「あたし、あたし、心配したんだよ」
 涙声で言う澪の、相手の体に回した腕にきゅうと力が入った。強く抱きしめられた相手の顔色が芳しくないのを見て取って、衙は慌てて澪を止めた。
「す、すすきさん大丈夫……? 澪ちゃん、放して放して!」
 え、と間の抜けた声を出して、澪はその手を素早く引っ込めた。
「ご、ごめんすき姐」
 げほげほと咽ながら、すすきは笑った。瞳に滲んだ涙は、苦しかったせいでもあるが、自分の無事を喜んでくれた者への純粋な嬉しさでもあった。
「いや、気にするな」
 すすきは澪の頭をぽんぽんと叩くと、ありがとうと言った。いつもはひとつに纏めている黒髪は、今日は下ろしたままで、彼女が話す度にさらさらと揺れて見えた。
 スリッパの足音を響かせて、三人目の出迎えが玄関にやってきた。
「おやおや、君が時白の娘さん?」
 柊歩夕実です、よろしく。そう名乗って、歩夕実は微笑した。すすきも急いで名乗り返し、深々と一礼した。
「『時白』の、『柊』に対するこれまでの数々の行い……謝って許されるものでない事は重々承知しております。ですが、ここで祖父に代わり、謝罪の辞を述べさせて頂きたく存じます」
「断る」
 静かな声が、即座に切り返した。氷上に立っているかのように、皆の体が緊迫する。
「そんな言葉は欲しくないよ」
 鋭利な拒絶に、すすきは口を固く結んだ。歩夕実の漆黒の瞳が放つ強い光は、彼女の体を萎縮させた。
(そうだ、そう簡単に、許してもらえる筈がない)
 『時白』のした仕打ちを思えば、それは当然だと思えた。幾ら考えても許しを得る術は見つからず、やるせない気持ちの中、すすきはもう一度無言で頭を下げた。
「ああ、違う違う。もうどうでもいいんだ、そんなことは」
 頭上から投げかけられた言葉にすすきが面を上げると、気まずそうに苦笑している歩夕実の顔があった。ちょっとからかってみただけだよ、とでも言いたそうな顔だった。
「では、一体どういう……」
 戸惑いの表情を崩せないでいるすすきに、にこりと歩夕実は笑ってみせた。
「上がってコーヒーでもどうだい、すすきちゃん。息子の友達を追い返すような母親じゃないよ、私は」
 それが自らに対する許容であると数瞬の後に理解して、すすきは思わず笑みを零していた。
「喜んで頂きます」
 事の成り行きを見守っていた衙と澪のふたつの口から、同時にため息がほうと漏れた。

*  *  *

 董士は未だ、意識を取り戻してはいない。いつ取り戻すかさえも解らない。
 それが、すすきの話を締めくくる言葉だった。『青』の将の襲来、戦闘。そして“聖禍石”を奪われるまでの経緯。その結びの言葉は、それまでのどれよりも苦しそうに聞こえた。
「お前たちの側で起こった事も、ほぼ把握できた。そこで問題は、我々のこれからの動き方だ」
 董士の話を終えた後のすすきの凛とした声は、何処か無理に出しているようでもあったが、頼もしかった。
 ハイハイ、と澪が席を立つ勢いで手を挙げた。テーブルががたりと揺れる。
「決まってるよ。魔界に行って、お姉ちゃんと真人を助け出す」
 単純明快、そして安易。その意見を笑ったりはせず、すすきは静かに頷いた。
「その通りだ。つまり問題は、どうやって魔界に行くか、だ」
 不思議そうに首を傾げて、澪が訊いた。
「“門”を通って……じゃ駄目なの?」
「“門”は本来偶発的に、ごく稀に生じる物だ。“聖禍石”による任意生成など、特殊な例外でしかない。 “門”が偶然開いたところを探し出して通過するなど、奇跡に近い」
 苦々しくすすきは眉根を寄せた。
「他に何か、魔界へ行く道は無いのかな。例えば、特別な巫呪とか」
 衙の質問にすすきは、残念ながら、と答えて眉間の皺を一層深くした。
「何を見ても、そのような術は見つからなかった。聞いたことも無いしな」
 すすきが頭を抱えて深くため息をついたのを最後に、三人は沈黙した。明らかに手詰まりの状態だった。
 澪が、くっと顔を上げて、握り拳を作った。
「こうなると、やっぱ奇跡を狙うしかないんじゃないの。自然発生した“門”を探して、そこに飛びこむ!」
 非常に頼りない策ではあるが、他に手が無いので突っ込み様も無い。黙したままの衙とすすきに代わって、返事をしたのは歩夕実だった。
「魔界に行く方法なら、無くは無い」
 予想外の言葉に、三人の目が一斉に歩夕実を見た。落ち着いた様子で、歩夕実はコーヒーをすすっていた。
「昔、私が研究していた新呪式の中に、“聖禍石”の能力を真似たものがあったんだ。あれを成功させれば、魔界に行くことも不可能じゃない」
 三人の顔がぱっと明るくなるのを見て、歩夕実は言い辛そうに続けた。
「ただ、問題が幾つかある」
 声のトーンを落としたまま喋る母に、問題って、と衙が訊いた。
「一つ目、研究資料や呪法が私の手元に残っていないこと。二つ目、行使には大量の魔力が必要であること。三つ目、魔力を一時的に保持・蓄積する方法が考案されていないこと」
 頬杖をついて答える歩夕実の顔は、難しかった。
「一つ目についてだが、私が退魔集団を抜けたのは、呪式がまだ研究段階にある内でな。研究は途中で打ち切りになった筈だし、資料は全部……」
「『時白』、ですか」
 僅かに俯いたすすきに、歩夕実は首を縦に振った。
「しかし、それならば大した問題ではありません。私がその資料を、見つけ出します」
「そう簡単にはいかないと思うよ。多分、禁書庫辺りに回されてる筈だから。それにね、仮にすすきちゃんが資料を持ち出してくれたとしても、二つ目はどうする? 魔力ばっかりは、どうにもならないよ」
 重苦しく言う母に、思い付いたように衙が尋ねた。
「母さん、“降魔の能力”じゃ駄目なのかな」
「あくまで“聖禍石”をモデルとした呪式だ。特殊な巫呪陣に魔力を通し、エネルギーの性質を変換させて、異世界間の狭間に影響を与える。これは、“降魔の能力”では代わりが効かない」
 歩夕実が頬杖の隣にため息を走らせると、部屋の中は静まり返った。誰もが一様に、厳しい表情で口を閉じていた。
 ただ一人を、除いては。
「……魔力なら、あるじゃない」
 凛然とした瞳で、小さく澪がつぶやいた。
「あたしの魔力よ。つかさやすき姐は無理でも、あたしなら。あたしだって、お姉ちゃんと同じように、お父さんの血を引いてるんだもん。絶対、魔力があるはずよ」
「そうか、澪ちゃんが魔力を使えるようになれば……いや、やっぱり」
 一度開いた愁眉を再び閉じて、歩夕実は口ごもった。
「なに、あたしじゃなにか問題があるの」
 澪が、不安にその身を乗り出す。その拍子に肘がコーヒーカップに当たり、器に僅かに残った液体が音と波を立てた。
「澪ちゃん、魔力を扱うってのはそんなに簡単じゃない。勿論想像でしかないけど、それは“降魔の能力”を使うのと同じような技術だと思う。第一、澪ちゃんはまだ、魔力をカケラも持ち合わせていないじゃないか」
 歩夕実の口調は、あくまで客観的で冷淡だった。
「“獄門”が開放される前に二人を助け出そうと思うなら、一刻も早く魔界に行く必要がある。澪ちゃんが魔力を使えるようになるのを、のんびりと待ってはいられないんだ」
 澪は、言葉を失って目を伏せた。握りしめられた掌は元の色を無くし、白く変わっていた。
 きつく言い過ぎたか、と内心省みて、歩夕実は気まずそうに瞼を閉じた。
「まあ、現状じゃ澪ちゃんの魔力に期待するしかないんだけどね。よろしく頼むよ、澪ちゃん」
 黙ったまま、澪はこくりと頷いた。歩夕実の今の話を聞いた直後では、魔力を扱えるようになる自信は無く、頷くことしかできなかった。
「澪ちゃんの魔力覚醒の手はひとまず置いておくとして、残るは三つ目」
 魔力を一時的に保持・蓄積する方法。
「巫呪陣に描かれた通路を通って、魔力は“門”を開くエネルギーとなる。が、“門”を開くためには生半な量では駄目だ。通過途中で蓄積させた魔力を一気に変換させ、その爆発力で以って“門”を開く」
 額に手を当てて、悔しそうに歩夕実は舌打つ。
「理論的には可能なんだ。だが研究時、魔力を一定時間、同一空間に保つことは一度も成功しなかった。どんな巫呪でも物質でも失敗……元々、魔力を使った実験は殆ど出来やしなかったしな」
 我ながら言い訳がましいと、歩夕実はそう思う。“降魔の能力”は、天賦の才に拠る所が大きい。その才に恵まれなかった彼女が活躍できる場所は、研究分野くらいのものだった。少しでも退魔師をサポートし、その戦いに貢献したい――その思いが叶えられる場所は、研究分野にしか無かった。
 その場所で、肝心な時に役に立てない。歩夕実にとってそのことは、この上なく歯痒く、悔しかった。
 歩夕実の語った内容を頭の中で反芻しながら、すすきが唸った。その顔もまた、歩夕実同様険しかった。
「確かに、魔力を留める術など……反射系や吸引系の応用でも、難しいな」
 待てよ、封印系なら。あの術をあの術と連携させて。いや、やはり無理だ。忙しなく独りごちるすすきの口を見ながら、衙は奇妙な感覚を抱いていた。
(『魔力を』、留める……『蓄積』する……『蓄積していたのは』?)
 何だ、と思った。妙に聞き覚えがあった。そう昔のことではない。つい最近、確かに聞いた筈のフレーズだった。確かに、何処かで。
(どこで、一体どこで)
 あと少しで思い出せそうなのに、出てこない。気持ちが悪い。脳がぐるぐると回転させられているようで、乗り物酔いに似た気分になる。
(あれは、確か、“耀鍛(ようたん)”を)
 “耀鍛”を、初めて成功させた戦いの。
 曇天の雲の上に出たように、その時突然、衙の視界が明るくなった。
『これのようだ、魔力を蓄積していたのは』
 耳に飛び込んで来たかのごとく、蘇って響く声の主は。
(董士の、声?)
 そうだ、と叫んで衙は立ち上がった。撥ね飛ばされた椅子は、騒々しく二回転半を決めた。
「すすきさん、あの機械に使われてた石だよ!」
 彼らの知らぬその機体の名は、“魔操皇機”『灼炎』。
「『朱』の魔力で動いてた、あの機械。あれを動かしてた石なら……!」
 そうか、と叫んですすきは立ち上がった。撥ね飛ばされた椅子は、騒々しくドリフトを決めた。
「あれは今、『時白』の研究機関で預かられたままの筈……」
 私に任せろ、と力強くすすきは言い切った。
 話の流れを理解できず、ぱちぱちと目を瞬く歩夕実に、すすきは向き直った。
「あるのです、魔力を蓄積し得る物質が。魔界の輩の落し物が」
「本当か、すすきちゃん」
「敵に回収しようとする素振りが無かったところを見ると、魔界では然程(さほど)貴重な物質でもないのでしょう。石ころ程度の価値しかないのやも知れません。しかし、人間界にとっては――」
 すすきの言葉を、歩夕実が引き継いだ。
「最高の宝石だ」
 口紅の赤が、綺麗に曲がった。どうやら奇跡が見えてきた。




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