「全部、自分だけのためさ。澪ちゃんを助けたのだってそう。そうやって人を助けて、感謝されて、『俺が生きてるのは無駄じゃない』って思う必要があったんだ」
 だってそうだろ、と衙は続けた。
「俺は生きていることそれ自体が間違いなんだから。贖わなきゃ、生き続けることが許されないんだから」
 求めたのは、追い続けたのは、生きるための資格。
「父さんを殺してまで生き残った、それだけの価値が必要だったんだ」
 だから必死で戦い続けた。戦うことが、自分の価値を証明する唯一の手段だった。負けることは、自分の価値を否定されること。それは死に等しかった。だから、負けるわけにはいかなかった。だから、命を懸けて戦うことに恐怖は無かった。
 足を止めれば追いつかれる。それが何より怖い。追いつかれないために、追い続けた。
 彼の瞳を直視できずに、思わず澪は俯いた。十年前にできた彼の傷痕は、今でもまだ塞がってはいない。赤く流れる血が見えた気がして、伝わってくる痛みに耐えられなかった。
 どうして、と澪はつぶやいた。
「どうして、そんな、そんな風に、自分を自分で見下すの。あたしだって、お姉ちゃんだって、誰もつかさが悪いなんて思わないよ」
 澪は、自分の頬を涙が伝ってゆくのを感じた。熱かった。
「つかさはずっと、そうやって自分を傷付けて、苦しんで、苦しみ続けて。罪があったとしても、もう許されてるよ。価値なんて必要ない……つかさが自分のために戦ってたんだとしても、あたしたちを助けてくれたっていうことに変わりはないもの」
「それだよ」
 冷たい声が、即座に切り返した。
「俺もね、そう思ってたんだ。だから今までやってこれた」
 でもね、気付いてしまったんだ。彼の口は、ますます綺麗な弧を描いた。
「茨の道すら、作り物でしかなかったってね」
 歩夕実と澪は、彼の言葉の意味を理解することができなかった。ただ、そのある種異様とも言える空気に呑まれて、二人の体はしばし動きを忘れた。
 彼の口からは、白い歯が覗いていた。堪え切れないといった様子で、その隙間からは可笑しそうな息が零れた。
「『こんなに傷付いたんだから、君はもう罪を償ってるよ』って、許されるために自分を責めてたんだ。自分で作り上げた茨の道を歩いて、傷付くことで許されようとしてたんだよ……傷付いたフリ(・・・・・・)をすることでね」
 今なら、夢で聞いた父の声を、衙は完全に理解することができた。夢の中で、衙は『違う』と叫んだ――自分のこの傷は本物だ、と。『違わないさ』と父は言った――お前は、本当は、傷付いてなんかいないのだ(・・・・・・・・・・・・)、と。
 衙は、蔑むように笑い続けた。
「『自分のせいだ』って自分を責めて、傷付いたフリをして。傷付くことが贖罪になると思ったから、傷付こうとしてたんだ。全ては自分が救われるため、自分のため」
 でも、と衙の口が動く。
「本当は、誰かのせいにしてるんだよ。心の奥では、俺のせいじゃないって思おうとしてる。他の誰かに責任を求めてる。上辺だけの傷で許されようとして、本当は痛みを避けてた」
 彼の笑顔は、いつの間にか笑顔ではなくなっていた。口の端は上がったままなのに、泣き顔の印象だけが表情を埋め尽くしていた。
「栞さんと澪ちゃんのお父さんの話を聞いた時、無意識に喜んでた。これで逃げ場が見つかった――俺以外に、責任追及されるべき対象があった、ってね」
 安全な場所。誰も自分を責めない場所。けれどそれは、脆い心が作り上げた、まやかしの逃げ道。そして、彼はそこに逃げた。
「だから、手が届かなかった。心の何処かで、楽な方に逃げて、栞さんのせいにしてたから、だから届かなかった。栞さんのせいだと思いたがってる自分がいたから、届くはずの手が届かなかった」
 闇に溶けた彼女の姿。その顔。涙。今も焼き付いて離れない。
 そして、思い知った。
「……結局、俺の汚さを証明しただけだったよ」
 そこまで言って、衙は顔を伏せた。
「出てってくれないか、二人とも。もう俺に構わないでよ」
 歩夕実は踵を返した。そのまま無言で部屋を出ようとする彼女の腕に、澪はおいすがった。
「ホントに、つかさをこのままほうっておくの? そんなの、あんまりじゃ」
 澪ちゃん、と歩夕実は瞳を閉じて言った。
「これ以上、私たちが何を言っても無駄さ。こいつの心は、何も求めちゃいない。何も受け付けようとしてない。こいつが己の力だけで立ち上がるか、それができずに負け犬になるか、ふたつにひとつだ」
 澪の腕を振り払うと、歩夕実は階下へと下り行く。階段を下る音もやがて消えた。
 澪は、湿った瞳で衙を見た。壊れた人形に似た肢体が、そこに転がっているだけだった。
 つかさ、と澪は何かを請い願うような声で訊いた。
「つかさはこのままでいいの。お姉ちゃんと真人を、助けたいとは思わないの」
 彼の沈黙は、否定の意思を感じさせた。
 澪は悔しさに肩を震わせて、声を張り上げた。
「つかさのバカ、意気地なし、臆病者! あたしは、あたしはあきらめない。絶対に二人を助け出してみせるから。だから、だから……」
 自分ひとりが喚き立てている状況に、余計に悔しさが込み上げてきて、澪は言葉を続けられなくなった。
(なんで、どうして。つかさは二人が帰ってこなくてもいいって言うの。今までの優しいつかさは、全部うそだったって言うの)
 それでは、姉に対して見せた好意も、全てが演技だったというのだろうか。生きている価値、とやらを得るための。
(そんなのってないよ。そんなのって)
 澪はいたたまれなくなった。今日だって姉は、彼の好きなトマト料理を作ると張り切っていたのに。母の見舞いを休んでさえ。
 澪は衙に向ける眼差しを一瞬強くすると、彼に背を向け、一階へ駆け下りた。数十秒後、階段を再び駆け上ってきた澪の手には、今日の夕飯になるはずだったマリネがあった。銀のバットに入れられた料理は、誰の腹に納まることもなく、作られた時の状態そのままだった。それを作った人物が、今はこの世界に存在していないなど、信じられるはずがない。
 澪はバットを、荒々しく衙の前に置いた。金属とフローリングの床が当たる音は、冬のように寒々しかった。
 食べなさいよ、と澪は言った。
「つかさが食べられる、お姉ちゃんの最後の料理かもしれないんだからね」
 衙から返ってくるものは何も無かったが、構わず澪は語勢を強めた。
「あたしは食べない。あたしは、お姉ちゃんが帰ってきてから、また作ってもらうから」
 澪は勢いよく衙に背を向けると、ドアノブを強く握った。
 つかさはいつまでもそうやってなよ、と彼女が吐き捨てるように言ったのと同時に、扉の閉まる音が部屋を震わせた。憤りに満ちたその音を最後に、静寂がゆっくりと訪れた。




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