第二十八話  「奇跡への三段」


 付いた血を洗い落とすというだけでも、今の衙には重労働だった。少し体を動かす度にあちこちから悲鳴が上がるのだから、無理もない。昨夜は神経やら感覚やらが半ば麻痺した状態だったからあまり気にならなかったものの、正気に戻ってみればこれは中々の大怪我だった。明らかに、病院直通コースである。
 だが、入院している訳にはいかない。時間的余裕は殆どない、と彼の母親は言った。私の応急処置で我慢してもらう、色々と話すこともあるがその前にとりあえず体をキレイにしろ、と。
 新しい服に身を包んで、衙はリビングの扉を開けた。ベーコンの焼ける香ばしい匂いが、部屋の中に広がっていた。食卓を見ると、トーストと目玉焼き、という簡素ながら定番の献立が並んでいた。
 フライパンとフライ返しを両手に携えた歩夕実が、キッチンから姿を現した。
「おう、さっぱりしたか」
 カリカリに焼けたベーコンを皿に移しながら、歩夕実は衙に声をかけた。ちょっと待ってろ、と言いながら彼女はキッチンに引っ込み、フライパンの代わりに何かの小瓶をその手に抱えて戻ってきた。
 どん、と力強くテーブルの上に瓶を置いて、歩夕実は短く言った。
「飲め」
 その目に何処か怪しげな光が宿っているように見えるのは、衙の気のせいだろうか。透明のガラス瓶に入った液体は、ホウレン草とカボチャと人参を足したような色をしていた。
 半ば絶句しながら、衙は恐々として訊いた。
「かあ……さん。何、ソレ」
 まさか、毒。衙の言葉に、歩夕実は眉を吊り上げた。
「失礼な。薬だ、薬」
「ありえないような色をしてるんですが」
「特別製だ。御託はいいからさっさと飲め」
 おそるおそるその瓶を手に取ってみる。容器内の液体は、ぽこぽこと泡をたてていた。“魔女スープ”、そんな言葉が彼の脳裏を過ぎった。
 踏ん切りの悪い息子に、歩夕実はやれやれとため息をついた。
「栞ちゃんと澪ちゃんのお父さんに感謝するんだな」
「え?」
「その薬の作り方を教えてくれたのは、マトアさんだ」
 歩夕実が彼と顔を合わせたのは、ほんの僅かな時間。その時にマトアが渡してくれたのは、手帳の切れ端だった。中には、薬の材料と製法が記されていた。見慣れぬ名前も多く並んではいたが、それはどれも人間界で手に入る物質だった。
 魔界と人間界との生態系の違いに苦労し、代替性のある材料の合成を研究して、マトアがようやく見つけ出した製法だった。一種類の薬を作るだけで、何年もの歳月を要した。
 精製に時間がかかるのが難点ですが、何かのお役に立てば幸いです、とマトアは言った。あの時手元に薬が残っていなかったことを、彼はどんなに悔やんでいたことだろう。尤も、作れるようになった薬は魔界では初級レベルのものだったから、瀕死の娘の命を救うには、どちらにせよ魔術を使わざるを得なかったのだが。
 歩夕実の記憶に残る、一枚の紙切れを手渡す時の彼の哀しげな表情。既にその時、彼は己の死を覚悟していたのだろう。私にはもう、薬を作ることはできないでしょうから――そんな声すら、今思い返せば聞こえてきそうだった。
 母の話を聞き、衙は顔を引きしめると、一息に液体を飲み干した。外見を裏切らない味だったが、辛うじて逆流は防いだ。悶絶はしかけたが。
 空になった小瓶を卓上に戻すと、息も絶え絶えに衙は言った。
「飲んだ、よ」
 歩夕実は何かを観察するように、じっと息子の様子を見つめている。舐めるような視線を疑問に思って、衙は母に訊いた。
「何、まだ何か問題でも」
 いや、と歩夕実は言葉を濁して言った。
「平気か? 心臓が動かなくなったりとか、呼吸が出来なくなったりとかは?」
「気絶するほどまずかったけど、飲んじゃえば別に……」
 そうかそうか、と歩夕実は安心したように満面の笑みを浮かべた。
「いやな、実はどうしても足りない材料がひとつふたつあってなぁ。結局、適当に誤魔化したんだが……そうか、大丈夫か」
 良かった良かった、と歩夕実は嬉しそうに笑った。
 衙は急に、胸の辺りがもやもやとしてきた気がした。
(薬って、分量間違えたら毒にもなるんだよな……)
 一歩間違えれば、洒落にならない事態であった。今はただ、あの液体が本来の役割を忘れないでいてくれることを心から願うばかりである。
 母親の中では、薬の件はもう完全に解決したらしい。あとはこれだ、と歩夕実は妙な紋様が描かれた布を取り出した。
「今度は何?」
「秘密兵器だ」
 即答した歩夕実に、胡散臭い、と衙は思った。
「まあ、これは話が終わった後だ。先に怪我の手当てを済ませて、ひとまず朝飯にしよう、冷めない内にな」
 扉の曇りガラスに見える影に向かって、歩夕実は一言付け足した。
「もちろん、澪ちゃんも一緒に、な」
 扉が開いて、少しはにかんだ表情の澪が顔を出す。心配そうな彼女の瞳が、衙を見やる。昨晩の彼の姿を、澪の心はまだ思い描いていた。
 気まずそうに頬を掻いて、衙はゆっくりとした口調で言った。
「ごめん、澪ちゃん。もう大丈夫だよ」
 彼の笑顔に絆されたように、澪の口元が緩んだ。彼女の白い歯が、元気良く笑った。
「おはよう、つかさ!」

*  *  *

 食後のコーヒーを飲みながら、歩夕実は話し始めた。気品在るまろやかな風味のトラジャ・カロシは、歩夕実のテイストである。
「澪ちゃんとお前から聞いた話を整理すると、だ」
 二十一年前、当時の『白』の将であったマトア・テーゼンワイトが魔界から“聖禍石”を持って逃亡。
 十年前、捜索を続けていた魔界側が彼を発見。が、“聖禍石”の奪還には失敗。マトア・テーゼンワイトは死亡、『白』には“聖禍石”を扱えるだけの人物が居なくなる。
 “獄門”開放に向け、魔界側は“聖禍石”に加えて前『白』の将の娘も捜索開始。そして現代、マトア・テーゼンワイトの行使した封印術の効果が薄れ、“聖禍石”の所在が判明。数度に渡る退魔師との交戦の末、“聖禍石”と高瀬栞の確保に成功。
「――と、まあこんなところか?」
 こくりと、衙と澪が頷く。
「昨日の夜、すき姐に電話したの。でもつながらなかった」
 不安を隠せない声で、澪が言った。
「後から現れた青くて長い髪の……“魔将”って言うの? 確かに持ってたよ、お父さんのペンダント」
 それが何を意味するのかは、衙にも理解できた。
 昨夜、『朱』の将は言った。“聖禍石”のところには『青』の将が向かっている、と。そして、『青』の将は“聖禍石”を手中に収めていた。つまりそれは、守っていた者たちが守り切れなかったということ。
「すき姐ととーじ、無事なのかな」
 コーヒーカップを両手で固く握りしめて、澪はぽつりとつぶやいた。
 衙には、傷つき倒れた退魔師たちの姿が、容易に想像できた。そしてその中には、すすきと董士もいた。あの二人が簡単に負けるとも思えなかったが、結果から遡って考えれば、それは明白な事実に感じられた。
 しかし、予想や憶測だけで悲観的になっている場合でもない。事態は最悪の方向へと動き出してしまったのだから。
「すすきさん達には、また後で連絡しよう」
 安易に「きっと大丈夫だ」とも言えず、さりとて自分の考えを正直に口にすることもできず、澪の問いかけに衙は敢えて答えなかった。
 強張った声で、衙は母に向かって言った。
「三人の魔将は、既にそれぞれの色の“聖禍石”を持っているみたいだった。魔界側に、四つ全ての“聖禍石”が揃ったってことだよね」
 そして、『白』の“聖禍石”を扱い得るだけの魔力の保有者――テーゼンワイトの血を引く者をも奪われた。つまりは、“獄門”を開く全ての材料が、魔界側に揃ったということ。
「一刻も早く、手を打たないと」
 まあ、慌てるな。歩夕実の声が、焦燥と動揺を抑えきれない息子を制した。
「私の記憶に間違いがなければ、“獄門”が開くのは新月の晩。魔界と人間界との波長が、最も同調する日だ。昔読んだ文献によればな」
 コーヒーを一口すする。
「次の新月は十一日後の五月十日。おそらくはその日、魔界で開門の儀式が行われる。だから、少なくともそれまでは“獄門”は開かないし、栞ちゃんは無事な筈だ」
 ただ、といい辛そうに歩夕実は続けた。
「真人くんがどうなるかは……正直、予測がつかない」
 澪は黙って目を伏せた。何といって良いのか解らず、言葉は出なかった。澪を見つめる二人も、言うべき言葉が見つからなかった。
 沈黙を破ったのは、玄関のチャイムの音だった。
 俺が出るよ、と言って衙が席を立った。廊下を通る時に、おやと思った。白い包帯でぐるぐる巻きにされた体が、軽くなっていた。痛みも和らぎ、歩くくらいなら殆ど感じない。薬が効いたらしい。
(本当に、マトアさんに感謝しなくちゃな……もちろん、母さんにも)
 考えながら玄関の扉を開けた衙を待っていたのは、彼が予想もしなかった訪問者だった。
 いや、本当は予想していたのかもしれない。こんな朝早くにやってくる訳在りの訪問者など、候補は限られていた。ただ、彼女が無事でない可能性の方が高いと思っていたから、衙は驚かずにはいられなかった。
「連絡しようと思っていたんです。話さなきゃいけないことが、訊かなきゃいけないことが、沢山――」
 彼の言葉を遮って、訪問者は言った。
「解っている。こちらも、話さねばならぬことと訊かねばならぬことが山程在る。そちら以上にな」
 突然、ダイニングのドアが開いたかと思うと、ひとつの影が銃弾の如く一直線に廊下を突っ切った。けたたましい物音に振り向いた衙の目に映ったのは、こちらに向かって突進してくる澪の姿だった。
 どうやら彼女は、訪問者の声を聴きつけて、いてもたってもいられなくなったらしかった。
「すき姐ぇー!」
 その名前を叫んで、澪は走ってきた勢いのまま訪問者に抱きついた。




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