第二十六話  「敗者の価値」


 家の中は一切の灯りが無く、人の気配も全く感じられなかった。何かがあったのだと、歩夕実は理解した。そして、自分が帰るのは遅すぎたのかもしれないと直感した。
 開け放されたままの扉。玄関に脱ぎ捨てられたスリッパ。作りかけの夕飯。
 何があったのかはわからない。しかし間違いなく何かがあった。
 歩夕実はリビングのソファに座ると、服のポケットから愛用のシガレットケースとライターを取り出した。パールウッド調のケースから煙草を一本抜き出し、口にくわえて火を点ける。心地良い苦味が体の中に広がる。
 ふうっと大きく煙を吐き出して、歩夕実は瞼を閉じた。彼女が気を鎮める時の、いつものやり方である。だが、今日の胸のざわめきは、収まるどころか強さを増しているように感じられる。
 歩夕実は点けたばかりの煙草を灰皿に押し付けると、下ろしたばかりの腰を上げた。どうにも落ち着かなかった。
 リビングの中を意味もなく歩き、スリッパの爪先でフロアをとんとんと叩いてみる。固く組んだ腕に、思わず力が入っていた。
 残された家の状態からして、息子たちが外に飛び出していったのであろうことは疑いない。いっそのこと探しに行こうかと彼女が思ったその時、玄関の鍵が開けられる音がした。
 リビングから廊下に飛び出した歩夕実の目に飛び込んできたのは、傷だらけの息子の姿だった。いや、実際には傷は殆ど見えなかった。彼の皮膚の大半は、彼の血によって覆われていたのだから。
 思わず息を呑んだ歩夕実をその視界に捉えて、衙は僅かに表情を変えた。が、すぐに視線を地面へと逸らせると、母のいる廊下ではなく階段の方に向かう。玄関を入って右手に廊下、左手に階段が並行するようにあるため、上る途中で歩夕実の隣を素通りする形になる。
「待て、衙」
 歩夕実の声に、二階へと歩を進めていた衙の足が止まる。返事は無い。ただ、全てを拒絶しているかのような空気が、彼を取り巻いていた。
「何があった」
 尚も彼は無言だった。歩夕実が言葉を続けようとした時、玄関のドアが再び開いた。飛び込んできたのは、彼女が一度会ったきりの、居候の女の子だった。飛び込んでくるなり、その声が家の中に響いた。待ってよ、つかさ。
「そんな大ケガほっといてどうするの。早く病院に行かなきゃ……」
 そこまで言って歩夕実の姿に気付き、澪は口の動きを止めた。歩夕実の意識もまた澪へと逸れ、それを感じ取ったのか、衙は沈黙を保ったまま階上へと姿を消した。待て、と歩夕実はもう一度声を荒らげたが、やはり返事は無かった。
 歩夕実は唇を苦々しく結ぶと、澪へと向き直った。
「澪ちゃん、教えてくれ。何があったんだ。栞ちゃんはどうした」
 澪は表情を見る間に曇らせ、何かに耐え切れないかのように俯いた。左の二の腕を押さえている右手が、微かに震えている。その下から除く、大きく裂け朱に染まった布地。
 歩夕実は眉根を寄せ、小さくため息をつくと、澪の頭に静かに手を置いて、静かに言った。
「とりあえず、怪我の手当てをしながら聞こうか」
 澪はこくりと、頭を縦に振った。

*  *  *

 衙は自分の部屋の壁に身を預け、ずるずると座り込んだ。痛みに全身が悲鳴を上げていたが、それよりも倦怠感が強いことが不思議だった。
 暗闇に満ちた部屋の中で、窓から差し込む月明かりだけが唯一の照明だった。時計の秒針が時を刻む音が、繰り返し繰り返しその空間を支配する。
 気付けば、いつの間にか彼の体は淡い光の中にあった。衙自身は殆ど理解していなかったが、月の移動が時間の流れを表していた。
 衙は気だるそうに右手を持ち上げると、月光に晒した。付いた血が乾いて、黒ずんでいた。白い光の中で、それは何処か嘘臭く見えた。
(……つかめなかった)
 指を一本ずつ動かしてみる。機械じみた動きが、虚ろな瞳に映る。が、見えているのは、映るものとは別の景色だった。
 伸ばした右手。金の光。届かなかった右手。闇に溶けた彼女の姿。空を切る右手。最後の彼女の表情。涙。届かなかった右手。つかめなかった右手。
(俺のこの手は、何もつかめなかった)
 望むものが多すぎたのか。初めから許されない望みだったのか。それならば今ここにいる意味など。
 糸の切れたマリオネットのように、その手はことりと床に落ちた。
 何だか疲れたな、と思った。だるい。しかし、眠気はなかった。体が全ての欲求を停止してしまったかのようだった。それは最早、何も必要ではないということ。必要とする必要すら失くしてしまった、そんな感覚だった。
 階段を、誰かが上ってくる音がした。足音は衙の部屋の前で止まり、続いて扉が二回ノックされた。それは衙の耳にとって、意味的なものを一切含まない、単純な空気の振動だった。聞こえはするが、理解することはできない。
「入るぞ」
 ノックをした歩夕実は、ドアを開けた。彼女の息子は、僅かにも反応する素振りを見せなかった。そんな衙の様子に表情を厳しくして、歩夕実は一息吐き出した。
 話は聞いた、と彼女は切り出した。
「これからどうするんだ、お前」
 おそらく返事は来ないだろうという彼女の予想通り、衙の口は静止したままだった。歩夕実は質問の矛先を変えた。
「栞ちゃんと、もうひとり――真人くん、か。魔界に連れ去られたそうだな」
 この言葉にも、指一本動かす気配すらない。
「聞いてるのか、衙」
 歩夕実は息子の胸倉をつかむと、強引に引きずり上げた。しかし、彼に反応は無かった。ただ歩夕実のなすがまま、されるがままに衙の腰は上がった。だらりとぶら下がった四肢は、まるで死体を相手にしているようで、歩夕実の背中を不快な冷たさが走った。
 歩夕実は怒りにも似た感情を、抑えることが出来ずに吐き出した。
「聞いてるのかって言ってるんだ!」
 その怒声と、彼女の掌が衙の左頬をはたいたのとは、殆ど同時だった。皮膚同士が強く打ち付けられる乾いた音が、短く響いた。つかんでいた服を歩夕実が手放すと、衙の体は勢い良く地に落ちた。はたかれた拍子に回った首は、その方向を向いたままだった。
 歩夕実は彼を見下ろしながら、言葉を投げかけた。
「いつからお前は、そんなに腑抜けになったんだ」
 衙の様子は、一向に変化がないように見えた。だから最初、歩夕実はその声に気づかなかった。時計の秒針の音にも負けそうな、か細い声。目を凝らさねば解らぬくらい微かに、唇だけが動いていた。
「……最初からだよ」
 歩夕実は息を止めた。
「最初から、俺は腑抜けさ。父さんとは違うよ」
 衙の声は、誰に向けられたものでもなかった。独白に似ていた。
「父さんみたいには、なれやしないんだ」
 自分のせいで失ったものは大きく、自分がいることで得られるものは少ない。それは、十年前から衙の胸の内に在り続けた方程式。
「単純な引き算だよ。誰でも解る――俺の代わりに父さんが死んだのは、間違いだったって。父さんの代わりに俺が生きてるのは、間違いだって」
 いつでも彼の心を苛んで止まなかったのは、彼が今此処に存在しているという事実。己の存在そのものが罪。
「そんなことない!」
 涙を帯びたような声に、歩夕実は振り返った。いつからいたのか、開いた扉の外側には、澪が立っていた。先刻、歩夕実が巻いた包帯の白色が、左腕にまぶしい。
「つかさは……つかさは、あたしを助けてくれたもの。お姉ちゃんとあたしを助けてくれたもの。つかさが生きてるのが間違いだなんて、そんなこと絶対にないよ」
 衙の体は相変わらず石像のようで、月明かりを静かに浴びているだけだった。澪に一瞥すらくれず、彼の口だけがまた微かに動きを見せた。
「父さんなら、もっと上手くやったさ」
 そうだ、と衙は思う。
 ――父さんなら、もっと上手くやれたんだ。俺が今までしてきたことの全て、できなかったことの全て。父さんならもっと。
()である必要なんて、どこにもなかった」
 奥歯を強く噛みしめると、歩夕実は息子を睨み付けるように見下ろした。
「いい加減にしろ。壮一が死んだのは、確かにお前のせいかもしれない。お前がそう思ってるなら、そうなのかもしれない」
 でもな、と歩夕実は続けた。
「それなら尚更、惚けててどうする。今まで、壮一の代わりを務めようとしてきた努力を全部、ここで無駄にするつもりか」
 澪は両手を握りしめ、つっかえそうになる言葉を懸命に絞り出した。
「そうだよ。今までつかさは、自分の命を危険にさらしてまで、たくさんの人を魔物から助けてきたんでしょ? だったらそれだけで十分じゃない。つかさのお父さんだって、今みたいなつかさを望んでないよ」
 澪にとってはひと月に満たない付き合いだが、彼はいつでも優しかった。彼が家の中で怒った姿を、澪は見たことがない。少し気弱で、時々間が抜けていて、ちょっぴり頼りない。でも、そんな衙の温かさは心地良いもので、姉にとってもそれは同じだろうと感じていた。だから、居候生活は楽しかったのだ。それは彼のおかげだと、今でもそう信じている。
「澪ちゃん、勘違いしてるよ」
 衙の顔が、初めて動いた。澪は身が竦む思いがした。真っ直ぐ彼女に向けられた視線には、一切の感情が無かった。
「俺はね、人のために戦ったことなんて一度もないよ」
 その口の()が、僅かに持ち上がる。
 彼は笑っていた。




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