第二十九話  「出国準備」


「魔界に行けたとして、今のままじゃどうしようもない。二人を助けるどころか、二人を見つけ出す前に命を落とすのが関の山だ」
 衙に向かって、歩夕実が鋭い口調で言った。
 すすきは既にいない。必要なものを揃える為、『時白』へと帰ったのである。なるべく早く戻るとすすきは言ったが、果たしてどれくらいで目的の物が見つかるのかは見当も付かない。
 しかし、すすきの帰りをただ待っているだけなど、時間が許してはくれない。制限された時間の中で、残された面々は、己のすべきことをやらなければならなかった。
 そのひとつは、澪への課題。彼女は「魔力を使えるようになるための特訓」をするだとか言って、外へ出て行った。それがどのような特訓であるのかは知る由もない。誰もが助言をし得なかったし、そんなことは澪本人も良く解っていた。
 そして、今まさに歩夕実が話しているその内容もまた、すべきことのひとつ。衙への課題だった。
「『強くなりたい』と、お前は言ったな。その通りだ、お前には強くなる必要がある」
「でも、今は時間が。一刻も早く、魔界に行かなくちゃいけないんだろ」
「そうだ。そこで、これだ」
 ばさ、と細長い布が広げられた。黒地に赤で不思議な紋様が描かれている。
「ソレ……さっきの“秘密兵器”?」
 胡散臭いと彼が思った、例のブツである。
 用途不明。用法不明。やはり胡散臭い。しかし、何より胡散臭いのは、それを持つ人物の顔。
 歩夕実は不敵な笑みで頷いた。
「私が昔、開発した巫呪布(ふじゅふ)だ。壮一も使ったことがある」
 さて、と歩夕実が改めて尋ねる。一瞬で刀が研ぎ澄まされたかのように、その顔つきが変わった。
「命を懸ける覚悟はあるか?」
 威圧感があった。心の奥底を問い質すような、試すような気迫。瞬時に衙は感じ取った。例え話や気構えなどではなく、本当に、命を懸けねばならないのだと。
「それしか、無いのなら」
 強い思いを宿した瞳が、答えた。
「それしか、二人を助けるだけの強さを得る方法が無いのなら、何だって懸ける」
 迷いは無かった。全てを諦めたと思った夜に、命なら一度捨てていた。いや、この十年間、ずっと捨てたままだったのかもしれない。自分の命に価値など無いと、見放していた。
 やっと手に入れた、自分の意思で動く命。誰かのために戦う意志。だからこそ懸けることができるのだと、そう感じる。
「二人を助けられなきゃ、何の意味もないんだ。母さん、頼む」
 よし、と歩夕実は満足そうに笑った。広げた布を衙に手渡す。
「それじゃ説明を始める。使い方は簡単、包帯みたいに体に巻いて端と端を合わせる、それだけだ」
「それでけで、強くなれるっていうの?」
 訝しげな顔の息子に、歩夕実はまあ待て、と話を続けた。
「原理を説明しなきゃならん。この布に描かれている呪式は、“降魔の能力”を封じるものだ」
「つまり……ウェイトのようなもの? 負荷のかかった状態で“能力”を使って、鍛えるってこと?」
「負荷とか、そんな生易しいものじゃないさ。これは極めて濃度の高い、喩えるなら麻酔だ。……“降魔の能力”が、元を正せば生命エネルギーと同じだってことは知ってるな?」
 衙が首を縦に振る。
「この布を身に纏った者は、“能力”――即ち生命力のほぼ全てを封じられる。仮死状態に陥ると思ってくれればいい。つまり、生存に用いているエネルギーを強制的に抑え込み、肉体を死の淵に追いやることで、普段は使われていない潜在的な“能力”を呼び起こす」
 衙が説明を理解するにつれて、その術の恐ろしさもまた、彼に伝わった。命を懸けろ、と言われた意味がようやく実感できた。
「成功する可能性は僅か。眠ってる“能力”が目覚めなきゃ、そのままあの世行きさ。危険すぎる、ってことですぐに廃止された呪式だよ」
 それでもやるのか、と歩夕実はもう一度訊いた。
「一度身に纏えば、外部からの力では外れない。真綿で首を絞められるように、じわじわと苦痛は増し、およそ半日で死に至るだろう。それまでに、呪縛を打ち負かすだけの“能力”を、お前が開放できるかどうかだ」
 地面に着くほどの長さの布を、衙は固く握りしめた。脳裏に過るのは、最後の涙。掴むことの出来なかった、黒球の内側。
 もう二度と、あんな思いはしたくないと、そう思った。もう二度と、あんな思いはしないと、そう誓った。
「くどいね、母さんも」
 そう言って微かに笑った息子の顔に、歩夕実は目を疑った。長い睫毛を数回上下させ、まじまじと見つめ返してみれば、それは確かに息子の顔だった。
 しかしほんの一瞬、あの笑顔に見えた幻影(かげ)は。
(壮一が、蘇ったのかと思った……)
 優しい瞳は、驚くほど似ていた。落ち着いた声は、どこか懐かしかった。
「じゃ、ちょっと行ってくるよ」
 衙は母に背を向けた。
「行くって、何処へ?」
「瀕死に陥ってる醜態は見せたくないし……それに、努力は人が見てないところでするものだろ?」
 楽しそうに笑った彼は、ますます父親に似て見えた。言った内容までそっくりだったことは、歩夕実しか知らない。
「半日経って帰って来なかったら、その時は……」
 そこまで言って、衙は(かぶり)を振った。いや、そんな話はやめとくよ。
「俺は死なない。父さんと同じように、成功させてみせるから」
 玄関の扉が閉まる音で、ようやく歩夕実は我に返った。渋い顔で、椅子に腰を下ろした。どうにも癪だった。ついこの間まで未熟な子どもだと思っていた息子に、こうも振り回されるとは。
「変わるモンだねェ……」
 鼻で一度笑って、歩夕実は立ち上がった。たったの数十秒間、彼女を支えていただけの椅子が、がたりと揺れた。
「さて、私も頑張らないとな」
 退魔集団を抜けてから、巫呪に関連する研究からは遠ざかっていた。知識と記憶を今一度、呼び覚まさなければならない。 
 二階の書斎へと続く階段を上る歩夕実の脚が、家の中に軽快な音を響かせた。

*  *  *

 『時白』の禁書庫の警備は堅い。出入りと閲覧を許されるのは、各家の長くらいのものである。しかしそれにも、仁斎の許可が要る。
 木製の開き扉には大きな錠がおろされ、その鍵は別の部屋で保管されている。ちなみに扉は三重で、もちろん鍵も三重である。さらには個々の資料を収める棚にも、ひとつひとつ鍵がかけられている。
 鍵の保管部屋の方は常に番がいる状態である。番と言っても、かなり武術に長けた者ばかりなので、そうそう盗み出せるようなものではない。
(董士の奴、一体どうやって入ったのだ)
 閲覧の申し出にあっさりと不許可をくらい、すすきは禁書庫の扉の前で頭を抱えていた。魔将襲来から一夜明けたばかりだというのに、その管理には僅かの乱れもなかった。憎らしいほどに。
 『時白』の長の孫だといっても、見られない資料は見られないものである。
『まず、仁斎様の御許可をお取りになってから――』
 そう言われてしまった。
 祖父の許可など、取れようもない。事情を話せば、断絶した『柊』には関わるななどと言われるのが落ちであろう。
(いや、お爺様のことだ。きっと全ての事情は既に把握しているに違いない)
 真人が連れ去られたことも、魔界側に“獄門”を開く材料が揃ったことも。
 目覚めてから一度も祖父には会っていなかったが、常磐に聞いた話では、仁斎は傷を負ったものの幸い軽症で、手当ては済んでいるとのことだった。
 駄目元で行ってみようかとも思ったが、魔界に行こうとしていることを知られるのが怖かった。それこそ、間違いなく止められる。栞と真人を助け出せるかどうか解らない、そんな不確かな確率に基づいた行為を仁斎は禁じるだろう。それよりも、人間界に留まり、“獄門”の開放に備えるべきだと説くだろう。たとえ、真人が捕らえられ、生命の保証がない状況であるとしても、だ。
 そうやって、退魔集団は存続してきたのだから。大儀の前に小儀は意味を失う。多数のために少数を切り捨てる。十年前、『高瀬』にそうしたように。
(魔力を蓄積するためのあの石の所在も、誰に聞いても知れぬし……これからどうしたものか)
 吐き出す息に落胆が混ざる。こういう時、董士がいてくれればと思わずにはいられなかった。しかし、その彼が意識を失っているのでは、それも無理な注文だった。これ程までに彼に頼っていたということを、彼女は今更ながらに自覚した。
 足音が耳に届いた。板張りの廊下を軋ませて、誰かが歩いて来る。鈴の音のような微かな金属音も、足音に混ざって聞こえた。
 足音とは逆方向の廊下の角に身を潜めると、すすきは音の主を待った。次第に近付いて来る音に耳を澄ますと、鈴の音を生み出しているのは鍵の束であろうということが予想できた。屋敷のこの区画に来る者など、目的は禁書庫以外には考えられないし、となれば入るのに必要な鍵を所持している筈なのだ。すすきのように何とか忍び込もうとしている輩でなければ。
 チャンスだ、とすすきの胸が高鳴った。
(多少手荒な真似になるが已むを得まい)
 背後からポカリと一発、それがすすきの描いたシナリオであった。誰かが来るのを期待していなかったといえば嘘になる。僅かな可能性を願って、扉の前で待っていたというのが本音だった。
 大きな鉄の輪に通された無数の鍵が、ようやく彼女の視界に入った。廊下の薄闇の中、持ち主の顔はまだ判別出来なかった。
 その人物が扉の前で脚を止め、鍵の束を調べ始めたところで、すすきは飛び出すべく身構えた。相手が入り口の鍵を探すことに集中しているその瞬間を、狙うつもりだった。
 三、二、一、と胸の中でカウントして、すすきは俊敏な動きで角の陰から躍り出た。直後に、相手の顔が目に飛び込んだ。反射的に、すすきの体は動きを止めた。
 仁斎の硬質な視線が、孫娘を直視していた。
 一瞬、何か言葉に迷っているような素振りを見せた後で、仁斎は口を開いた。
「入りたいのか。此処に」
 僅かに後ずさりをしながら、すすきは無言で頷いた。仁斎の言葉は意外だった。即刻立ち去れ、と言われるに違いないと思っていた。
「行くつもりなのか……魔界へ」
 低く、しわがれた声が問うた。
 此度の返事は、無言ではなかった。
「友人を、助けたく存じます。たとえそれが、無謀と思われる選択であるとしても。成功する見込みが僅かであるとしても、諦めたくは無いのです」
 後ずさっていた脚を、逆に一歩踏み出す。
「理想論かもしれません。ですが、私は、足掻いてみたいのです」
 仁斎は深く嘆息すると、その瞼を下ろした。閉じられた目は無数の皺に紛れて、その中の一本に見えた。この人はこんなに年老いていただろうかと、すすきは奇妙な気持ちになった。
「飽くまで理想を求めるか」
 仁斎は鍵の束を持つその手を、すすきへと差し出した。
「そこまで言うなら、行くが良い。どうせ、止めても聞くまいと思っていた」
 鍵の束はすすきの手に収まる瞬間、驚くほど澄んだ音色で響いた。すすきは思わず視線をやったが、所々錆びた鍵はやはり古びたままだった。
「柊歩夕実の携わった研究資料なら、二六〇〇番代にある。先日お前が持ち帰った石も、探しているそうだな。儂の机の上に用意しておく。勝手に持って行くが良い」
 仁斎は口早にそう言うと、今来た通路を戻り始めた。
「行くのは勝手だが、すすき……必ず帰って参れ。これは命令だ」
 祖父の最後の言葉に、すすきはその背中に一礼した。鍵の束がもう一度、清涼な音をたてた。

「本当に、よろしかったのですか?」
 廊下を行く仁斎の後ろを、足音も無く追従して行くのは、常磐である。
「構わぬ。止めたところで、強行突破でも試みられたら堪らぬ」
 疲れた様子で、仁斎は眉間に皺を寄せた。
「結局儂は、すすきに甘いのやも知れんな」
「……今まで、ご自覚されておられなかったのですか」
 何を今更、とでも言いたそうな常磐の静かな声が返ってきた。




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