第二十七話  「目覚めの音」


 遠ざかる後姿に、待てと叫んだ。しかし、彼はこちらを振り返ることもなく、その像はますます小さくなってゆく。長い黒髪を、緩やかにたなびかせて。
『お前はまた、怒るだろうな』
 別れ際に聞いた声が、頭の中をこだまする。
 すすきは必死で答えた。ああ、怒るとも。怒らずにいられるか。お前はどうして、いつもそう自分勝手なのだ――。
 董士、とその名を呼んだ瞬間、目が覚めた。全身に、汗をびっしょりとかいていた。
 布団の中に包まれていた体をのろりと起こすと、すすきはまだ焦点の合わぬ瞳で周囲を見回した。畳の匂い。見慣れた机。簡素なデザインで統一された家具調度。数瞬の後に、彼女はここが自分の部屋であるということを理解した。
 起き上がった拍子に落ちた濡れ手ぬぐいを拾い上げ、すすきは頬に当てた。自分の体温を吸収してぬるくなった手ぬぐいは、妙に胸を落ち着かせた。
 縁台に続く障子が、するりと開いた。まだ夜半らしく、隙間から覗いた空の色は闇に満ちていた。
「お気付きになられましたか、すすき様」
 冷水で満たされた洗面器を抱えた女性が、安堵の声で言った。“影役”の一人で、名を常磐(ときわ)と言う。すすきがまだ幼い頃から、世話役のような形で彼女に仕えてきた人物である。時には一緒に遊んでくれ、時には厳しく叱ってくれた。すすきにとっては、実の姉のような存在である。
 すすきは、掠れるような声で彼女に訊いた。
「……董士は」
 そんな頼りない声になってしまったのは、返ってくる答えが半ば予想できているからだった。彼を信じないわけではなかったが、対峙した相手があまりに強大でありすぎたことも事実だった。
 すすきの短い言葉だけで、常磐には十分伝わったようだった。その端正な顔立ちに、一瞬影が差す。
「董士様は……まだ意識がお戻りになられていません」
 壮絶な戦いでした、と彼女が続けた内容は、董士と『青』の将との戦闘の顛末だった。
 実力の差は歴然だった。最初から敵うはずはなかった。故に彼は、ひとつの賭けに出る。自らの“降魔の能力”の制御限界を無視した、“能力”の暴走による攻撃。それは自爆とも呼べる一手だった。
「『青』の将は冷静でした。董士様の剣に氷結魔術を用い、その威力を最小限に押さえ込んだのです。そのお陰、というのは妙かもしれませんが、“能力”の暴走も抑制され、董士様は一命を取り留めました。ですが、今はまだ予断を許さない状態です」
 常磐は極力、淡々と語ろうと努めているようだった。
 単に即死を免れたというだけで、彼が完全に助かったという訳ではない。それでもすすきは、まだ董士が生きているという報告を聞いただけで、全身の力が抜けるような思いだった。
 すすきの隣に膝を着き、常磐は洗面器を置いた。
「『青』の将は“聖禍石”を奪い、去りました。多くの者が傷付き、治療を受けています」
 常磐はすすきの手から優しく手ぬぐいを抜き取ると、冷水ですすぎ、固く絞った。水の奏でる音が、すすきの耳に心地よかった。
「すすき様も、今はお休みになって下さい。連夜の結界術に昨夜の戦闘……ここ数日、かなりのご無理をなさっておられたでしょう」
 常磐はすすきの肩を押しやると、布団に寝かしつけた。綺麗に畳まれた手ぬぐいが、すすきの額に宛がわれる。
 一度横たえられたすすきの体には、起き上がる力が残っていなかった。夢の世界に引きずり込まれそうな意識の中で、すすきの瞼がとろりと落ち始める。
「私の無理など、皆に比べれば大したものではない。常磐、お前だって傷だらけの体だろうに」
 常磐は答えず、優しい笑みを返しただけだった。
 そしてそのまま、すすきは再び深い眠りに落ちていった。彼女の穏やかな寝息に、常磐はまた微笑んだ。

*  *  *

 夜は更ける。時の流れだけは、いつもと何ら変わりはない。無情なほどに。
 堕ちた心は、やはり堕ちたままだった。
 暗闇と静寂に満たされた部屋で、衙はまだ眠りについてはいなかった。色を失くした瞳は開かれたままで、しかし何も見てはいなかった。彼には意識があったが、それは静止した思考だった。精神が動きを止めた状態を眠りと呼ぶのならば、それは眠っているともとれた。
 起きたまま眠っている。生きたまま死んでいる。彼の周りの時だけが流れてゆく。置いていかれる感覚。取り残される感覚。そのどちらも、今の衙には恐れも悲しみも痛みももたらさない。ただ感覚が存在するだけだった。
 負けてしまったから。守り切ることが出来なかったから。己の存在の価値は、その全てが消失した。
 声が聞こえていた。衙の頭の中で、無数の声が鳴り響いていた。
『父さんを殺したのは――俺なんだ』
 ――嘘だ、心の底では他人のせいだと思ってるくせに。そうやって、傷付いたフリをしてるだけだ。
(汚い)
『俺が栞さんを護るのは、俺の意思だから』
 ――ああ、そうだよ、俺の意思だ。栞さんを守れば、生きるための資格が手に入ると思ったからさ。
(汚い、汚い、汚い)
『俺はね、嬉しかったよ』
 ――そりゃあ嬉しいだろうよ。逃げ道が見つかったんだから。やっと責任から逃れることができると喜んだんだ。
(俺は……何て汚い)
 考えているわけではない。ただ、彼の頭の中で鳴り響いている。脳が直接殴打されているかのように、痺れるくらい激しく。
 重力で、壁にもたれかかっていた背中が緩やかに滑り落ちた。首だけを残して、全身が床に着く。
 ツンとした刺激のある匂いが、不意に衙の鼻を衝いた。視界には、銀色のバットが映った。澪の置いていった、今日の晩御飯だった。
 頭の中で今度は、澪の言葉が響きだした。
『つかさのバカ、意気地なし、臆病者!』
 彼女の言う通りだと、彼自身解っていた。受け入れてしまっていた。そのためか、彼女にそう言われても少しも痛みはなかった。悔しくも、情けなくもなかった。
 けれど、澪の言葉の中にたったひとつ、妙に重い響きを持つものがあった。
『お姉ちゃんの最後の料理かもしれないんだからね』
 最後の、料理。
 最後の。
 気付いた時には、手が動いていた。動かそうと思ったわけでもなく、食べたいと思ったわけでもなかったのに、彼の手はバットに伸びていた。意思は皆無に等しかった。それでもそれは、彼の体が数時間ぶりに見せた、主体的な動作だった。
 トマトをひとかけらつかむと、口に運んだ。噛みしめると、酢の酸味が口いっぱいに広がった。
 何時間にも渡って漬けられたマリネは、おいしくはなかった。飲み込んだ後も、刺々しい痛みだけが口の中に残った。
 衙の虚ろな表情が、何かの糸が切れたように、歪んだ。
「すっぱすぎるよ、栞さん……」
 涙に滲んだ声が、喉の奥から掠れ出るのと同時に、両目から本当に涙が溢れた。冷たくなった体と心に、熱すぎるくらいに熱くしみわたった。
 夜空に花火が開くように突然、彼女の声が一遍に蘇った。耳に懐かしいのはなぜだろう、と思った。
『どうかしているのは、衙さんの方じゃないですか?』
 ――そうだよ、俺がどうかしてたんだ。
『いつもの、いつもの衙さんじゃないみたい』
 ――これが、俺の本当の姿だよ。
『嘘をつかないで下さい!』
 ――どうして、俺を見抜いてしまうんだ。
 どうして、と衙の頭は繰り返した。彼女にだけは気付かれたくなかったのに。彼女だけが、本当の自分に気付いた。
 価値も資格も失って、自分を必要とするものも自分が必要とするものも無くなったはずだった。負けたのだから。守れなかったのだから。
 自分の意味も、自分の周りのあらゆるものの意味も、全てが無くなったはずだった。何からも求められず、何も求めない。何も求めない、求める意味すら無くなったはずだった。
 何もかもがどうでもよかった。何ひとつ、自分には残っていないと思っていた。全てを諦めたつもりだった。
 だのに、と彼の心は叫んだ。
 諦め切れない思いが、たったひとつ残っている。
 今、こんなにも、彼女に会いたい。
 自分の価値を証明するための言葉など、もう要らないのに。
 今、こんなにも、彼女の声が聞きたい。
 打算も策略も損得も何もなく、ただ純粋に、単純に、心の底から。
 狂おしいほどに望むのは、それだけ。
 たったのそれだけが、もう二度と戻らないということに、衙は今更ながらに気付かされた。他の何を失っても抱かなかった喪失感が、体を引き裂かんばかりに湧き出た。
 栞さん、と何度も何度も呼んだ。
 涙は零れ落ちるそばから溢れ出た。留まることの無い涙に耐え切れず、衙は目を閉じた。
 音。
 その音は突然訪れた。
 涙に濡れた瞳は大きく開いて、音を見た。その音は、あたたかく笑っていた。さあ起きて、と彼を優しく揺さぶってくれた。
 耳に聞こえるのは、自分を起こす声。夜の終わりを告げる声。もう、起きてもいい時間ですよ――。
 ベル。
 目覚まし時計。青い目覚まし時計。彼女の選んでくれた、目覚めの音。
 地球に似た青い球形の時計が、誰もいないベッドの枕元で鳴っていた。主人に止めてもらうことを、激しく要求していた。ご主人様、気付いて下さい。私を止めて下さい。そうすれば、あなたにも解るはずです。今ならまだ、間に合うはずです。
 ああ、そうか。
 衙は思った。夜は明けるのだと。
 自分が怯えていたのは、明けない夜。ありもしないもの。そんな簡単なことにも気付かずに、怯えていたのだ。
 存在しないものから必死で逃げようとして、ひとりで転んで倒れただけだったのだ。
 自分を照らす光から懸命に視線を逸らし、頑なに目を閉じ続けていただけだったのだ。
 朝が来ていることを知ろうともせずに、眠り続けていただけだったのだ。
 それならば。
 それならば、起きよう。
 彼女のくれたこの音は、そのための音なのだから。

*  *  *

 リビングのドアが開く音に、歩夕実は眠りから覚めた。いつの間にか、テーブルに突っ伏して眠ってしまっていたようだった。
 窓から差し込む柔らかな光が、朝の到来を告げていた。まだ薄暗い室内に届く、小鳥のさえずり。ゆっくりとした時間が、部屋を包んでいた。
 歩夕実は、音のした扉の方を振り返った。そこには、彼女の息子が立っていた。
 驚きと不安を微かにその顔に浮かべて、彼女は息子に何かを言おうとした。かける言葉は思いつかなかったが、とりあえず、名前を呼ぼうとした。
 相手の顔を見て、彼女は半ば開いた口を止めた。そして、一度閉じると、そこに安らかな笑みを湛えた。
 衙の瞳には、光が宿っていた。まだ何処か危うい、それでも確かな強さを秘めた光。
 ふっ、と鼻で笑い、からかうように歩夕実は訊いた。
「ようやく、お目覚めのようだね」
 衙は、眉根を寄せながら、しかし歩夕実の目を真っ直ぐに見て、言った。
「母さん。今になって、やっと、俺……」
「いいさ」
 衙の言葉を途中で遮って、歩夕実は言った。全てを聞かずとも、目を見れば解った。それで十分だった。
 歩夕実は嬉しそうに、にやりと笑った。
「人生、時には――寝坊もあるもんだ」
 呆気に取られたような顔で二・三度瞬きした後で、衙も母に笑みを返し、力強く頷いた。
「母さん、俺は二人を助けたい。そのために、強くなりたい」
 それは、彼の意思。偽らざる彼の心。
 長い長い眠りから起きたばかりの、ようやく見つけた自分。




Copyright (c) Takamura Machi. All Right Reserved.