな瞳が、きょとんとなった。どんな表情をしても可愛いなあと、澪はぼんやりと思った。
「何で? 病気?」
 ううん、と澪はまた首を振った。
「ちょっと、遠くに出かけるんだ」
「旅行?」
「うん、まあそんなトコ」
「しばらくって、どれくらい? 遠くって、外国?」
「外国……かな。期間はよくわかんないや」
 ふうん、と由佳は疑問の混ざった声で言った。随分と奇妙な旅行もあるものだ、と思った。澪が嘘を付いているようには感じられなかったが、雰囲気からは、何らかの事情があるのだろうということは察せられた。そういう勘は、昔から良い。
 澪は、あまり話したがっていないようにも見えたので、由佳はそれ以上訊けなかった。ただ、無性に不安になって、ひとつだけ尋ねた。
「ちゃんと帰って来る……よね?」
 少し躊躇うように視線を泳がせてから、澪は困ったような笑顔になった。困ったような、というのが由佳の印象に一番近い表現だった。
「うん、もちろん。ちょっと人に会いに行くだけだから」
 そう、と由佳はざわめく胸のままでつぶやくように言った。
「じゃあ、帰って来たら教えてね」
 訊きたい気持ちはまだ大量に残っていたが、由佳はそれだけを言って笑みを浮かべた。
 温もりのある笑顔だった。あれこれ詮索しない心遣いが、今の澪には妙に嬉しかった。
「うん、きっと、一番に報告するよ」
 澪は不思議と、泣きたくなった。魔界へ行くという行為への不安が、急に押し寄せてきたみたいだった。二人を助けるのだと息巻いていただけで、今まではその決断の含む意味を深く考えてはいなかった。二度と帰れないかもしれない、という現実的な恐怖感が、ここに来てようやく生まれたかのようだった。
 全ての日常を捨てて、二度と戻れない可能性を覚悟して、向かう。そういう場所なのだ、魔界は。そう、この公園には、この友人の前には、もう二度と立てないかもしれないのだ。
(あたしは結局、現実として捉えてなかったのかもしれない。どこかでまだ、映画を観てるような気持ちでいたのかもしれない)
 だからきっと、自分の持つ力も、心の隅では疑っていたのだろう。魔力を開放するのは、自分であって自分ではなかった。そんな他人任せに近い決意が、力を持つ筈がなかった。危険も恐怖も全てをひっくるめて直視できなければ、本当の決意とは呼べないのだ。
「ユカ、あたしさ、もっと強くなりたいんだよね」
 突拍子もない台詞が、不意に口を出た。由佳はぱちぱちと瞬いた。
「いつも意地張ってるのに、肝心な時に何もできなくて。口先ばっかりになっちゃう。それが悔しいんだよね」
「そうかなあ。私に言わせれば、ミーは十分強くてかっこいいけどな」
 おかしそうに、由佳は答えた。
「でもまあ、『強くなりたい』って思ってるからかっこいいのかな、ミーは」
 だけどね、と由佳は澪の鼻先を突付いた。
「多少はおしとやかにした方が良い時もあるかもよ? 好きな人の前とかさ。そう言えば、今日はいつものリボン着けてないじゃない。そのせいかな、いつにも増して男前に見えるのは」
「コラ。幾らなんでも、男前はヒドイでしょうが」
 からかうように言われて、澪は拳を振り上げた。声をあげて笑いながら、由佳は逃げるように澪から離れた。澪の声が、彼女を追う。
「リボンはね、ちょっと人に貸してるの」
 そうだ、と澪は胸中で頷いた。貸しただけなのだ。必ず返してもらう。持ち逃げなど、許してたまるものか。そして、借りたバンダナも、借りたままでは終わらせない。
(あいつの目の前に、突き出してやるんだ)
 恐れを知っても、決意は鈍らない。いや、恐れを知ったからこそ、本当の決意が生まれた。二度とこの場所に立てないかもしれなくても、二度と二人の前に立てないよりはマシだ。
 いつの間にか公園の出口まで達していた由佳が、澪に向かって大きく手を振った。
「それじゃ、私は帰るね。旅行、気をつけて行ってらっしゃいな」
 澪も大きく手を振り返した。
「うん、ユカも元気で」

 家路を辿りながら、由佳は首を傾げた。最後の一瞬、友人の髪が白色に輝いたように見えたのだ。




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